ZIPANG-10 TOKIO 2020 〜発酵文明の心~ 4 ーNovel HAKKO Civilization For Humanityー 【寄稿文】一舟・光秀
今世界は何かが狂い始めている。
美の感性は万能であり、
それを糺すのは教育にある。
物質文明の反省と、次世代に向けてビジョンを、希望の光を。
少子化になろうとも、学校建築は子供を収容する箱では無い。
その手がかりは美にある、美の感性は宇宙の摂理万能である。
美の感性は万能であり、
生きもの 人は 楽しくなる その瞬間のために生きている。
自然は全ては一つに繋がり、一体である。
自然はトータルデザインである。
明治以降、列島日本は物事を個々バラバラに考える、物質文明に浸り、余りにも専門分野に特化し過ぎた傾向にあるようだ。
江戸期までは、人としての基礎を日常から学び、その上でひとは得意な自己を育てて来た。
親を見て、家事を手伝い、まねて、世間からも多くを学んだ。
風土、伝統、みらいへの基礎が出来上がる。
第一章は、国の地域の宝、教育、環境、学校から始める。
旧開智学校は明治の初頭の擬洋風建築の傑作、入り口は 教育のビジョンを美しく語っている 図:1
国が教育に総合的な思想を持っていた 明治初頭の擬洋風建築の近代学校の最高峰
隅々まで学校のあるべき姿 当時の西欧の色彩資料までもある。
自分の故郷を田舎を愛する心を大切にしよう。
どんな田舎でも人がいる。自分の田舎を愛する心を育む。ここにしか無い風景を大切にしよう。住めば都。地上でこの場所はここにしか無い。人は初めての場所に興味を持つ生き物。僅かの違いをその雰囲気を好む。例えば猫をもらって家に連れてくると、隅から隅まで家中を嗅ぎめぐり廻る。初めての空間環境は、生きものも人も大いに興味がある。
人も旅を好むではないか。地上をイメージの中を幻想で旅する。
芭蕉も兼好法師も旅大好き、伊勢参りも神様を拝むのは実はついでであり、その途中が楽しくて旅をする。
仕事もプロセスが大事、楽しく大切にと言うではないか。
整理清掃し綺麗にしてあると、その心が感じられ、どんな所でも、ボロ家でも廃墟でも人は許せる、それどころか心休まる。
宇宙の自然の摂理は「真善美」
これが列島日本人の特徴で、故郷の廃家でも懐かしい。埴生の宿、庵こそ人の心が最も休まる。その究極が茶の湯の世界、自然の究極の環境。派手、似非(エセ)、俗より普通の自然体の環境に、究極の何かを思う。どんなに人工的、現代素材、煌びやか、豪華でも、デザインでも優れた良いものは、下品でないもの、心の洗練が感じられる本物であれば。ものは、本能的に心が通じ、美しく、芸術的、簡素、抽象的に思うのが人の原点にある心の本質である。宇宙の自然の摂理、真善美であると考えている。
物質文明の延長の SF的夢で誤魔化すのではなく、AIも人本来の人らしい本当のあり方を追求し提示する時である。
経済的欲望と新技術のまかりとおる混乱の世界ではあるが、人の世の最終章・ホスピスへの序章であってはならない。
何にしても この世界の混沌を見るに、歴史上最もトップリーダが不在であるが、最も大切なことは学校教育である。
見直そう明治初頭の政治家、官僚、美しい見事な藤村式学校建築の提唱者を。
江戸期の教育と人材の育成の手本は今も僅かに残り。明治初頭の教育環境の提言普及に尽くした藤村式学校建築には、和の文化と洋の文化を合わせ優れた文化力と才能とその未来志向には敬服するばかりである。
学校建築は地域の文化の心のシンボルであり、集落の景観とともに、実に美しく魅力的デザインであった。それも人口減少が1因で滅びていく時、次世代の全国の学校建築、公共建築には、心優しい感性の高い建築デザインに取り組む、関係各方面の皆さんに期待をしている。
学校建築は単なる児童の、人の、入れ物、収容環境であってはならない。たとえ少人数でも、未来の地域と国を支える大切な存在である。
はっこう(発酵)文明は、食と建築と環境がこの窮状を救う。
それが国や地域衰退や、文化の基底を支える源泉であり、あらためて
取り組んで頂きたい。
甲府城にも調和 和洋折衷の最も美しい見事な藤村式学校建築 図:2
