本能寺の変
facebook小名木善行ねずさんと学ぶ会さん投稿記事
6月2日といえば、天正10(1582)年、いまから431年前に「本能寺の変」があった日です。
明智光秀の「敵は本能寺にあり!」は歴史に残る名台詞で、歴史をあまり好きではないといわれる現代人でも、この言葉は常識として定着しています。
この本能寺の変で織田信長が亡くなり、倒した明智光秀も秀吉に敗れて三日天下に終わります。そして世は関白太政大臣豊臣秀吉の時代、そして関ヶ原を経て徳川幕府の時代へと移りました。その本能寺の変について書いてみたいと思います。
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平和と安全、言いかえれば国民の生命と財産の安全は、口先で平和を唱えれば維持できるというような生易しいものではない。
もし、世界から本気で戦争を終わらせたいと願うなら、信長や秀吉、あるいは家康がやったように、最低でも世界の3分の1を完全に勢力下におさめ、世界中の誰にも勝てないだけの圧倒的な軍事力を保持し、そのうえで、世界の国と人々からあらゆる武器を取り上げるしかない。
それが現実だ、ということです。
そしてそれを群雄割拠する日本で現実にやってのけたのが、信長、秀吉、家康の三代だった。
そのかわり、信長は、我が身を犠牲にしています。
信長は天下の3分の1と、中央政府を手に入れました。これは圧倒的な軍事力です。
その力をもって、武装宗教勢力である比叡山延暦寺、一向宗の本部である本願寺を攻め、僧兵たちを完全に武装解除させています。
おかげで、信長は「第六天の魔王」と称されるようになった。
「第六天の魔王」というのは、魔王の中の最大かつ最強の魔王のことです。
信長は天下をほぼ統一し、武装宗教勢力まで退治したけれど、おかげで宗教的信仰真に裏付けられたゲリラに常に命と織田政権の転覆を狙われるようになったのではないかと、ボクは思っています。
これは、非常に重要なことで、せっかく全国の大名たちを従え、武力を織田政権下の管理下に完全においたはずなのに、織田政権の内部にいる宗教勢力が、常に織田政権の転覆と、信長の命を狙うことになったわけです。
おそらく信長自身、このことをよくわかっていたのではないかとボクは思っています。
「第六天の魔王」という信長の別称は、これは信長=最悪の魔王である、ということを意味します。普通、権力者は、自分をこういう言い方で呼ぶことを好まない。
むしろこの呼称は、信長自身が好んで流布させたものなのかもしれません。
どういうことかというと、天下人となった信長が、延暦寺や本願寺を滅ぼした張本人であり、第六天の魔王ということになれば、宗教ゲリラの狙いの矛先は、信長ひとりに絞られる。
そうしておいて、信長が誰かに殺されたら、武装宗教ゲリラたちは、その攻めの矛先を失い、とりあえずは沈黙をせざるを得ない。
そうしておいて、全国で刀狩りをして、国民から武器を全部取り上げたら、これ以上戦争は起こらない。
もし、そうであるとすれば、もしかすると信長は、もっとも日本の歴史と文化と伝統に詳しい光秀にあえて命じて、自分を殺させる大芝居を打ったのかもしれません。
大名たちは、いわば軍閥です。
より強大な軍事力をコチラが持てば、黙って調伏できます。
しかし武装宗教勢力は、たとえコチラ側がどんなに強大な武力をもってしても、彼らは信仰によって戦いを挑んでくる。
これはやっかいです。
といって、宗教人を皆殺しにすることはできない。
家臣団の中にも、信仰に厚い人はたくさんいるのです。
明智光秀が起こした本能寺の変は、信長の命を奪った事件ですが、このとき、本能寺で信長の遺体はあがっていません。
本能寺は、事変のときの火災で焼け落ちていますが、普通、木造家屋の火災程度では、焼死体が残るものです。
一説によれば、信長の遺体が発見されなかったのは、本能寺が京における信長の出先機関であり、本能寺の地下には織田軍団の火薬が大量に保管されていて、これが火災とともに大爆発を起こしたせいで信長の遺体があがらなかったという説があります。
そうなのかもしれません。
ただ、これはあくまでボクの空想なのだけれど、本能寺の変における光秀の謀反というのは、実は、信長が光秀に命じた大芝居だったのではないか、などとも思えます。
