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幕末島津研究室

慶喜は嫌われ者だった

2026.04.12 08:00

文久の改革 

 幕末の改革で重要なもののひとつに、文久2年(1862)に行なわれた「文久の改革」があります。

この年、島津久光が率兵上京をして「一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老にせよ」という勅命をとりつけ、勅使大原重徳がしぶる幕府とハードネゴを行なって、勅命を呑ませました。

慶喜・春嶽の政治復帰および京都守護職を新設して会津藩主松平容保を任命した「人事改革」に、幕府や大名に関する諸制度を変更した「制度改革」をあわせて「文久の改革」と呼ばれます。

「制度改革」を行なったのは、新設の政事総裁職(職務は大老と同じ)についた松平春嶽でした。

そのおもな内容は、

1.参勤交代の緩和(隔年から3年に1度に変更し、滞在期間も100日に短縮)

2.正室世子の江戸拘束を解き、帰国を認める 

3.式典・服装・文書の簡素化 

4.洋学研究の推進 蕃書調所を洋書調所にし、海外留学を新設

5.軍制改革で陸軍を洋式に変え、兵賦令発布

6.京都守護職新設

で、このうち1と2は大名の財政負担を軽減して浮いた費用を国防費にあてるべきという、島津斉彬の持論に沿ったものでした。

東大史料編纂所教授だった山本博文氏の著書『江戸時代を[探検]する』によれば、参勤の年は大名の出費のうち5~6割が参勤交代費用で、2割ぐらいを江戸での生活費、残りの2割が国元での生活費あるいは政治に使うお金という状況だったので、支出の中で大きなウエートを占める参勤交代と妻子の江戸居住を簡素化すれば支出は大幅に軽減され、国防費が捻出できるというもくろみです。

斉彬は4年前の安政5年(1858)に亡くなっていますが、存命であれば春嶽を手助けしたはずです。

この改革について、旧幕臣の福地源一郎は次のように酷評しています。

春嶽氏総裁にて行なわれたる幕府の改革は如何なる事になりしかと観れば、
諸向より失政への贈物を止め、
大名火消を廃し、
御茶壺の上下(あげさげ)を簡易にし、
文書の繁縟(はんじょく)を省き、
評定所の誓詞を廃し、
月次御礼を止め、
衣服の制度を略し、
大小名の共連を省きたる等にありけるが、
詰る所は陳腐の旧套を襲いたる改革にして、観るに足るべきものなきが上に、
幕府の政略には最も緊要なりける武家の秩序・格式・礼儀は、これがために一時に破毀せられたるが故に、
将軍家の尊厳は、この時よりして大いにその威光を墜されたること、争うべからざるの事実なりき。 
【福地源一郎『幕府衰亡論』平凡社東洋文庫】 

福地は、春嶽の改革は陳腐なもので見るに足るようなものはなかったが、「この改革が将軍の威光を失墜させて、幕府滅亡の種をまいた」と、文久の改革の悪口を言っています。

福地は幕臣だったので徳川家第一に考えたのでしょうが、春嶽は親藩でありながら、徳川家よりも日本国のことを優先してこの改革を行ないました。 


松平春嶽(国立国会図書館デジタルコレクション)


