ZIPANG-10 TOKIO 2020 ~日本一の炭酸泉~心臓胃腸に血の薬 長湯温泉療養文化館「御前湯」(その1)
昭和初期にはドイツで温泉療養学を学んだ松尾武幸博士は長湯温泉の泉質を研究し次のように称賛しています。
飲んで効き 長湯して利く長湯のお湯は 心臓胃腸に血の薬
現在の長湯温泉療養文化館「御前湯」夜景
3F 大浴場 大浴槽の左には好きな時にいつでも炭酸泉を飲泉できるように考えてある
浴槽の框の中央には温泉がオーバーフローして床で滑らないように框を切り欠いてある
「滔々と湧きいずる 長湯温泉 御前の湯」
長湯温泉の歴史
風土記の時代にさかのぼる長湯温泉の歴史
長湯温泉は、もともと湯原温泉といっていました。湯原温泉の歴史は「風土記」の昔(8世紀半ば)に、『二つの湯の川あり、神の河(寒川、のちの芹川)に会えり』と記されているその「湯の川」にさかのぼると考えられています。
藩営温泉「御前湯」の誕生(江戸時代)
長湯温泉は古い歴史をもつ湯治場ですが、入湯施設が整い始めたのは江戸時代になってからのことです。宝永3年(1706年)8月、この地を治めていた岡藩主・中川候の入湯宿泊の便をはかるために、温泉を取り込んだ御茶屋が建設されました。これが初めての藩による湯屋・御茶屋の建設であったといわれています。
昭和初期に建てられた御前湯。バルコニーのある洋館づくり。
その後、安永10年(1781年)に、中川寛得軒の設計、岡藩の普請による新湯(御前湯)が作られました。これが現在の『御前湯』の始まりというわけです。
長湯温泉の礎をつくった2人のキーパーソン(昭和初期)
現在の長湯温泉を語る上でキーパーソンとなるのが、御沓重徳と松尾武幸という2人の人物です。
御沓は、千有余年の歴史と類まれな泉質を持ちながら、山間僻地であるため広く世に知られることのなかった長湯温泉を日本一の温泉として世間に宣伝することに一生をかけました。
一方、九州帝国大学別府温泉治療学研究所に籍を置いていた松尾は、ドイツのカルルスバードで温泉治療学を学び、長湯温泉(炭酸泉)の効能を科学的に解明しました。長湯温泉の育ての親とも言うべき存在です。
御沓にとっては長湯温泉を広く世に知らしめるチャンスであり、松尾博士にとってはドイツでの研究成果を日本で試すことのできる絶好のチャンスだったというわけです。
昭和8年、当時の長湯温泉協会が作成したパンフレット
御沓は、松尾博士に励まされ長湯観光協会を設立し、初めてパンフレットの作成に着手しました。そのパンフレットには、『東方日本の長湯温泉、西方ドイツのカルルスバード』という言葉が見られます。
昭和初期という時代にもかかわらず、九州の山の中からドイツを見つめ続け、すでに世界を意識していたことがわかります。
久住山 阿蘇のさかひをする谷の 外は襞さへ 無き裾野かな 与謝野晶子
また、御沓は長湯を日本中に知らしめるためにと、野口雨情や与謝野晶子などの文化人を長湯に招く一方、昭和10年には松尾博士の指導で、自分の経営する旅館の庭に、ドイツ建築の洋館である共同浴場を完成させるなど、ソフト、ハード両面で長湯温泉の発展に尽力しています。しかし、2人の努力は結実することなく、戦争により水泡に帰すときが来てしまいました。(敬称略)
町づくりの歴史の集大成「御前湯」(昭和から平成へ)
昭和60年、入浴剤メーカー花王の炭酸泉全国調査により長湯温泉が「日本一の炭酸泉」(炭酸ガス濃度、温度、湧出量の3要素を総合して日本一)であることが証明され、御沓ら先人が叶えることのできなかった夢を引き継ぐ歴史的な挑戦が始まりました。
平成元年11月には、ふるさと創生事業の一環として「全国炭酸泉シンポジウム」を開催しました。炭酸泉の医療効果を論じる場に全国から400人の研究者が集い、「温泉療養の先進地であるドイツの温泉地に炭酸泉活用のノウハウを学んだらどうか」という提言がなされたのです。さっそくドイツ表敬訪問団(団長:故岩屋万一町長)が結成され、バーデンバーデンや炭酸泉で有名なバートクロチンゲン、バートナウハイムを訪れました。
さらに、平成4年には国際イベント「西洋と日本の温泉文化フォーラム」を開催し、ヨーロッパからの招待者を含む900人余りが集いました。
これらイベントの成功に後押しされ、以後、行政民間を問わず人材交流、文化交流が進み、これまで300人以上の相互訪問が実現しています。その展開はドイツワインの直輸入という経済交流にまで広がりを見せています。