なぜなら、国内に隠然とした実力を持つ武装宗教勢力の影響力を廃し、国内に治安と平安をもたらすためには、討伐を行った信長自身が自称「第六天の魔王」となり、すべての非難の矛先を自分に向けた上で、できるだけ派手に死亡するのが望ましい。
病死ではダメなのです。
側近に裏切られて歯がみして死んだとでもしておかないと、武装宗教勢力は溜飲を下げない。
だとすれば、自分ができるだけ派手な演出で裏切られて死亡するという事態を、誰かにやらせなきゃならない。
そしてその適任者は、織田軍団のなかで、どうみても光秀しかいません。
由緒ある家柄の出で、歴史や伝統に詳しく、朝廷や仏教界からも信任が厚い人物といえば、それは光秀だけです。
https://www.touken-world.jp/tips/7090/ 【本能寺の変】より
1582年(天正10年)6月2日、日本の歴史上屈指の大事件が発生しました。「本能寺の変」です。明智光秀が13,000人もの大軍を率いて、京都・本能寺に宿泊中の織田信長を急襲。防戦空しく対抗し切れないと悟った信長は、寺に火を放って自害しました。
本能寺の変が起きた背景
1582年(天正10年)3月、甲斐に攻め込み武田氏を滅ぼした織田信長は、天下統一の手ごたえをつかみ、本拠地・安土へと凱旋。長年の宿敵を撃破したことで、東北の伊達氏、最上氏、蘆名(あしな)氏、関東の後北条氏、佐竹氏など、北陸の上杉氏を除いて主だった大名はすべて織田信長に恭順の意を示すに至っていました。この時点で織田信長は、東国をほぼ平定していたと言える状況でした。
しかし、西国における事情は異なっていました。確かに九州の大友氏とは友好関係にあり、島津氏とも外交があったものの、西国最大の大名である中国の毛利氏とは交戦状態が続行中。また四国の長宗我部氏は、織田信長からの土佐一国と南阿波二郡以外は返上せよという旨の指図に従わないなど、対立関係でした。
悲願である天下統一に向けて、中国・四国の平定は必須。そのためには、当時協調関係にあった毛利氏と長宗我部氏を打ち倒すことは必要不可欠だったのです。織田信長は1577年(天正5年)10月に羽柴(豊臣)秀吉に中国征伐を、1582年(天正10年)5月には三男・織田信孝を総大将とした四国征伐を命じました。
1582年(天正10年)6月の時点で、織田信長が重用していた家臣が率いる軍勢は全国に散らばっていました。中国(備中)に遠征中の羽柴秀吉をはじめとして、柴田勝家は越中・能登に、滝川一益は上野にそれぞれ兵を率いて遠征中。当時の京は言わば、戦力の空白状態にあったのです。そんな中、織田信長の有力な家臣の中で、織田信長に近い距離で機動的に動くことができる者がひとり…。近江、丹波、山城など近畿一円に軍事的拠点を有していた明智光秀でした。
さらに、織田信長から中国征伐中の羽柴秀吉応援命令を受けたことで、明智光秀には本拠地の坂本から京へ大軍を動かす大義名分ができました。仮に遠征中の諸将が戦場で本能寺の変を知ったとしても、京に上ってくるには時間がかかり、畿内や近江、美濃などの織田信長の領国を制圧することは可能。明智光秀には、時間的余裕ができれば諸将に対抗できる勢力を培うことができるという見通しもあったと思われます。
謎多き大事件
本能寺の変は、日本史上屈指の大事件であるにもかかわらず、本能寺から織田信長の遺体が見付からなかったことなど、現在に至ってもなお謎に包まれた部分が多く、それが事件をミステリアスなものにしています。
最大の謎は、明智光秀が本能寺の変を起こした理由。今日まで様々な説が唱えられていますが、代表的な説についてご紹介します。
怨恨説
明智光秀には、織田信長に恨みを抱くようなできごとがありました。代表的なものとしては、①丹波八上城事件、②斎藤利三事件、③恵林寺事件、④長宗我部氏との関係、⑤饗応事件があります。
丹波八上城事件
明智光秀は、八上城の波多野秀治を4年がかりで攻めていましたが、なかなか攻略できませんでした。そこで自らの生母を人質に差し出し、波多野秀治・秀尚兄弟に対して降伏すれば命と領土を保証する旨を約束。これを受けた波多野兄弟は、投降して織田信長の本拠地・安土に送られましたが、織田信長は波多野兄弟を殺害してしまいます。約束を反故にされたことに怒った波多野秀治の家臣が、人質だった明智光秀の母を殺しました。これによって明智光秀は「母親殺し」の汚名をかぶせられ、織田信長に対して深い恨みを抱いたと言われています。
