ショパン、パリから出てフランショームと共に
フランショームはショパンより2歳年上のパリに住んでいたチェリストであり作曲家である。
ショパンは、ジャコモマイベーアの≪オペラの悪魔のローベルの主題による協奏曲的大二重奏
曲≫を作曲したが、この曲は1831年12月出版商のシュレンガーからこの曲の依頼を受けた
時、シュレンガーはマイアベーアには24000フラン(現在の約3260,000円)オペラ≪悪魔のロ
ベール≫に支払っていたが、ショパンの≪オペラの悪魔のローベルの主題による協奏曲的大二
重奏曲≫はショパンには依頼に見合う報酬はなかった。
依頼を受けた頃、ショパンはこの曲が好きではなく「女たらしめ!」と扱き下ろしている。
ショパンが音楽院に冷遇されたのが1832年3月だった。
ショパンはオペラの悪魔のローベルの主題による協奏曲的大二重奏曲を書かざる得なくなっ
た。そして、ショパンがパリ亡命者のポーランド文芸協会を作って会長に就任したのが1833
年1月16日であった。
ショパンはこの頃、ピアノ協奏曲の出版をちらつかされていた。
ショパンにとってピアノ協奏曲は忘れられないワルシャワの婚約者コンスタンツェとの思い出の曲である、ショパンは何が何でも出版しなくてはならなかった。
そして、≪悪魔のローベルの主題による協奏曲的大二重奏曲≫は、なぜだかチェロのフランシ
ョームとの合作となったが作風からもほぼショパンが書いた曲である。
1833年の夏、7月から8月にかけて、ショパンはブリュッセルで数日を過ごしていた。
そこへの道中、フランショームの実家のリールへショパンは立ち寄り、フランショームの家族と親交を深めた。
その時、1832年に≪悪魔のローベルの主題による協奏曲的大二重奏曲≫は出版されていた。(現行では1833年の出版と記されている)
1833年秋にはショパンはトゥーレーヌでフランショームと親しいフォレスト(Forest)家へ、
フランショームと共に行き家族や友人と交流した。彼らの娘アデル(Adele)にはパリで数回レッスンをしていた。ショパンはこの≪悪魔のローベルの主題による協奏曲的大二重奏曲≫をフォレスト家に献呈することになってしまった、いつも気前のいいショパンであった。
ショパンは1833年9月3日にトゥールヌの市庁舎のサロンでコンサートをした。
ヒポリト・フェランド指揮、トゥールヌのオーケストラによるボイエルデューの『隣村の祭り』前奏曲の後、フランショームは自身の幻想曲とエール・ヴァリエを演奏。ショパンは『ピアノ協奏曲ホ短調』ロマンスとロンドを演奏、オーケストラ付きでモーツァルトのテーマの『変奏曲作品2』、次にはフランショームとマイアベーヤの『悪魔のロベール』のテーマで『二重奏』を披露。
ボイエルデューの『白衣の婦人』、マイアベーヤの『悪魔のロベール』のテーマで即興、にマズルカ2曲を組み込んで即興演奏をした。
批評は様々だった。ショパンとフランショームの才能は一部の聴衆には高く評価されたが、一流の栄冠は取り下げられた。
パリに戻っていたショパンは、ル・コトーに旅に行っているフランショームへ3日もか
けて礼状を丁寧にそして面白く書いた。
そこには、お礼が遅れたことのお詫び、パリへ帰る途中出合った、香水を付けた紳士が馬車に乗り込んできてシャルトルへ行こうとしていると話していたがとても臭くて気分を害したエピソードや、トゥーレーヌでショパンに親切にしてくれた婦人へのお礼、そして、ピラミッド型に盛り上げた小麦粉の先端に指輪を乗せてそれを鼻でそれを引っかけて持ち上げる遊びをした思い出話しをした。ショパンがこの時、この遊びが楽しくはなかったがショパンは上手に出来てしまったのだ。そのことをショパンは、フランショームに「あなたは上手だった」とおだてたのであった。いつでも些細なことでも気遣いを忘れてならない立場に追い詰めれれているショパンであったが、皮肉なことにトゥーレーヌの田舎の空気や食事で生き延びたショパンでもあった。
そして、パリに戻って来ていたヒラーとも再会したことや、シュレンガーもフランショームに宜しくと言っている、とフランショームに伝えた。
イタリア人の作曲家で指揮者フェルディナンド・パエールに会ったことも話し、
フランショームにパエールは早くパリに戻るようにと言っていることを律儀に伝えたショパンだった。
オペラに詳しく精通していたショパン、ショパンは自作のオペラの夢は何処へ消えたのだろう。
ショパンは広いアパルトマンへ移ったものの、お金にもならない付き合いの仕事に明け暮れる毎日であった。
ショパンは自分のことをパリに来てから馬鹿になったと言っていた。
トゥールヌ市庁舎 (1159 – 1996)
トゥール市庁舎(19世紀に建てられ現在に至る)