これまでのソフト戦略とあいまって、飲泉文化定着のための飲泉場の建設などハード事業が進められ、平成10年10月には長湯温泉のシンボル施設として温泉療養文化館「御前湯」が誕生しました。ドイツとの交流で生まれた日独異文化の融合、そして半世紀以上も前から今日に及ぶまでの町づくりの歴史を集大成する施設ということがいえるでしょう。
まとめ
岡藩主・藩士の湯治に認められていた歴史ある温泉。昭和初期に温泉治療学の権威、九州帝国大学の松尾武幸博士をして「飲んで効き、長湯して効く胃腸心臓に血の薬」と歌に詠ましめ、炭酸濃度、湧出量、温度から「日本有数の炭酸泉」といわれた温泉。
九州初の“源泉かけ流し”宣言も行い、合併以前からドイツの保養温泉地との交流を行うなど、
町ぐるみで温泉の追究を行い、保養温泉地としての独自の温泉文化を生み出すに至っており、その大きな特徴としては、外湯めぐりの文化と飲泉文化。
温泉が藩主から庶民のものに移行しはじめた頃から、共同浴場や旅館、個々の家々にある内湯など、家の中にある内湯以外のすべての“外湯”に入る慣習が根付いており、今も外湯めぐり文化として継承。
また、炭酸ガスは胃腸の働きを活発にし、胃腸病や便秘に効くことから飲泉文化も地域に根付く。
来訪者にもこの文化を気軽に体感してもらうための飲泉場も建設。
長湯温泉
■源泉数:36
■泉質:炭酸水素塩泉・二酸化炭素泉
■源泉温度:24.6℃~52℃
■湧出量:16.1~290㍑/分
■効能:糖尿病・胃腸病・心臓病、飲泉は内臓系
■施設:日帰り温泉×12/旅館など宿泊施設×15/飲泉×29
※日帰り温泉と飲泉は休業中2軒を含む
続く・・・
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
竹田市 直入支所
〒878-0402 大分県竹田市直入町大字長湯8201番地 電話0974-75-2211
長湯温泉療養文化館「御前湯」
〒878-0402大分県竹田市直入町長湯7962-1 電話:0974-64-1400
長湯温泉観光協会
〒878-0402大分県竹田市直入町大字長湯8043-1 電話:0974-75-3111
(公社)ツーリズムおおいた
〒870-0029大分県大分市高砂町2-50 OASISひろば21 電話:097-536-6250
環境省
〒100-8975 東京都千代田区霞が関1-2-2 中央合同庁舎5号館 電話:03-3581-3351(代表)
紅山子(こうざんし)
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越後最古の温泉、出湯温泉
「大同四年(809年)、この地を訪れた弘法大師(空海)が、錫杖を地面についたら、温泉が湧き出てきたんだと…」出湯(でゆ)温泉に残る伝説です。
越後最古のこの温泉は、出湯温泉の華報寺(けほうじ)境内に今も渾渾と湧き続けています。
寺伝のほか、鎌倉時代にこの地を治めた大見氏の「大見文書(1283年)」にも、「白河荘猿田村并湯川条…」とあり、温泉が湧いていたことが分かりました。
出湯温泉の華報寺(けほうじ)
修験道は、今からおよそ1350年前 飛鳥の時代、役行者(えんのぎょうじゃ)により開かれた「実修実験の道」です。山伏は、全国各地の名だたる険しい山々を歩き厳しい修行を積む
天然の温泉が湧出する山懐は、山伏・禅僧の修驗場として山中深く関わること多く、この方々は神仏への帰依のみならず、山中での汎ゆる危険から身を守る自己防衛術から地理学、地質学、古伝医術、温泉の薬理学的知識も備えていました。
寺院には温泉の浴堂が設けられ、此処で精進潔斎して修行に入ったそうです。(ちょっと贅沢? ・・・突如天声轟く「この罰当たりメ‼ 思っても口に出すな〜ッ」ハイッ!…思っただけなのに…)
日本各地には「温泉寺」・「温泉神社」が残っていますが、温泉そのものが今も境内の中に「寺湯」の形として残っているのは全国的に見ても珍しいそうです。
いにしえより続く出湯温泉の歴史は深く、沢山の出来事があったのでしょう。興味深い逸話では、鎌倉時代には「温泉税」なるものが納められている記録や、またある古文書には、温泉に入る順番で争いが起こったことなどが記されています。
また江戸時代に出された、相撲の番付表を模した「諸国温泉番付」には、出湯温泉は「出湯の泉」として載っています。(新潟県は5か所あり。)