斎藤利三事件
明智光秀は、稲葉一鉄の家臣だった斎藤利三を家来としました。これを不服とした一鉄が織田信長に訴えた結果、織田信長は明智光秀に斎藤利三を返すように命令。明智光秀がこれに従わなかったため、織田信長は明智光秀を手討ちにしようとしました。この点についても明智光秀には織田信長への恨みがあったと言われています。
恵林寺事件
甲州征伐で武田氏を滅亡させた織田信長は、武田氏に味方した快川紹喜(かいせんじょうき)がいた恵林寺の焼き払いを命令。明智光秀がこれをいさめたため、織田信長の逆鱗に触れてしまいました。さらに、帰路における諏訪の法華寺で明智光秀が「武田を滅ぼせたのもわれらが努力の甲斐」と言ったところ、織田信長の怒りが爆発。明智光秀を折檻しました。これによって、明智光秀は織田信長に怒りを抱いたと言われています。
長宗我部氏との関係
明智光秀は、織田信長から四国の長宗我部元親との和平交渉を命じられ交渉を進めていました。しかし織田信長が長宗我部氏を敵視し、三男・織田信孝を総大将とする四国征伐を命じたことで、それまで和平に向けて交渉してきた明智光秀の立場がなくなってしまいました。
饗応事件(きょうおうじけん)
武田氏を滅亡させたあと、明智光秀は織田信長から安土城における徳川家康らの饗応役(きょうおうやく)を命じられていましたが、魚が腐っていたことに立腹した織田信長は、明智光秀を饗応役から解任。そして、すぐさま羽柴秀吉の援軍として中国出兵を命じました。明智光秀のメンツをつぶすような人事に、織田信長への恨みを抱いても不思議ではありません。
これらの恨みが積み重なり、爆発した結果、本能寺の変を起こしたとするのが怨恨説です。
野望説
戦国時代は身分の低い者であっても、主君を倒すことで権力を手にすることができた下剋上の時代。そんな風潮の世の中であれば、明智光秀が主君・織田信長を倒して天下国家をわが手に握りたいと野望を持っていても不思議ではない、というのがその根拠とされています。
恐怖説
明智光秀は、苛烈な性分であったと言われる主君・織田信長に恐怖を抱いていたとも考えられます。明智光秀が目にしたり、体験したりした織田信長の恐怖としては、①佐久間父子らの追放、②領地替えの恐怖などがありました。
佐久間父子の追放
織田信長は、石山本願寺の攻略において功績がなかったとして、長年仕えてきた重臣の佐久間信盛・信栄親子を追放。同様のことは過去にもありました。明智光秀はもともと、織田信長と対立関係にあった室町幕府の15代将軍・足利義昭に仕えていたという経緯があったことから、いつ追放されても不思議ではないと恐怖心を抱いていたと言われています。
領地替えの恐怖
中国遠征に際して、明智光秀はそれまでの領地だった近江・丹波を織田信長に取り上げられ、出雲・因幡を与えられました。しかし、当時出雲・因幡にはたくさんの敵がおり、その敵を制圧しなければ領地がないという状態。そんな状況で、10,000を超える兵を養うことができるのか。明智光秀にとっては、まさに死活問題です。こうした織田信長の手法に、明智光秀が恐怖を抱いていたとしても不思議ではありません。
織田信長が示してきた、長年の功績も一瞬にして無にする非情さと、安堵の保証がない領地替えの恐怖によって、明智光秀の強迫観念はピークに達したとも考えられます。この不安感が爆発した結果、本能寺の変を引き起こしたのが恐怖説です。
陰謀説(黒幕説)
当時、織田信長を倒し天下国家を手中にしたい武将は他にもいました。彼らが明智光秀と組んだとされるものです。かつて明智光秀が仕えていた足利義昭、羽柴秀吉、徳川家康、朝廷など様々な「黒幕」がいても不思議はない状況であったのも事実です。
新たに発見された直筆の手紙の存在
2017年9月、岐阜県にある博物館所蔵の書状の中から、明智光秀が本能寺の変後に「反織田信長」のリーダー格だった土橋重治に宛てた直筆の手紙が見付かりました。室町幕府の15代将軍・足利義昭の入京を受けた旨をしたためた物であると解釈することが可能だとも言われています。
この手紙の発見が、明智光秀が本能寺の変を起こした理由解明のきっかけになるかもしれません。
なぜ本能寺の変が成功したのか?
