新世界紀行 エジプトの旅34 最終日 2025.05.25 08:24 ピラミッドが、朝焼けに燃えていた。時を超えて空に染み込んでいくような、静かな炎だった。こんな光景を、ここに暮らす人々は毎朝のように見ているのだろうか。羨ましいとは思わない。ただ、少し胸が、きゅっとした。ホテルの屋上で朝食を摂った。 快晴だった。風が少しだけ、今日ここを去るぼくの気持ちを撫でるように吹いていた。目の前には、3つのピラミッド。永遠のように、そこにあった。パンとコーヒー。スープ、オムレツ。どれも、静かに、やさしく、ぼくの身体を温めてくれる。味に興味のないぼくが美味しいと感じるのだから、きっとそれは、本当に美味しいのだと思う。少しだけ、違う。いつも知っている味とは微妙にずれていて、それがまた、ぼくの心を少し刺激した。旅先というのは、味覚までも旅に連れていくのかもしれない。タバコを取り出した。旅の時しか吸わないタバコ。だからぼくにとってそれは、お守りのようなものだった。火をつけて、深く吸い込む。吐き出した煙が、ゆっくりとピラミッドに向かって消えていった。ああ、と思う。まるで、さよならの言葉を煙に託しているような気がした。そこには、ただ夢のような光景が広がっていた。ぼくは今、夢を見ているのだろうか。いや、ずっとそうだった。エジプトへ向かうための成田空港へ到着した時から、ぼくは夢の中を歩いていたのかもしれない。旅の間ずっと、ぼくはぼく自身と向き合っていた。嘘のない、静かな時間だった。思春期の頃のただ燃えるだけの恋愛が過ぎ去ったあとに残る静けさのような、それでいて優しく、あたたかい時間だった。そう、これがぼくの人生なんだ。これこそが、ぼくの生き方なのだと、この朝の空気が教えてくれていた。生きている。ぼくは、生きている。ただそれだけのことが、こんなにも強く、胸を打った。もうすぐ、夢から目覚める。でも、きっとこの夢は、ぼくの中で永遠に終わらない。 天気は快晴、風も穏やか。もう一度ピラミッドエリアに入る絶好のチャンス。遺跡好きなぼくでも、同じ旅の途中で同じ遺跡にもう一度行こうと思うことはない。時間の問題もあるけれど、初見の感動はもう味わえないからだ。ただ、このピラミッドは違った。ーーーーきっとぼくのことだ、ピラミッドなら何度でも見たいに違いない。そう考えて最終日もピラミッドへ戻るプランを練った。そしてそれは、最高の天候で迎えてくれた。今日はカイロ空港13:30発のアブダビ行きに乗らなくてはいけない。逆算して考えていくと2時間前の11時半には空港へ着いておきたい。空港までタクシーで約1時間として、10時半にはタクシーに乗っておく必要がある。タクシーを呼んでやってくるのに10分として、10時20分にはアプリで呼ぶ。また、ピラミッドエリアから出てタクシーを捕まえやすい通りまで行くと10分。10時10分にはピラミッドエリアから出ようとする必要がある。 ということはピラミッドエリアに入るのが9時頃だとして、滞在は1時間ほどか。もうクフ王の王墓に入るわけではない。散策できればそれで十分。宿に別れを告げて、ピラミッドエリアのチケット売り場まで。Kさんと待ち合わせをしていた。Kさんは初日の到着時にエジプトポンドの現金を多く買ってしまっていた。しかし、エジプトのどこの遺跡も購入はキャッシュレスのみ。現金では買えない。よって、大量のエジプトポンドの現金が余ってしまっているため現金でチケットを買うことができる裏ルートをぼくが探ってみる。一週間前、初めてここに来た時にその手の人物が「居た」のだ。ダフ屋のような奴らが。ごくまれにいるクレジットカードを持っていない観光客を相手に「現金でも買えるぞ」と呼び込みをしていたのだ。早速、チケット購入者の列の整理でもしているかのような怪しい男に「現金で買いたい」と話しかけてみると、手際よく、「何枚だ? こっちだ」とぼくに告げ、チケットを買う人の列を全てすっ飛ばして一番前まで連れていかれる。男にチケット代を渡すとカウンター内のスタッフに何やら言うとすぐに発券された。男はぼくにチケットを渡すと、交渉成立だ、と言わんばかりに笑顔で握手を求め、ぼくも無事にチケットを入手することができた。おそらく・・・・男とスタッフがチケット代を折半して懐にでも入れるのだろう。とにかく、支払いとすればカードでも現金でも同じ金額でチケットを手に入れられるのはカードがない人、現金を余している人には良い。 チケットゲートを通過し、無事にピラミッドエリアに入る。スフィンクスが、ゆっくりとその姿を現した。それはまるで、永遠という時間の中で、ただひとつだけ動かぬもののようだった。Kさんが、子どものような声で歓声を上げた。その瞬間、ぼくの胸に何かが触れた。――ああ、誰かと一緒に旅をするというのは、こういうことなのか。心を打つものに出会った時、隣に誰かがいてくれるということ。その誰かに「すごいね」と伝えることができて、その誰かが「ほんとだ」と答えてくれること。そんなささやかな出来事が、砂漠に差し込む朝陽のように、やさしく胸を照らしていく。だけど、ぼくは勝手な人間だ。もし日本からずっと友達と一緒にいたとしたら、きっとこの感じにはたどり着けなかった。それは日常の延長でしかなくて、こうして心が震えるようなことには、出会えなかっただろう。旅先で出会った同じ旅人と、ふとした偶然で時間を共有する。その不思議な関係性が、この風景をいっそう美しく見せていた。ぼくたちは今、ピラミッドという名の奇跡の場所にいる。世界の果てのような場所で、こんなにも現実が遠い。この数日間、ずっと思考も体もふわふわと浮かんでいた。地面を歩いているはずなのに、風に乗って漂っているような感覚だった。日々の生活では、現実味が強すぎて身も心も硬くなっている。このふわふわした夢のような感覚は、いったい、いつまで続いてくれるのだろうか。クフ王、そしてカフラー王のピラミッドを見上げながら、ぼくらはただ、歩いた。すごい、とKさんが言うたびに、ぼくの中の何かが、すこしずつ満たされていった。もう、これでいい。あとはもう日本へ帰るだけだ。旅のすべてを、見届けた気がしていた。Kさんともピラミッドとも、お別れのときが来た。カフラー王のピラミッドの袂。砂にまみれた古代の石が、静かに見守る中で、声をかけあった。「じゃあ、また日本で」Kさんのその言葉は、まるで上野とか、渋谷とか、東京のどこかでの、軽やかな別れの挨拶のように聞こえた。けれど、ここはエジプトだった。五千年の時間が静かに横たわる、ピラミッドの前だった。何度か振り返ると、Kさんが手を振っていた。そのすぐ後ろに、カフラー王とメンカウラーのピラミッドが、空へ向かってそびえていた。そして、その遥か向こうに広がる空の青――どこまでも澄んだ、あの青だけが、ぼくの心に永遠として焼きついていった。