明治時代に入りますと、それまで江戸時代幕府の天領であった華報寺の温泉は払い下げとなります。そこで出湯温泉住民・宿屋5軒・華報寺の七軒で株式会社「漲泉窟(ちょうせんくつ)」が設立されます。この7軒は「七軒衆(しちけんしゅう)」といい、現在も続いています。
出湯温泉の評判は名高く、昭和時代には、ガラスの一斗瓶などに温泉が詰められ、遠くは北海道まで送られていました。五頭の麓のくらし館には、当時実際に使われていたガラス瓶が展示されています。
戦時中は、出湯温泉の各宿が陸軍病院の分院としての役割を果たし、負傷した沢山の兵隊さんの傷を弘法大師の温泉が癒したのです。
その時の分院名の一つ「靜山寮(せいざんりょう)」の看板は現在、出湯温泉「清廣館」のロビーのギャラリーに展示されています。
清廣館本館 国指定登録有形文化財(建造物)
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020~弘法大師の錫杖から湧き出た「秘湯 五頭温泉郷」〜それは越後最古、出湯温泉のお話です(その1)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/8700271
薬師如来が見守る 五頭温泉郷 村杉温泉
薬師如来は正式には薬師瑠璃光如来といい、東方に位置する浄瑠璃浄土の教主です。藥師如来は人びとの病気や災難を除き、健康と幸福を与えてくださる仏様として信仰を集めています。
村杉温泉の開湯は室町時代
村杉温泉は、新潟駅から車で50分、新潟平野のはずれ、霊峰五頭山の麓に位置する五頭温泉郷の3つの温泉の中の一つ。
村杉温泉のお湯は室町時代、 前述の通り、元足利藩尾張国浪士の荒木正高がご当地に逗留した際、薬師如来の霊夢を見続け、当温泉を発見したとの伝承です。
荒木正高は、温泉地の傍に薬師堂を建ててその後は従者とともにこの地に永住し、植林農耕に励みました。 また、仏の恩に報いるために薬師堂の参道に松、杉、楓、欅を植えました。これが元となって、その後に杉を更に植林されてから「杉の多い村」として「村杉」と呼ばれるようになったのだそうです。
湯治が始まった 江戸時代
徳川綱吉が将軍の頃、宝永四年(1707年)、「新発田藩主溝口元候村杉へ湯治」と古い文献にもあり、その頃から近郷の湯治場として人が集まるようになりました。
明治8年(1875年)には、明治維新で活躍した遠藤七郎が村杉の湯の効能を認め広く世人に知らしめようと、村人の協力を得て、浴場の改造を計り、その基盤を作り今日の繁栄に至っております。
現在の村杉温泉
「村杉温泉」のある五頭温泉郷は、源泉の泉質、湧出量や自然環境、まちなみ、歴史、風土、文化等が認められ、環境省より健全な保養地として国民保養温泉地に指定されています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 五頭温泉郷に渾渾と湧き続ける不老長生の湯ありき ⁉〜薬師如来御利益の伝説をもつ 『村杉温泉』のお話〜(その2)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/8721674
神秘的な景観と伝統に包まれた
現世と神の世界を結ぶ五台橋
湯の里 上田市「鹿教湯温泉(かけゆおんせん)」
新緑の頃
湯坂の五台橋とは
勾配と距離が歩行運動のリハビリに最適な「湯坂」。この坂の中ほどを入ると共同浴場が有り前が温泉湧出口跡です。坂を下りきると内山川へ。趣のある屋根付きの橋が、五台橋です。この橋は、現世と神の世界を結ぶ橋として知られております。
勇気を出して思い切って、現世と神の世界を結ぶ橋「五台橋」を渡る・・・
46段の石段を登り、夫婦杉の間を通り抜けると、優しいお顔の石仏のお出迎えに何故か⁉ほっとします…中でも天井に描かれた龍が見事です。まるで生きているような姿に、夜になると川へ水を飲みに抜け出ていったとの言い伝えも。その折に切られたという首の傷跡が、一層の真実味を増しています。
五台橋の雪景色
「秋の日は釣瓶落とし」と申しますが、山里の冬は早くやって来ます・・・
一夜明ければ別世界です。そんな時は温泉が恋しくなるものです…囲炉裏を囲んで春を待つ
春の足音に山里の人々は、お爺ちゃんも、お婆ちゃんも、お父さんも、お母さんも、子供たちも、孫たちも一斉に外に飛び出し、待ちに待ったお祭り『文珠堂春祭り』に興じるのです・・・
編集後記
ドイツ各地には国立、州立、市立、私立等の健康保険にて利用できる温泉を活用したクアハウスがあります・・・