藤村紫朗は明治初頭の当時流行りの金のかかる擬洋風建築を止め「藤村式建築」を提唱した明治の偉人。勤王の士、新撰組にも狙われ負傷。明治以降に官僚、政治家。山梨県知事、
愛媛県知事、貴族院、男爵。都市デザイン、藤村式学校建築思想と実践、万能の幸せ発酵環境の先駆者であった。
このような社会の幸せに貢献した文化的人物をこそ今後は日本国の英雄と呼びたい。
以上の視点から見ると、何故かその後の日本人は、卑小な人になってしまったのか。富国強兵で西洋の植民地主義を真似、江戸期まで友好関係を保ってきたアジアの国々に侵攻したことが第一の原因である。
平和友好は今でも理想だが、人の命を何とも思わない現実は、実に見るに耐えなほど幼稚であり、心ある人誰もが義憤を感じていると思う。戦争という物質経済活動優先の現状は人の進化の恥である。
物質文命の覇道」から「心の文明の王道」へ
人は善悪の両面を持っている。「物質文明の覇道」と「心の文明の王道」である。それらを調和させるのが筆者の提唱する「はっこう文明」である。
微小な生命の、物とものを融和させる発酵現象を、多くの生きものが「飲食」に活用している、たえなる絶妙な発酵文化である。
我が国には千を超える、世界には何千とある。中でもアジア、特に日本は最も進化した豊かな発酵文化国である。
その延長上に物と心の見事に融和する人の世界を実現したい。それが「はっこう文明」である。
藤村式学校建築 尾県郷土資料館 図:3
この藤村式学校建築資料館は移築された美しき進化事例であり、伝統建築や周囲生活環境との調和もあり、単なる金のかかる疑洋風建築をやめた藤村式学校建築は、山梨県を中心に展開された王道の改革である。
建物内部の教室は落ち着いた理想の学習環境で、白・黒・自然素材色がとても良い。
世界一識字率を誇る江戸の寺子屋環境の延長で、子供たは落ち着いた良き人に育った。
その第一段階として「宥和」は、互いの対立でなく、譲歩・妥協し仲良くする。
結果は「融和」 異なるものが調和し 一体となる人の世のパラダイス。
春の終わりに、毎年奥三河の、何処か心に悲しみを誘う桜の風景を見に行く。
それを遥かに望む、なだらかな丘の斜面にある小学校の廃屋に惹かれ、何故か中に無断で入れた。そこで出会ったこの廃校の中には 最上級のデザインの感性が静かにあった。
この絵を 国中の廃校の状況を 美しいとなにかを感じ、まさに今、全国で進行中の740の自治体消滅予測の一環であり、列島日本の現実の様相を糧に、新たな未来への道を創ろうと思う。
この静謐な空間を景観を 活気に満ちて 美しいと感じる 図:4
心が 誰かが まだ そこに居る 図:5
廃校は子どもたちが巣立った故郷。地域の宝であり、実に凛とした山里の美しい小学校の姿。元気なこだまする声が、凍ったまま聞こえる気がした。
毎年春を惜しんで訪れる、この小学校から下方に広がる景色 図:6
廃校は各地で進行中だが、稀に惜しまれ別の用途に美しく活用保全されている幸運な例もある。
中には国の文化財としてのプレートを取り付けてあるだけの寂しい例も。
物事の価値はそのものだけではなく、周辺地域も含め総合的に温かく保全する大切な心の拠り所だ。列島日本の景観の改善すべき最大の課題である。
予算がない? 国の防衛口実で毎年増える、戦闘機一機分の値段で国中が、人の心も優しく出来る。
公共建築は地域住民の誇り、シンボルとして取り組もう。
良き環境は良き人材を文化を育む。特に現代の教育行政のおざなりな人数収容の入れ物でなく、子供を育てる環境は、優しく優れた心のデザインでなければならない。たとえ少人数であっても、国と地域の衰退を止める根本の大きな力になる。
それが未来へのビジョンである。金がないというなら防衛費を減らしてでもするのが、人を国を守り育てることであろう。
丁寧な仕様と色彩が人の心を穏やかにする、世界平和への一つの方法である。
それから各地を巡って気づいたことに、落ちつく優れた観光地とは、人にとって大切な暮らしの基本が、住民の高い意識で守られていることであった。お祭り、賑わい、経済も、未来もその上に成り立つ。
列島日本の手入れされた景観と、丁寧な暮らし振りは、次のインバウンドへの重要な要素になるだろう。
まとめ
今の日本の実態を直視しよう 何故か全てが緩んでいると思いませんか?
