ショパン、ワルシャワから父ニコラの怒り
父ニコラは相変わらず最高に悪がいるパリにいるフレッデリックを心配していた。
ショパンはデビュー演奏会でニコラからの仕送りは使い果たした。上流階級の令嬢のレッスン代金も微々たるもので支出に見合う収入には全くならなかったのだ。
ショパンにあるのは借金だけだった。
ニコラは息子が今までも節約できなかったのだから、これからも同じであろうと思った。そして、異国でフレッデリックが病気にでもなったら、それほど惨めなことはないと、子供の頃かっら体が弱かったフレッデリックのことがたまらなく心配だった。
それなのに、更にイギリスへ亡命しようとしているフレッデリックに父ニコラは、
パリで駄目なものはイギリスへ行っても駄目だから、行くのを辞めるようフレッデリックに説教をした。
しかし、ニコラが一番腹を立てていることは、フレデリックが生真面目で人を敬い控えめでありながらも才能があることをいいことに、出版業者やカルクブレンナーなどが人の心を踏みにじるような行為をしてフレデリックに金を払わないことであった。最近のフレデリックはオペラ「悪魔のロレール」の主題による協奏的大二重曲をシュレンガーの注文通り書いたが、その後、ショパンの協奏曲ホ短調が出版された。そして、練習曲作品10も出版されたが、それはリストへの献呈となっている。その一連の流れをのことを父ニコラはカルクブレンナーが息子フレデリックに「カルクブレンナーは自分の欲望のままにフレデリックに不誠実を働いた」と激怒したのだ。
そして、ニコラはショパンが少年頃、カルクブレンナーがワルシャワに来たことがあったことを思いだしていた。カルクブレンナーがたとえこの先、ワルシャワにまた来るようなことがあってもニコラは絶対に彼には会いたくない、その理由は「カルクブレンナーへの怒りの感情を隠すことは私は出来ないからだ」と言った。
そして、ノクターンとマズルカ作品9と作品6、7がライプチヒで出版し完売した。
近日ワルシャワでも再版され売り出されることになっていたのだが
ワルシャワに写しが届くのが遅すぎたのだとフレデリックに話した。
つまり、ハスリンガーも、シュレンガーも信用ならないと父ニコラは言うのだ。
だから、ホ短調コンチェルトの写しを出版する前にワレウスキという貴族の従弟をパリに行かせるから彼に印刷したホ短調コンチェルトを持たせるようにショパンに言った。
それを妹のイザベラが弾いて覚えさせ確認させるとニコラはショパン伝えた。
そしてフレデリックに仕送りで家計が苦しくなっていることを「姉ルドヴィカにはピアノをまだ買ってやれないのだよ」とフレデリックにニコラは話した。
rue de la Chaussée-d'Antin (1830年頃)ショセ=ダンタン通りは、パリ9区にある通りを呼ぶ。ショパンは1833年から1836年まで住んでいた。
18世紀の後半にはショセ=ダンタン通り沿いにいくつもの大邸宅が立ち並んでいたが(現存しない)19世紀に入り、商業が発展し邸宅にブティックや店舗が入るようになった。
この5番地のショパンの住む部屋はリストなど作曲家の集まりの場所となっていた。
小説家バルザックはこの通りを「パリの心臓はショセ=ダンタン通りとフォーブール・モンマルトル通りの間で鼓動を打つ」と言った。