1986年8月
開かれたドアをくぐり、車から温い夜の空気に降りる。すぐ前にそびえるアパートはひび割れた外壁に屋根からぞろぞろとツタが這い、かろうじて街灯の光を受ける階段も錆びて赤茶く、重く湿気ていた。ドアハンドルを持って立つ下員に片手を挙げ、一人最奥の部屋へ向かった。鍵を開けさせるのが億劫かと思ったが、目的のそれはすでに薄く開いて、照明の光が漏れ出ていた。
狭い土間から、部屋の中へ靴跡が続いている。異臭をわずか感じながら後ろ手に扉を閉めて、ならば良いかと靴を脱がずに上がった。砂と埃にまみれたフローリングの台所は暗く、奥の和室に蛍光灯が点いている。視線をさまよわせるまでもなく、目的の男はそこに居た。まるでこちらを見張るように、玄関を向いて横たわっている。
「よお」
靴底がごつごつと床を打ち、ぐしぐしと畳を踏み潰す。簡易ベッドに体を置く男を一度見下ろしてから、部屋の中を見回した。合わせて八畳にも満たない室内には、ベッドの他には家具もなく、布団すらなく、開け放たれた押し入れの中に何かビデオテープやDVDが数点積まれているが、テレビやデッキの類もなかった。所々剥がれた壁紙は黄色く痛み、天井の板材は白く黴ている。物置のようですらない、ただ男がその身を放っているだけの、荒れた容れ物だった。
「起きてるか」
膝を折り、男の横にしゃがむ。床に尻をつけるのは厭わしい。
男の顔に重たく髪の毛がかかっている。顎下まで伸びた髪は数日洗われていないのか、固まって海藻のように顔を覆っていた。指でつまんで除けてやると、砂のような面の中で瞳が俺と目を合わせ、揺れた。皮が剥けて、血の滲んだ唇がかすかに息を吐き、しかし何も述べなかった。
携帯電話を取り出し、車に待機する部下たちに帰るよう伝えた。再び電話をしまってほどなく、遠ざかっていくエンジン音にぼんやりと、耳を澄ませた。
見つめても意味のない顔から、肩、腕、曲げられた肘、その先の手を辿る。厚く巻かれた包帯もどこか汚く、適切な自己ケアをしていないことが一目で分かる。
あれからどれくらい経ったのか。自分にとっては刻まれるほどのこともない日だった。おそらくこの男にとってもそうだろう。自分達の間にかつて流れていた時間は随分前から止まり、死んでいる。ゆっくりと死んだのだ。日一日ずつ。再生の光を浴びずにいたために。
男の手を取り、テープを引き剥がして包帯を解いた。白線が蛇のように床にとぐろを巻いても、男は抵抗も、身動ぎすらしない。小指があった場所の根元にへばりついているガーゼをむしり取ると、白と赤のまだらが膨れる、不格好な肉がそこにあった。抜糸までは処置を受けたことが分かり、少しだけ肩の力が抜ける。
「痛くない」
ようやく、男が声を出した。顔に視線を移すと、下瞼を膨れさせて目で笑っている。
「嘘つけ。右も落とすか」
「ほんとうに、痛くない。でも、いいよ。今度は、兄弟がやってくれるなら」
喉を空気が抜ける、ひゅう、ひゅうという音がする。こんな風に笑う男だったか、と思い、すでに分からないのは笑い方だけではないことを自分に説いた。指を落とした時の、些末な約束を思い出させてやった時の綻んだ表情が、男の不可解さを決定的なものにしていた。
どうして、この男はこうなったのだろう。
己の来してきた道を考える。自分は至極単純だった。こうありたいと願い、それに従って頭を、体を進めてきた。それだけだった。それ以外のことは何もなかった。男も知るかつての自分のほとんど直線上に今の自分がある。自覚の上ではそうであった。己の思う形をただ成形してきたに過ぎなかった。
男についてきてほしいと言ったこともないが、何も言わずとも隣を歩き続けたので男の進む道も並行しているのだろうと思っていた。いつからか、男の歩みがおかしくなった。俺は構わなかった。自分の見る先には自分がたどり着けば良く、男には男の望みがあり、同じ所へ向かう必要などなかった。それでも、転び、遊び、時には長く倒れても、男はどうしてか俺と同じ方へもつれる足を動かした。その姿はみっともなく、憐れだった。