犯罪の多発 自国の独自性を 自信を持って主張しない、出来ない国際政治。
明治より百数十年、文化も建築も思想も欧米コンプレックスから脱皮しよう。
現状の人工的国土景観を見ればわかる。明治からそして先の敗戦で、江戸時代までの為政者、指導者の教養と情熱と、慈悲の心、未来ビジョン。
民の結いの助け合い、協調などを、国中が人として大切なことをおざなりにし失って来た、その結果が現代日本の諸問題の根源にある。
人、子供の虐め、パワハラ、理由なき殺人に至り、さらにAIの発展で急増する詐欺犯罪。その心のやり切れなさを克服しよう。
自己と他を自然を本当に大切に、そして人を思いやる東洋の日本語は「慈しみ」。
欧米の「愛する」とは根本は異なると思うが、その二つが合わさり、発酵文明の心は成立する。
人の自己実現の極は、欧米の絢爛豪華な宮殿、かたや我が国の木と土と竹と紙の和の庵か。
金の茶釜、盛大な茶会の豊臣秀吉の俗と、そうではない、心の文化に命をかけた千利休の相違こそ列島日本の未来の元である。
殺風景で雑な環境は、慈しみの心を育てる土壌ではない。環境は人をつくる。未来の列島日本を育てる。
例えば上記の廃校の画像を美しいと感じない、思えないのであれば、過去現在未来へと繋がる「美」への心を、共に理解共有して頂きたいと思う。
物事は生まれた瞬間から終わりに向かい変化していく運命であり、何の段階でもそれぞれに美がある。人も心身も同様である。有終の美は何にでもある。進行中の2050年問題も、我らの寿命も。
生きものに不可欠で最大の欲望である飲食。持続可能な食物連鎖の見事なシステム、食の程よい塩梅の恵み。
「過ぎたるは猶及ばず」「生きとし生きるもの皆幸せであれ」と言う。発酵文化に立ち戻ろう。
永い縄文以来の各地からの渡来列島人が、暗中模索の文化の行き着いた、先駆的な最もSDGsの極致、物を大切に簡素で地球にやさしい思想、人の道の心、「侘び寂び」の心は、宇宙的かつ抽象的な「はっこう文明」の極みである。
俳句、和歌など。たった一言で、宇宙から心の内までを、列島人誰でもが表現できる国民ではないか。
調和と慈しみの心の復活を。縦割りと身勝手な自由とを、人の心と身を、皆のための心として再起動を。
環境の調和から、人種、性別、思想、みんなの違いを、「はっこう」と言う自然の媒体で、良い塩梅に融和し超える世界が「はっこう文明」平和の理想。
今発酵文化の最たる国が、外の世界との調和はなく、木の柵ばかり目立ち、丸い輪の中は雑然としたパビリオンの配置で、未来への景観の参考にもならない寄せ集めでのイヴェントが開かれている。国が世界に発信する大イベントでさえ未だこれであり、進化を。
戦後八十年で列島日本に溢れんばかりの杉檜のジャングルとなった。険しい傾斜地ではあるが、世界一手入れされた良質の木材生産地になった。
寿司丸桶は軽くて加工がし易く腐りにくい「椹(さわら)」が良いであろう。
大イベントとまるで筆者の季節の雑なちらし寿司と変わらないようだが、まだこちらの方が風土・伝統・未来への発酵の希望が見える? 丸い木の器と中身はこれからも大切に続けたい、和の季節の節句の春の家庭の祭りであるから・・・。
盛り付けは筆者:春3月 図;7
ZIPANG TOKIO 2020の読者の皆様へ
郷土の学校や公共建築で、廃校や新しい取り組のうまくいっている事例などを、今後の問題解決の参考にお寄せ頂ければ有り難く存じます。
期待いたしております。
【寄稿文】 一舟・光秀(林 英光)
環境ディレクター
愛知県立芸術大学名誉教授
東京藝術大学卒業
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
発行元責任者 鎹八咫烏(ZIPANG TOKIO 2020 編集局)
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
木曽五木