本能寺の変が謎に包まれた大事件であることは事実ですが、実行したのが明智光秀であることに変わりはありません。そこで、天下統一を目前にしたときの権力者である織田信長に対する謀反がなぜ成功したのか、その理由を探ります。
起請文と人質
1582年(天正10年)5月17日、備中高松城攻囲中の羽柴秀吉から応援を要請する手紙を受けた織田信長は、明智光秀に援軍の先陣を務めるよう命令。これにより、明智光秀は安土から居城である坂本城に戻り、出陣準備を始めました。そして同年6月1日、明智光秀は13,000人の兵を率いて丹波亀山城から出陣します。
丹波国亀山の東に位置する柴野から1町半(約164m)ほど離れた場所での軍議の場に、明智秀満、明智光忠、斎藤利三、藤田行政、溝尾茂朝が集まったところで、明智光秀から初めて謀反のことが告げられました。明智光秀は、この5人に「起請文」(約束を破らないことを神に誓う文書)を書かせた上で、各々から人質を確保。裏切り防止のために人質を取ることは戦国時代にはよくあったことではありますが、明智光秀が万が一にも情報が漏れることを恐れたことが分かります。
疑わしき者は斬れ!
当時、亀山から西国への道は三草山を越えるのが通常でした。しかしこのとき、明智光秀は軍勢に「山崎を廻って摂津の地を進軍する」旨を告げて、兵を東に向かわせたとされています。そして、織田信長がいる京への道と進むべき西国への道の分岐点であった沓掛で休息を許可。織田信長が滞在中の京は目前でした。
通常とは異なるルートを通っての移動。このことを織田信長に注進する者が現れないとも限りません。計画が露呈した場合には、すべてが水の泡。それどころか織田信長の逆鱗に触れ、逆賊として討ち倒される恐れも。そこで、明智光秀は非情な命令を出しました。家臣の天野源右衛門を呼び出し、「疑わしい者を斬れ」と命じたのです。早朝の道中では、農民が畑仕事中。殺気立った兵の様子に驚いて逃げた人もいました。天野はこれらの人々も斬り殺したとされています。
徹底した秘密工作
軍勢が未明に桂川に到着したところで、明智光秀は、触(ふれ)で馬の沓を切り捨てさせ、足軽には新しく足半の草鞋に替えるように命令。さらには火縄を一尺五寸(56.8cm)に切って火を付けて、5本ずつ火先を下にして掲げることも命じました。戦闘態勢に入り、討ち入りの刻がすぐ目の前に迫っていたこの時点にあっても、兵の中にはターゲットが織田信長であることを知らない者もいました。それほど、明智光秀の情報統制は徹底していたのです。
桂川を越えたあたりで夜が明けました。先鋒を務めていた斎藤利三は京の町中に入ると、軍勢に対して幟や旗指物を付けないこと、その上で本能寺の森や竹やぶなどを目印として、思い思いの道で目的地である本能寺へと急ぐよう周知。明智光秀軍は一団での行動ではなく、グループに分かれて行動していたのです。戦闘態勢に入った13,000人の大軍が一団となって早朝の京の町を歩いていれば、本能寺にいる織田信長に異変が伝わってしまうかもしれません。この点においても用意周到でした。
史上最後の下剋上
6月2日、午前4時。明智光秀率いる13,000人の軍勢は本能寺を完全に包囲していました。対する織田信長は150~160人ほど。兵力の差は歴然としていました。討ち入りから約4時間後、明智光秀による史上最後の下剋上は、織田信長の自害によって幕を閉じたのです。
下々の者の喧嘩?
