新世界紀行 エジプトの旅35 帰国 2025.05.30 14:45 Kさんと別れたあと、ぼくの胸は、妙な焦燥で膨れあがっていた。空港へ向かう予定時間を押している。時計の針が、まるで砂漠の太陽のように、容赦なく背中を炙る。ピラミッドの隣を小走りするなんて、思ってもみなかった。だけど、バックパックを背負って、ピラミッドの影の中を駆け抜ける自分に、少しだけ誇らしさを覚えたのも事実だった。トレイルランナーとしては、これ以上ない舞台だ。けれどそれは、どこか空虚な誇りだったかもしれない。やり残したことが、ひとつだけ、心にひっかかっていた。土産を買うこと。それも誰かに渡すためではなく、ただ、この旅を、ぼく自身のために刻むための記憶の欠片を。ぼくが確かにここにいた、という証しを。財布の中には、使い残したエジプトポンドがUS1ドル分は残っていた。それで十分だった。観光客のための、雑に仕上げられた石のピラミッドの置物。ヒエログリフが彫られているだけの安っぽい置物。それでよかった。いや、それがよかったのだ。ぼくが欲しいのは完璧ではなく、不完全な記憶の破片だったから。クフ王とカフラー王のピラミッドに背を向け、スフィンクスの方へ歩く。まるで古代の石たちに背中を押されているような気がした。道端に並んだ即席の露店、その一つに足を止めた。「これ、1ドルなら買う。どうだ?」あらかじめ決めていた。言い値には乗らない。けれど時間はない。駆け引きの余地もわずかだった。「ノー、3ドルだ」と、ターバンを巻いた男が眉を吊り上げる。ぼくは「じゃあ買わない」と告げ、露店を離れた。売らないなら買わない。そういう旅のやり方だったし、何より、呼び止められると分かっていた。「おい、待て! 1ドルでいい!」ふり返り、手に取ったその石の置物は、見るからに雑な作りだった。でもその雑さが、エジプトの空気そのもののように思えた。雑で、喧噪で、どこか優しく、そして強引だ。金を渡すと、男はその札を太陽に透かして見つめた。偽物かどうか疑っているらしい。世界のどこでも、人は同じことをするんだな、とぼくはふと思う。旅が教えてくれるのは、そういうささやかな共通点のようなものだった。ピラミッドの欠片のような土産を、バックパックのタオルの中にそっとしまう。よし、これで、もう思い残すことはない。スフィンクスが、じっとこちらを見ていた。見送ってくれているような、呆れているような、そんな眼差しで。ぼくは軽く頭を下げて、観光客の流れをかき分けるように早歩きする。まるで未来へ急いでいるように。通りを抜け、ぼくは知った道へ出た。初日の夜、あの食堂で食べた定食。店先で買った甘ったるいお菓子。何もかもが懐かしく、でも、ずっと前のことのように思えた。一週間で、ぼくはどれほど変わったのだろう。大通りに出て、タクシーを呼ぶ。アプリを開くたびに、「空港までなら〜ドルだ」とチャットで違法な取引を送ってくる。やっと見つけた正規のドライバー。その位置を確認して、目印になるレストランの前に立つ。欧米人たちが悠々と食事をしていた。ぼくより遅い出発なのだろう。どこか羨ましくもあった。でも、ぼくには旅をやりきった満足がある。それだけで十分だった。「皆さんも、無事に帰国を」誰にも届かないメッセージを、心の中でそっと送る。タクシーがやってきた。車のナンバーの確認をして、乗り込む。ぼくの目の前にあるのは、もう「帰る」という行為だけだった。「空港だな?」陽気な声に、「ああ」と短く返す。「もう帰国するのか?」「ああ、日本。東京」「日本か。コンチワ!」彼の笑顔が、この国の最後の印象を柔らかくしてくれる。ギザの街をタクシーが走る。まだ、気は抜けない。でも、どこか、もう守るべきものはない、という開放感があった。旅の緊張が、そっとほどけていく。窓の外を流れる景色が、まるで夢のようだった。そう、夢だったのかもしれない。