禁止木を伐採した者への罰は、「木一本、首一つ」
木曾檜を使用した名古屋城本丸御殿。一般公開中!
「襖絵」や「折上格天井(おりあげ ごう てんじょう)」も然る事乍ら、井波彫り
(井波彫刻)の欄間がひと際目を惹く。
木曾五木とは
「木曽五木」の歴史は江戸時代まで遡ります。木曽谷の森林は、江戸時代、尾張藩直轄の領地でした。木曽の木材は昔から良質で、江戸城の築城や造船、土木用材等、様々なところで利用されていました。
約100年間、木曽谷の森林は大量に伐られ続けたため、木材資源が枯渇してしまいました。
そこで、尾張藩は森林保護政策として「停止木制度(ちょうじゅぼくせいど)」を設け、
ヒノキ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキの伐採を禁止しました。
停止木制度は、ヒノキの保護を目的とし、ヒノキに外観が似て、かつ利用価値の高い樹種も禁止木に選びました。禁止木を伐採した者への罰は、「木一本、首一つ」と呼ばれるほどで、厳罰に処されました。森林保護制度によって保護された樹種は「木曽五木」と呼ばれ、現在は木曽谷の名産品となっています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 「 木曽谷の物語 ~木曾五木~ 江戸時代後期『木曽式伐木運材図会』&『妻籠』総檜造りの脇本陣 奥谷!」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5972833/
日本書記「木の適材適所」
素戔男尊(スサノヲノミコト)が宣われました
日本書紀によると、素戔男尊(スサノヲノミコト)が生み出した四樹種「杉・楠・槙・檜」杉と楠は船材、槙は棺材、そして檜は建築材が適していると宣われたそうです。
それでは、槇(通称:高野槇)は、何に使用する⁉
四樹種の中では一番腐りに強い、昔は土葬だったので棺材、棺桶に使用しなさいと・・・
現在は、琵琶湖の漁船・近江八幡の観光木船などに使用されています。
中には、木舟の古材を使用してインテリアランプなどにも使われています。
高野山では神事・仏事に・・・・
~どうやって運び出した?~
自動車や鉄道のなかった時代、昔の人は山深い木曽からどのように木材を運び出したのでしょうか。 おおきな木材を人あるいは牛馬で運び出すのは非常に大変です。
昔の人は知恵をしぼり地形や谷に流れる水を利用し、いろいろな工夫や仕掛けを組み合わせ効率よく木材を運び出す方法を確立していきます。
これが木材を流送により運び出す木曽式伐木運材法です。赤沢自然休養林内、ふれあいの道や駒鳥コースでは、当時の運材方法の名残りを見ることができます。
また、赤沢自然休養林の交流センターにはその当時の写真や運材模型が展示されています。 この時代は、木材をまず美濃の錦織綱場(現岐阜県八百津町)に運び、そこから筏に組んで尾張国白鳥湊(現名古屋市熱田区)まで運び出した後、海上輸送によって江戸や大阪に送られていました。
余談ですが、熱田区は小生の故郷の一つです。子供の頃から一番長く住みました。よく筏の上で遊び、落ちると筏の下に吸い込まれて浮かび上がれないので、危険だからと筏師のおっちゃんに叱られたものです。
叱られると益々遊びたくなる…子供心とは不思議なものです?当時の堀川はどす黒く川底から二酸化炭素がブクブクと泡をたてて上がっていましたが、今は(故)小山太郎氏はじめ官民一体の努力が実り鮎の遡上もみられるとか・・・当時の惨状を知る者にとっては夢のような話です。
神宮備林の時代
明治22年(1889年)、それまで官林だった木曽の森林は「御料林」に編入し、宮内省御料局が管理経営していました。御料局の木曽支庁は明治36年(1903年)に木曽福島に設置されました。
