新世界紀行 エジプトの旅33 鳩料理 2025.05.20 08:13 「気をつけてください。踏んじゃう」Kさんが小声で言った。細い路地には、まるで誰かの記憶の断片のように、ラクダの落とし物---フンがあちこちに転がっていた。ぼくらは、それを避けるように慎重な足取りで歩いた。乾いた埃の匂いが夜の風に混じり、鼻をくすぐる。通りに出ると、静寂に沈んだ町に、外国人向けのバーとカフェのネオンだけが灯っていた。小さな商店も、あのケンタッキーまでも、シャッターを降ろしていて、ぼくらだけが取り残されたような気分になった。「ほんとにここで合ってるのかな?」KさんがGoogle マップを確かめる。フロントマンに教えてもらったレストランは、商店のような目立たない入り口だった。だが一歩足を踏み入れた瞬間、まるで別世界に迷い込んだような錯覚に包まれた。アラビアンナイトの一節をそのまま写したような、絨毯とランプと、あたたかなオレンジの灯り。ぼくらは、思わず微笑んだ。店員たちは黒のベストに蝶ネクタイで、少し背筋が伸びるような空間だった。異国の格式に不慣れなぼくは、すこしだけ戸惑って立ちすくんだ。「大丈夫、値段はそこまで高くないみたい」Kさんが、テーブルに置かれたメニューを指差しながら微笑んだ。チキンのセットが、スープとライス付きで千円ほど。心配は杞憂だった。「鳩、あった」Kさんが目を輝かせる。グーグル翻訳を駆使して、彼女は注文時に何度も確認していた。「これは鳩ですか? 」と。周囲には観光客らしき家族連れ、欧米の年配カップル。遅い時間だったが、店内にはまだ活気があった。ぼくらが最後の客になるかと思ったが、次々と人がやってきて、店員たちは忙しなくテーブルを回っていた。やがて料理が運ばれてきた時、ぼくは一瞬、息を呑んだ。鉄板の上で音を立てるチキンステーキ。ライス、ナン、スープ。どれもが鮮やかで、異国の香りが湯気の向こうからふわりと立ち上っていた。Kさんの鳩料理は、まるでクリスマスディナーのように丸焼きされ、小さな体に詰め物がぎっしりと詰まっていた。彼女がナイフを入れると、中からは黄金色の炒めライスがほろりとこぼれ出した。「すごい……想像してたよりずっといい」Kさんが目を丸くして笑った。「本当に食べたかったから。」ぼくはぼくで、あまりのチキンの旨さに、「うまい……」は無意識に呟いていた。フォークとナイフなんて、日本でもあまり使わないのに、今夜は妙にしっくりきた。これがエジプト最後の晩餐かと思うと、なおさら味わい深い。またいつか、来れるかな。心にそんな思いが流れていった。微笑みながら、少しだけ吐息を漏らす。そういう、二度と来ない瞬間のことを、旅はそっと胸に刻んでいく。もう二度と、、、というその響きが、なぜこんなにも切ないのだろう。ぼくは何を求めて旅をするのか。明日でいいや、とそんな簡単に明日に事を押し付けられる日常から離れて、今、この時、この瞬間を掴もうとしているのかもしれない。このレストランを出たら、実はここは新宿や池袋あたりなのかもしれない。ぼくらは駅へ向かって電車に乗って帰るのかもしれない。そんな、架空の話ができるほど、このレストランは外のカイロの夜とは切り離された空間に思えた。店を出る頃には、家族連れの笑い声も遠くなっていた。通りに戻ると、人気は全くない。夜風が少し冷たかった。かろうじてバーやカフェの明かりがあった。スマホのライトで足元を照らしながら、またあのラクダのフンを避けるように、ぼくらは静かに歩き出した。エジプト最後の夜が、ゆっくりと深まっていく。歩くたびに遠ざかる音と匂い。振り返って見ると、もう2度と足を踏み込むことのできない宇宙空間のような境目が、レストランとぼくの間にあった。ついさっきの食事がすでに遠い過去になろうとしていた。