何度も何度もそう思う瞬間を経験してきた。けれど確かに、ぼくはこの場所にいた。初日のあの時、怖がりながら、目を凝らして歩いていた自分が、今、すぐそこの通りに歩いているような気がした。ギザの街が遠ざかる。高速道路に入り、少し高台から街並みを見下ろす。まるで異世界を去っていくような感覚。帰国後のことを、ぼくはぼんやりと快晴の空に思い描いていた。飛行機の時間、乗り継ぎ、エジプトの汚れと匂いが染み付いたTシャツ、帰国したら何を食べようか——。電車はすぐにあるかな。疲れていたら高速バスにしてしまおうか。空港までの道のり、およそ50分。それは旅の終わりに用意された、思いがけないボーナスタイムだった。何かを考えてもいいし、何も考えないこともできた。ぼくはただ、窓の外をぼんやりと眺めていた。さまざまなものが過ぎ去っていった。クラクション、廃墟のようなアパート、埃っぽい空、そして何よりも、自分の中で確かに終わろうとしているこの旅。旅の緊張がふっと解けて、アドレナリンの名残りだけが心地よく漂っている。まるで、そのぬるい興奮が、身体の奥に残った疲労をじんわりと癒やしていくようだった。カイロ空港。荷物はすべて機内持ち込みサイズに収めている。預け荷物はない。スマホに保存されたEチケットを提示し、そのままセキュリティを抜ける。出国審査の列に並んでいると、前にいた女性がふと振り返って、軽く会釈をしてきた。日本人だ。小柄な体に大きなバックパック、そして小さなキャリーケースまで引いている。彼女は仕事を辞め、二週間かけてヨーロッパを三カ国まわってきたという。その旅の最後に、エジプトに一泊だけ寄った。まるで旅のエピローグに挟まれた、異国のエッセンス。「ピラミッドの砂漠にキャリー引いて入ったんですよ」そう言って笑った。信じられない話だったが、その目はどこか誇らしげだった。ライターを没収されたと、ぶつぶつこぼしていた。「国際線でも一個はOKなはずなんですけどね」ぼくのポケットには、問題なく通過したライターが入っている。「まぁ、そういう適当な国なんでしょうね」笑いながら、彼女はそう言った。その笑いの直後、彼女がスマホを見て、少し顔色を変えた。「知ってましたか? 羽田、やばいかもです」言われて、ぼくもスマホを開く。ニュースの画面には、燃え上がる滑走路の映像が流れていた。羽田空港で大きな事故があったらしい。ぼくの帰国便は成田行きだ。だが、羽田が封鎖されれば、影響は必ず波及する。不安が、じわりと背中を伝ってくる。彼女は韓国経由で関西へ飛ぶ便に乗るらしく、あっという間に搭乗時間となって慌ててゲートへ向かった。一期一会、そういうものだ。取り残されたぼくは、どうにもならない現実を前に、ただ思う。なるようにしかならない。行きと同じく、ぼくはアブダビ経由で成田を目指す。 アブダビ空港。喉も渇き、腹も減っていることに気づいた。だが、現地通貨は持っていない。クレジットカードが使える店は皆、高額だ。諦めるか……と、ぼんやり歩いていると、異国では見慣れない自販機を見つけた。タッチ決済が可能らしい。恐る恐るカードをかざすと、反応があった。ボタンを押すと、ペプシが音を立てて落ちてきた。ぼくはまるで、砂漠の真ん中で水を見つけたような気持ちで歓喜して、それを拾い上げた。 やがて、便は定刻どおりに出発し、空へと舞い上がった。 成田空港。日本の地を踏んだとき、旅が本当に終わったのだと感じた。気が抜けたような、けれど、確かに満たされた帰還だった。電車に乗り、ぼくは家路についた。その車窓の向こうでは、今まさに別の誰かが、空港へ向かっているのかもしれない。彼らの旅も、きっと、ぼくのように、何かを残し、何かを手に入れていくのだろう。読んでくれてありがとうございました。「新世界紀行 エジプトの旅」は終わりです。次は「美しき旅 タイ&ラオス」を書いていきます。