昭和22年(1947年)に国有林に変わると、長野営林局の庁舎として使用され、その後、福島営林署、長野営林局森林技術センター、中部森林管理局の森林技術第一センターとして使用され、平成16年(2004年)に庁舎としての歴史に幕を閉じました。 旧帝室林野局木曾支局庁舎は、現在、御料館として当時の林野行政の資料等が展示されています。
そして明治39年(1906年)、木曽谷の御料林の中に、「神宮備林」が設けられました。
伊勢神宮では、20年毎に神宮の建物や調度品を造りかえ、新しく清浄な神殿に神様のお遷りを願う「式年遷宮」を行います。式年遷宮は690年から行われおり、鎌倉時代までは神宮の山から御用材を伐り出していましたが、良材が枯渇したため、江戸時代からは木曽谷から
御用材を伐り出されるようになりました。
神宮備林は、20年ごとに行われる伊勢神宮の造営のため木曽ヒノキの供給を目的としており、木曽ヒノキの成長を助け、ヒノキ稚樹を発生させるために、当時は木曽ヒノキ以外の木を中心に抜き切りをしていました。
この当時、直径60cm以上で形質優良な木曽ヒノキを「大樹」として台帳に載せ管理しており、大樹は木曽谷全体では18,000本が選ばれ、赤沢自然休養林周辺では2,690本が指定されました。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~木曽谷の森林・林業の歴史~ 「木の適材適所は素戔男尊(スサノヲノミコト)が宣われました『檜は建築材に』・・・日本書紀」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5943170
日本の町『犬山』木曾の中乗りさんも癒された
犬山のゆったりとした木曽川の流れ
昔、木曽川を、木曾節に唄われた中乗りさんたちは、木曾深山の狭い急流を、1本づつにばらした木材の真ん中に乗って前後左右に飛び乗り、起用に木材を操りながら尾張藩まで届けたそうです。命懸けの仕事だったんですね・・・。明治44年JR中央線が開通するまで300年間続けられた木曾伝統の木材運搬方法です。
中乗りさんの魂は永遠に「木曾節」の流れに寄り添い或いは飛び移りながら生き続けていくことでしょう・・・
木曽のナー 中乗りさん
木曽の御岳(おんたけ)さんは ナンジャラホーイ
夏でも寒い ヨイヨイヨイ
ハー ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ
袷ょ(あわしょ)ナー 中乗りさん
あわしょやりたや ナンジャラホーイ
足袋もそえて ヨイヨイヨイ
ハー ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ
人はナー 中乗りさん
人は見目(みめ)より ナンジャラホーイ
ただ心 ヨイヨイヨイ
ハー ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ
木曽のナァー 中乗りさん
木曽の名木 ナンチャラホーイ
ひのきにさわら ヨイヨイヨイ
ねずにナァー 中乗りさん
ねずにあすひに ナンチャラホーイ
こうやまき ヨイヨイヨイ
(木曾節抜粋)※やはりこれは入れないと!「木曾五木」の節を追加しました。
中乗りさんたちは木曽川の、命も落としかねない急流を考えると(現在、日本ライン下りとして木の観光船で下ることが出来る)犬山のゆったりとした流れに辿り着いた時はきっと、ゆりかごに揺られているような気分だったに違いない・・・
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020「日本の町『犬山』木曾の中乗りさんも癒された犬山のゆったりとした木曽川の流れで 『木曽川うかい』を楽しむ」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6234898
ぎふ長良川鵜飼
本年より『特別な鵜飼・遊覧船』運行