ここで気になったのが、将軍後見職に任命された一橋慶喜の動きです。

というのも、久光の働きによって両者が同時に幕府の要職についたにもかかわらず、制度改革を進めるにあたって慶喜の名がまったく出てこないからです。


慶喜はどうしていたか

では、慶喜は何をしていたのでしょうか。

調べていると、明治42年の昔夢会でこのようなやりとりがありました。

質問者は『徳川慶喜公伝』の編集にあたった井野辺茂雄です。

井野辺 後見職という御職掌について伺います。
後見職と申します御職掌は、将軍家の後見をなさるもので、朝廷で申しますれば摂政のごとき者に当ると思いますが、将軍家に代って一切の政(まつりごと)を御裁決になる御機能を持っておいでになりましたのでございましょうか。
 公(慶喜) それは後見職の名義から言えば、そういうふうに相違ないが、しかしその節の後見職はそういうわけでないので、いろいろそこに事情がある。(中略) 
 まず早く言うと、閣老なら閣老、目付なら目付、三奉行なら三奉行を召して、たいがい腹が決まった上で……。 
井野辺 御相談で……。
公 形は御相談だけれども、実は同意させて、後見・総裁の名前を出して行おう、そうすれば朝廷も何もおっしゃらない、諸大名もお受けをするのがよかろうという考えのようだった。(中略)
井野辺 政事総裁職などは、現在の総理大臣の意味でありましょうが、総理大臣だけの権限はお持ちになっておらぬのでございますか。 
公 実権は持っておらぬ。 
井野辺 ただ形式だけでございますか。 
公 ただ形式だけだ。是非置くと(朝廷が)おっしゃるから、それを置いてこちら(幕府)の都合になるようにというわけだね。 
【渋沢栄一編 大久保利謙校訂『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』平凡社東洋文庫】 

 何のことはない、朝廷の命令なので仕方なく受け入れたが、実権は持たせず名目だけの存在にされていたようです。

春嶽はそれでもがんばって文久の改革を行いましたが、慶喜の将軍後見職は老中以下の協力が得られず、名ばかりの存在だったと語っています。

早くいえば「蚊帳の外」に置かれていたのです。


嫌われ者だった斉昭と慶喜

ではなぜ慶喜が疎外されたのか?

一言でいえば、「みんなに嫌われていたから」です。

その原因は実父斉昭にありました。

慶喜を将軍家定の世子にして幕府を立てなおそうと安政4年(1857)から翌年にかけて行なわれた幕府改革運動、いわゆる一橋派の運動のことを、旧幕臣の戸川残花がこう語っています。

一橋公(慶喜)を養君に為し参らせんと計るに当り頗る困難なりしは、元来一橋公の実父水戸前中納言(斉昭)の人と為りが将軍を初めとして幕吏の好む所ならず。
烈公は非凡の人なりと雖も有徳にして春風の温然たる君にはあらず。
寧(むしろ)秋霜烈日の国君なり。
特に家風の勤王論が余りに耳立ちし事も多く、其子の一橋公をして養君となさば如何に幕府をば搔き廻さんかとの杞憂はありしならん。
戊辰の当年すらも慶喜公は江戸に於て一般の人望は薄かりしなり。 
【戸川残花『幕末小史』人物往来社 幕末維新史料叢書10】

要するに実父である水戸斉昭が、過激な言動で幕府の役人たちから毛嫌いされていたため、慶喜が将軍の世子となって江戸城に入れば、斉昭も乗り込んできて引っかき回すにちがいないと、嫌がられたのです。 

旧彦根藩士の石黒務も、松平春嶽から聞いた話として、「当時の現状は、将軍家を始めその奥向きも総て水戸家を嫌うと共に、一橋卿を忌むこと蛇蝎の如く」と語っています。(石黒務「松平春嶽卿極密話を筆記するもの左の如し」『旧幕府 第四巻第参号』)

幕吏だけでなく、家定将軍も大奥も、皆が斉昭とその息子である慶喜を嫌っていたというのです。

将軍後見職になったときの将軍は家茂でしたが、幕吏や大奥の慶喜に対する嫌悪感は変わっていませんでした。

慶喜は将軍になってからも江戸での人望がなかったと書いていますから、一度固まったイメージは変えられなかったようです。

前々回の「斉彬はなぜ名君になれたのか?」で、寺島宗則が斉彬から、「いくら良いプランがあっても、日ごろの交際を通じて、お互いの気持ちが分かり合えていなければ協力が得られず、実現できない」と言われた話を紹介しましたが、コミュニケーションを大切にして、人に嫌われないようにしたいものです。