苦しみとは
facebook長岡 美妃さん投稿記事
「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」
戦国武将 山中鹿之介の言葉である。この意味について考えたい。
ニーチェの言う「運命愛」とも少しニュアンスが違う。
ここに西洋文明と日本文明の違いをみるが、それは現実の中で「自分」を独立させているか溶け込ませているかの違いであろう。
「自分」が独立していれば、現実は受け入れ愛する対象となる。能動的に愛することで自由を獲得しようとするのが「運命愛」である。
それに比し「自分」を溶け込ませている、つまり現実すべてが「自分」であれば、現実で起こる七難八苦は反転のチャンスと化す。そこには日本独特の「間」の感覚が働くのだが、圧縮が強ければ強いほど「間」が広がる。その「間」はまったく違う次元に運びゆくワームホールのようなもので、目の前の現実はなにも変わっていないのにワームホールを通過した者にはすべてが変わっていることが認識できる。
鹿之介はそこにチャンスを見出したかったのだ。それ故、三日月を見上げ「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と祈った。
この感覚は因果論理では理解できないものである。では縁起では理解できるかと言えば・・・鹿之介は縁起の枠すらも超えている境地だったと思わずにはいられない。
ここで思い出すのが以下の言葉である。
「災難にあう時節には、災難にてあうがよく候。死ぬる時節には、死ぬがよく候。
是はこれ、災難をのがるる妙法にて候」――良寛
facebookOSHO Japaneseさん投稿記事
愛する者がいなくては、私たちは空っぽだ。うつろだ。ネガティブだ。
私たちの存在の中に神性さが入って来ない限り私たちの存在の中で神性さが開花しない限り、
私たちは本当の存在ではあり得ない。私たちは影であり続ける。そしてそれは痛みに満ち、苦痛に満ち、疼く。それは傷のようだ。Osho
草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)
不生の仏心
江戸時代の禅僧に盤珪永琢(ばんけいようたく)という人がいます。だれもがわかるような易しい言葉で道=「不生禅」を説き、ファンが多く弟子も5万人もいたと言われています。
不生禅とは、人には生まれながらにして仏心が存在しているので、特別な修行や信心を必要としないという考え方に基づいています。
仏心は「不生不滅」であり、つまり生じることも滅することもないというのです。盤珪は、形式的な座禅修行より、日常生活そのものが禅であると説きました。
彼の教えは、日常の中で「不生の仏心」を意識することが重要とされおり、特別な修行を必要としないため、広く受け入れられました(盤珪自身は、長い修行の末に「不生で一切事が調う」という境地を得たといいます)。
盤珪のエピソードとしてこんな法話が残っています。
「嫁が憎いの、姑が憎いのと、よくいわっしゃるが、嫁は憎いものではないぞ。姑も憎いものではないぞ。嫁があの時ああいうた、この時こんなきついことをいわしゃった、あの時あんな意地の悪いことをしなさったという、記憶が憎いのじゃ。
記憶(とらわれ)さえ捨ててしまえば、嫁は憎いものではないぞ。姑も憎うはないぞ」。
朗らかというのは、心が自由なことなのですね。嫌なこともいいことも、どんどん手放して、ただ「今」だけに集中する・・・。
一日一日、いっときいっときが尊いのです。
facebook赤塚 高仁さん投稿記事
古来から私たちヤマトの人々は 「お天道様がみているから」 「お天道様に恥じないように」「我が事さておき人様に」 と、だれもいないと思っていても、自分の中の良心がずる賢い自分を見ていて、許さない民族性があるのです。
一神教の神様を出現させなくても、創造主が命令しなくても、草や木にも、山にも岩にも神様が宿っておられ、自分の良心に語りかけるのを聞くことができる民族なのです。
https://ameblo.jp/seishomandan/entry-12903403006.html?fbclid=IwY2xjawKTiNFleHRuA2FlbQIxMQBicmlkETE3cmxqeG5QeW5VQU9TYW5vAR5Vsm1jBVBF0MCe9KFIgAsKTIk22ZxWAzvqkHA5xeXrhkKiOrkuhKeC8PguoA_aem_pVFIDmQ58EwOCLetQAOvMg 【我が事さておき人様に、自分を勘定に入れず生きよう】より
このごろ、ふつうでない事件が続発しています。
ふつうのひとが、いきなり人を殺してしまうような事件が新聞に載ります。
「まさか、あのおとなしい人が あんなことをするなんて」などと、近所の人の声が載ったりしますが、おとなしくても、その人は感覚が異常なのであり、まともな感情が欠如しているのです。
人との交わりの中で関係性や、つながりを構築して社会の中で生きてゆくのが人間です。
子供は家事を手伝う中で、生きることを覚えてゆきます。
ところが、いつからか子供は勉強優先、いい成績をとって、いい大学を出て、いい会社に入れば一生安泰という風潮ができてしまったようです。
津の駅のまわりには、塾の建物がいっぱいあり、送り迎えの車で大変な混雑です。
学校に行かない子供もものすごい数なのだそうです。
友達や、嫌な奴との交わりの中から社会というものを学び、自分の立ち位置を見つけてゆくはずの場所がもはや機能していないということでしょう。
家事を手伝うなどといった余計な時間があるのなら、勉強しなさいということなのかも知れません。
しかし、生活の中で体感したものでなければ、本当の生きた勉強とは言えないのではないでしょうか。
ものを記憶できても、応用もできず、感情のない人間になってしまいます。
感情のない人間というのは、自分のことには敏感です。
自分が不愉快なことに対しては、ものすごく敏感です。
しかし、人にどれほど不愉快な思いをさせているかについては、まったく鈍感です。
人として最低です。
本人が苦しいのは当然なのです。
苦しみとは、「私について考えていること」だから。
古来から私たちヤマトの人々は 「お天道様がみているから」 「お天道様に恥じないように」「我が事さておき人様に」 と、だれもいないと思っていても、自分の中の良心がずる賢い自分を見ていて、許さない民族性があるのです。
一神教の神様を出現させなくても、創造主が命令しなくても、草や木にも、山にも岩にも神様が宿っておられ、自分の良心に語りかけるのを聞くことができる民族なのです。
だから、たとえ無意識であっても自分の良心が許さないことをやりつづけていれば、いつか精神がおかしくなって当然です。
そんな人がだんだん増え続けて、日本はもう危機的状況を迎えているように思えます。
去年一年で、「孤独死」は7万人と報道しています。
引きこもりが145万人。
日々の生活の中で、身近な人を喜ばせ、自分自身のこころを磨き続けていこう。
誰がどうであろうと、世の中がどんなでも、自分だけはどんなときも、日本の役に立っていたいという気構えを持って生きていたいものです。
今日も生かしていただいて有難うございます。