鵜飼観覧船造船所 高野槙を使用して制作中の鵜飼船(画像は下記のURLにて)
以前にもご紹介しましたが日本書紀によると『木の適材適所』は素戔嗚尊(スサノオノミコト)が宣われ、杉と楠は船材に、高野槙は棺材に、檜は建築材にとあります。
滋賀県の琵琶湖に浮かぶ木船も同様に長良川においても腐りにくく、耐久性があり、比較的コストも廉い節ありの高野槙が使用されているようです。高野槙は木曾五木※の一つになります。
※木曾五木
檜(ヒノキ)・椹(サワラ)・明日桧(ヒバ)・槙(高野槙)・ねずこ
鵜飼のあらまし
鵜飼とは、鵜を巧みに操って川にいる魚を獲る漁法のことです。
日本での鵜飼の起源は、稲作とともに中国から伝承したとする説、日本と中国で別個に発生したとする説があり、定かではありません。各地の古墳から鵜飼を表現しているとみられる埴輪が出土しているため、少なくとも古墳時代には鵜飼が行われていた可能性があります。文献では、7世紀初めに中国で成立した『隋書』「東夷伝倭国条」や、8世紀に日本国内で成立した『古事記』『日本書紀』などに、鵜飼に関する記述が見られます。
今年のぎふ長良川の鵜飼は、3年ぶりに5月11日から開幕しました!
今シーズンから登場する3隻の高級鵜飼観覧船では、最上の鵜飼観覧ができます。高級鵜飼観覧船ならではの特典を紹介します。
特典1
絶好のポジションで鵜飼観覧
狩り下り、付け見せに限らず、乗船日に提供できる最高の鵜飼観覧をお届けします。
特典2
個別の鵜飼説明
鵜匠が観覧船に来て鵜飼説明を行います。
特典3
静けさの中で鵜飼を体感
船頭が人力で操作する木造の観覧船なので、鵜匠が鵜に「ホウホウ」と声をかけて励ます掛け声や、船べりをたたく音など、より鮮明に感じることができます。
特典4
より自然な状況で鵜飼を見る
鵜飼が始まると、間接照明を落として船内を暗くします。
特典5
あがり(漁の片付け)を観覧
鵜飼終了後に鵜匠が漁終いを行う様子を近くで観覧できます。
特典6
内装のこだわり
靴を脱ぐことなく、下足のまま乗船できます。
ゆったりとしたベンチシートや日よけカーテンで、鵜飼が始まるまで、くつろいでお楽しみいただける空間を演出しています。
※乗船日によって、適用できない特典があります。
特別な鵜飼・遊覧船
白月(しらつき)
藍山(あいやま)
花篝(はなかがり)
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-6 TOKIO 2020「~ぎふ長良川鵜飼~ 開幕!!」今年から登場!「高級観覧船」
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/34294023
二見からはじまる昔ながらの伊勢参り(1)
お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り
古くから伊勢神宮に参拝する人は二見浦で禊(みそぎ)をし、その後、外宮、内宮の順番に参拝していたと言われていました。また、伊勢音頭の一節に「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と唄われたとも言われているように、朝熊山の金剛證寺にも参詣するのが習わしでした。 地元民オススメの”昔ながらの伊勢参り”をしてみませんか。
二見興玉神社(夫婦岩)→ 豊受大神宮 外宮(伊勢神宮 )→ 皇大神宮 内宮(伊勢神宮)
→ おはらい町 → おかげ横丁 → 朝熊岳金剛證寺→ 朝熊山頂展望足湯
→ 斎王の斎宮(明和町)
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~昔ながらの伊勢参りとは~「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り(1)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5732084