脱力した手首を掴み、反対の指で傷口の近くに触れた。まだ未完成な肉芽を避け、指の付け根の丘陵を、小指から人差し指へ、ゆっくりと辿る。一、二、三、四。到達した端を降りて、親指の股に差し込んで遅く抽挿する。関節が一枚のひだを乗り越えるのを数度繰り返してから、爪で人差し指を撫で上げ、形を知りながら撫でおろし、中指との間をまた擦る。それを薬指まで行って、掌に滑る。乾ききった表面と、僅かばかりの俺の水分がなじむ。指先で深い線をなぞると、手首の腱に震えるように力が張った。男の喉で息が途切れる。俺はそれを見ず、甲に指を回して、骨の形の一本一本をねぶった。皮膚と皮膚が擦れ合い、ざらざらとした無数の感覚の粒子が、俺の指の先と、男の不具となった手に散りばめられる。男が下肢を縮こまらせたのを機に、爪をきつく食い込ませると短い呻き声が聞こえた。
「なあ、兄弟。ここで落ちてもいいぞ」
自分の声が、思ったよりも低く、頭の中に反響する。
「これを手切れにすりゃ言い訳がつく。もう、良いだろう」
手を引き寄せて、小指側の側面に歯を立てた。老廃物のにおいが口と鼻とに入り込む。
男はじっと俺を見ていた。充血した白目には涙の膜が張り、色のなかった唇はいつからか噛み締めていたようで、濡れて膨れていた。
下顎を左右に動かして歯を食い込ませていけば、やがて男の顔が痛みに歪んだ。痛覚がある。まだ、こいつにも。それを確かめて放してやると、男はゆっくりと、体を起こした。
答えを待った。もしかしたら出せないかもしれない答えを。もしそうならば自分が決めてやるのが、せめてもの、知己としての最後の心遣りだと考えた。
「あと、何があったのかな」
暫くしてから男から出てきた言葉は、俺の想定していた箱に収まるものではなかった。一瞬、怖気のような怒りが沸いたが、男はふと押し入れに顔を向ける。その視線をたどると、部屋に入った際に見留めたビデオの類があった。色褪せたケースの背のタイトルを読む。覚えのある書体だった。昔何度も見た映画であった。
その上に重なるタイトルも知っている。その上も、下も。DVDはレンタル落ちのものもあった。映像機器のないこの部屋でただ存在するだけの作品達は、あのヤニ臭く、色のくすんだ部室に俺が置いていたものの一部だった。吸い込んだ息が今ここに無い匂いを呼び起こして、記憶と視界が重複し、三半規管が狂ったような吐き気が胸を突いた。
重くなった頭で男に目を戻す。同じ糸で引いたように、男も俺をこちらに顔を向ける。その表情が、淡く崩れた。
「思い出せないんだ。教えてくれないか。あと、何が」
それ以上男の出す言葉を聞きたくなくて、口と鼻を覆うように掴んで引き寄せた。額同士が強くぶつかり、衝撃に揺れる脳に思考をやってしまって、掴んだ手をうなじに滑らせて空いた唇に嚙みついた。兄弟の口の中はねばついていて傷や髪と同様、清潔からひどく遠い味がした。それでもそこに食らいつかなければならなかった。
己の来してきた道と、兄弟の道は別であるはずだった。別であるべきだった。俺と兄弟は違う人間だからだ。それが揺らいではいけなかった。そう思うことが唯一、俺が兄弟にできることだったからだ。
簡易ベッドがきしんで、まるで金属の鎖が擦れるような音を立てる。自分と兄弟はまぎれもなく同じ地獄に落ちるのだと、俺だけに訴えるような音だった。汚い息が混ざり合って、汚水のような唾液を垂らして、それでも救いには遠く及ばなかった。
兄弟、お前はどうして知れなかったのだろう。お前の往く道はここでなくて良かった。あるいはどうして、知らせてくれなかったのだろう。お前がこんな場所を作っていたことを。
胸に強い痛みが走り、息を詰まらせて引いた俺を、兄弟は見ていた。片頬を綻ばせた、子供のような笑顔で。