本能寺の周囲は、取り囲んだ明智光秀軍13,000人によって騒然とした空気。当初、織田信長や小姓(武将の身辺に仕えて雑用をこなす武士)衆は喧嘩だと思っていました。明智光秀軍が鉄砲を打ち込んだことで、織田信長は何者かによる謀反を悟ったのです。小姓の森蘭丸から謀反を起こしたのが明智光秀の軍勢と思われる旨を聞いた織田信長は、一言「是非に及ばず」。これは、織田信長が明智光秀の能力に鑑みて、脱出することは不可能であることを悟って発した物であると言われています。
本能寺の四方から攻め込んできた明智光秀軍に対して、織田信長は初め弓を持って対抗。しかし、しばらくするとすべての弓の弦が切れてしまいます。次は槍で対抗しましたが、肘に傷を受けて御殿の中へと退却しました。すでに御殿には火がかけられ、火の手は織田信長のすぐ近くにまで迫る絶体絶命の状況。織田信長は御殿の奥に篭もり、内側から戸を閉めて切腹し、49年の生涯を閉じたのです。
もし、織田信長が1日持ちこたえていたら…
本能寺の変は、発生から約4時間で収束しました。明智光秀軍13,000人に対して、織田信長の護衛は150~160人ほど。数の上で圧倒的に不利であることに加えて、明智光秀軍は鉄砲などの軍備も万全の状態でした。対する織田信長が手にしていた武器は弓と槍。にもかかわらず4時間もの時間を費やさなければならなかった理由はどこにあったのでしょうか。
答えは、本能寺の構造にあります。現在は移転されていますが、当時の本能寺は、東は西洞院大路、西は油小路通、南は市場坊門小路、北は六角通に囲まれた東西約140m、南北約270mという広大な敷地に周囲と隔てられて建てられていました。そして幅約2~4m、深さ約1mの堀に0.8mの石垣とその上の土居が周辺にあるなど、防御面にも配慮された城塞としての機能も兼備。一般的な「お寺」のイメージとは異なるものでした。そのため、織田信長の手勢の約100倍、13,000人の明智光秀軍をもってしても、攻め落とすのに4時間を要しました。
織田信長が1日だけでも持ちこたえることができていたなら、四国征伐のために大阪まで進軍していた三男・織田信孝の援軍を受けることができ、助かっていた可能性も考えられます。
中国大返しと三日天下(山崎の戦い)
本能寺の変で織田信長が命を落としたことを知った羽柴秀吉は、当時備中高松城を水攻め中でした。しかし、すぐに毛利輝元と講和を締結。京都に向けて約20,000の全軍を出発させました。これが世に言う中国大返しです。そのスピードは凄まじく、備中高松城から山城山崎までの約200kmを約10日間で移動した、日本史上屈指の強行軍とされています。
羽柴秀吉が織田信長の死を知ったのは、6月3日夜から4日未明にかけてのことでした。これは明智光秀が毛利氏に向けて放った密使を捕縛したことによると言われています。羽柴秀吉は、訃報を知ると情報が漏洩しないように備前・備中への道を完全に遮断。自陣に対してもかん口令を敷いて、毛利側に織田信長の死を隠したままで講和を締結しました。そこから京への「大返し」がスタートしたのです。
6月12日、羽柴秀吉軍は摂津国富田に着陣。明智光秀との戦いをこう位置付けます。「謀反による非業の死を遂げた主君・織田信長の敵を討つため、中国遠征を中断しても戻って戦うべき弔い合戦」。こうした情報戦を積極的に繰り広げることによって、羽柴秀吉は多数派工作と戦いの大義名分の獲得に成功しました。そして同日、摂津国と山城国の境に位置する山崎において対陣した羽柴秀吉軍と明智光秀軍は、13日午後4時頃に激突。当初は一進一退の攻防が続きました。
戦局が大きく動いたきっかけは、淀川沿いを北上した羽柴秀吉軍の池田隊が円明寺川を密かに渡り、明智光秀軍の津田隊を奇襲したことでした。これにより、明智光秀軍は総崩れ。羽柴秀吉軍も前線部隊における消耗は激しかったものの、それ以上に明智光秀軍の士気の低下が顕著。兵の脱走や離散が相次ぎ、その数は700余まで減少していました。
明智光秀は退却を余儀なくされていた戦線後方の勝竜寺城を密かに脱出して、拠点である坂本城を目指して落ち延びていましたが、その後、命を落としました。(小栗栖の藪で土民による落ち武者狩りにあったとする説、力尽きて家臣の介錯によって自刃したとする説があります。)本能寺の変があった6月2日から13日までの、わずか11日ないし12日間の極めて短い明智光秀の「天下」でした。この本能寺の変をきっかけに戦国乱世は終焉へと向かい、羽柴秀吉による天下統一への道がスタートすることになったのです。