伊勢神宮の鬼門を守る寺『朝熊岳金剛證寺』(2)
昔より伊勢神宮の鬼門を守る寺として、神宮の奥之院ともいわれ「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と伊勢音頭の俗謡にも唄われ、参宮する人々は当寺に参詣するのが常でありました。
当山の草創は古く欽明天皇の頃、暁台上人によって開かれ、平安時代には弘法大師(空海)によって堂宇が建立され、密教修業の一大道場として隆盛を極めました。
その後応永年間(1394~1427)に鎌倉建長寺開山大覚禅師の法孫である仏地禅師(東岳文昱)が法燈の衰微を嘆き再興して以来、禅寺に改められ、現在は臨済宗南禅寺派の特例地で、御本尊の福威智満虚空蔵大菩薩は、日本三大虚空蔵菩薩の第一位として広大無辺な福徳・威徳・智徳の三徳を有する仏様であります。
御本尊は秘仏で、伊勢神宮のご遷宮の翌年に、二十年に一度のご開帳を厳修いたします。
斎王の始まり
斎王の歴史は日本神話の時代まで遡ります。語り継がれる伝説の初代斎王は、天照大神の御杖代であった豊鍬入姫命。そのあとを継ぎ、天照大神の鎮座される場所を探し諸国を旅し、伊勢の地にたどり着いた倭姫命。
倭姫命は、伊勢の地(現在の明和町大淀)に入り、佐々夫江行宮を造り、カケチカラ行事の発祥となる伝説をつくりました。これが斎王と明和町との縁となったのか、斎王制度が確立し、斎王が天照大神に仕えた場所・斎宮は、伊勢神宮からおよそ15キロメートル離れた伊勢神宮領の入口につくられました。
斎王の群行路(平安時代)
都から斎宮へ
斎王は飛鳥時代に制度が確立して以降、天皇の即位に伴って、未婚の内親王または女王から占いにより選ばれたのです。
選ばれた斎王は、家族と離れ、慣れ親しんだ都での生活とも別れを告げ、200人余りともいわれる従者に伴われて、斎王群行と呼ばれる5泊6日の旅により、斎宮へ向かいます。
この旅は斎王にとって神に近づく禊祓の旅でした。聖なる神領の入り口に流れる川、祓川で斎王は最後の禊を行い、斎宮に入ります。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~昔ながらの伊勢参りとは~「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り(2) おはらい町~伊勢神宮の鬼門を守る名刹~斎王の斎宮」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5736043
西会津国際芸術村とは
2002年に廃校となった木造校舎(旧新郷中学校)
西会津国際芸術村公募展は、2004年より例年開催され本年で16回を迎えます。青少年や美術愛好家から絵画等を公募し、作品発表の場を提供することでアートを通した文化交流の促進を図りながら、より身近にアートに触れ合える場を来館者の皆さんに提供しています。
また、会期中の土曜、日曜に限り館内「まぼろしレストラン」にてカレーやサンドイッチ等の飲食提供も実施しています。 (本展会期中は休みなく営業。)
■つくる つたえる かんがえる/西会津国際芸術村NIAV
西会津国際芸術村は、2002年に廃校となった木造校舎(旧新郷中学校)を創造活動・ギャラリー・地域文化の育成・グリーンツーリズムの拠点等に活用している福島県西会津町が管理する文化交流施設です。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020山あいの廃校 木造校舎での絵画展「第16回西会津国際芸術村公募展2021」を10月10日まで開催!!
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/21739544
福島大学
相双地域支援サテライトとは?
相双地域の復興を支援
「福島大学うつくしまふくしま未来支援センター※は平成23(2011)年4月、東日本大震災・東京電力福島第一原子力発電所事故からの復旧・復興の支援を目的に誕生しました。
サテライトは、被災地域と大学をつなぐ現地の拠点として、同24(2012)年6月、川内村に開設。現在は富岡サテライトと浪江サテライトに職員を配置し、被災12市町村を対象とした支援活動を行っています。
私たちは、地域の復興、住民の帰還に向けたさまざまな取り組みを行っています。地域と共に歩む大学として、これからも共に取り組んでまいります。」
学ぶことの楽しさを思い出し、
張りのある家庭・学校生活を送ってもらいたい
避難を強いられ仮設校舎などで厳しい環境が続いてきた子どもたちの支援や、再開したばかりの小・中学校、こども園の支援、教育委員会の支援等を行っています。
学びの楽しさを思い出し自己肯定感を育む学習ワークショップの開催/心と身体を解放する身体表現ワークショップの開催/学校と地域を繋ぐコーディネート 等
情報発信
相双地域への関心を持ち続けて、
サテライトの活動を理解してもらうことを目指して
相双地域内外の方へ向けて地域の情報およびサテライトの活動の情報を発信しています。 シンポジウムや特別講演会の開催/サテライト広報誌、ふたばぐるぐるマップの発行/ホームページやFacebook等での情報発信 等
西会津国際芸術村(福島県耶麻郡西会津町、指定管理者:一般社団法人BOOT)では、2021年11月23日から2022年1月30日までの会期で
「ある日、あの場所」展を開催。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-6 TOKIO 2020 ~ 東日本大震災から10年 ~「ある日、あの場所」
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/24341635
徳川家康の考えた『お茶の作法と演能』
昭和62年5月、
尾張徳川家21代当主 徳川美術館(前)館長 徳川義宜氏を訪ねて
プロフィール
1933年東京生まれ。学習院大学政経学部経済学科卒。
東京大学農学部林学科、東京国立博物館に研究生として学ぶ。
財団法人徳川黎明会評議員、理事を経て、専務理事。
徳川美術館館長を務める。(昭和62年 現在)
主な著書
葉月物語絵巻(木耳社)
琉球漆工芸(荒川浩和氏共著 日本経済新聞社)
茶壷(淡交社)
新修 徳川家康文書の研究(徳川黎明会)ほか
尾張徳川家21代目にあたり 徳川美術館館長でもある、徳川義宣氏(以下徳川)を東京・目白にある財団法人徳川黎明会本部に訪ね、江戸時代の大名の美意識などについておたずねしました…本号はその中から特に徳川家康の考えた「わび茶と能」についてご紹介いたします。
大名にとって相応しい「お道具の美学」
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-6 TOKIO 2020 尾張徳川家21代当主 徳川義宜氏に聴く!徳川家康の考えた『お茶の作法と演能』とは
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/37067472/
ひば「鶴の舞橋」
青森県北津軽郡鶴田町
岩木山を背景にした舞橋の姿が鶴が空に舞う姿に見えるとも言われ、また、橋を渡ると長生きができるとも言われており、夜明けとともに浮かび上がる湖面の橋の姿や、夕陽に色づく湖と鶴の舞橋は絶景で、季節の移り変わりと共に多くの観光客たちの目を楽しませている。
全長300mを越える日本一長い木造の三連太鼓橋。津軽富士見湖に映る姿は繊細でとても美しい。遠くに岩木山を望むことが出来る。 長さ…300m 幅…3m 橋脚の径…直径30cm(樹齢150年以上) 使用材料…青森県産「ひば」一等材。
使用量 丸太3千本、板材3千枚(4LDKだと約30棟)
休憩所 大ステージ:10メートル×21メートル
小ステージ:9メートル×9メートル
溜池名称 廻堰大溜池(まわりぜきおおためいけ)
溜池通称 津軽富士見湖
住所:青森県北津軽郡鶴田町廻堰字大沢
お問い合わせ
鶴田町企画観光課 電話0173-22-2111
交通JR陸奥鶴田駅より車で約15分。