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杉並区 23 (01/03/25) 旧和田堀町 (和田堀内村) 旧堀之内村 (1) 小名 清水 (小字 清水)

2025.03.02 00:09

旧堀之内村

小名 清水


旧堀之内村

堀之内村は、伝承では、和田義盛の居館があり、館は堀を巡らしたので、館を堀之内と呼ばれていた事が地名の由来とあるが、館や堀などの遺構、遺物は発見されておらず真偽の程は不明。元々は堀之内村は和田村の一部であったが、独立したとの説がある。確かに堀ノ内は和田村を東西に分断する位置にあるので説得力はある。和田村、堀之内村、永福寺村、和泉村の四ヶ村は、江戸時代の初期には幕府直轄の天領だったが、1635年 (寛永12年) に堀之内村は麹町山王日枝神社の神領に、和田村の大部分と和泉村の大部分及び永福寺村の7割程は旗本の内田正世の領地に、和田村の内の一部が大宮八幡宮の神領に、和泉村と永福寺村の残りがそのまま幕府直轄の天領となっている。

江戸時代の堀之内村には、清水、原、中道、本村、小屋ノ台の五つの小名で構成されていた。

1699年 (元禄12年) にの妙法寺へ、碑文谷村の法華寺から厄除けの祖師と言われた日蓮聖人木像が移され、その後、江戸中心地も含めて広く、人々の信仰を集め、妙法寺への参詣道の堀之内道沿いから、妙法寺の門前町周辺は大いに大いに繁盛し、水茶屋、料理茶屋、酒肴肆店軒、民家が多く建ち江戸近郊の名刹となっていた。

まずは旧堀之内村 小名 清水の史跡を見ていく。この地域には多くの史跡があり、今回 (3月) の東京滞在では全ては見れず、5月に東京に来た際に巡った際に訪問したものも含めている。



旧堀之内村 小名 清水

小名 清水は、清水が湧き出ていた土地だったので、その名が生まれたと考えられている。すぐ北隣の高円寺村の真盛寺内の小沢の池がその湧水と思われる。1889年 (明治22年) の小名 清水は清水、北原、三谷の三つの小字に分割され、1932年 (昭和7年) に町名改定が行われ、旧小名 清水の三つの小字は旧小名 原と中道の地域と共に堀之内一丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) には旧小名 清水に相当する地域は堀ノ内三丁目となり現在に至っている。

1896年 (明治29年) の地図を見ると民家は妙法寺近辺、そこへの参詣道だった堀之内道沿いに集中している。


堀之内寺町

小名清水の北側から旧高円寺村小字 中小沢、旧和田村の小名 松ノ木にかけては明治、大正時代に旧江戸から移転してきた多くの寺院が存在している。小字の清水地域の寺院には6つの寺院があり、その内5つが、明治以降に移転してきており、全て日蓮宗寺院になる。ここには大いに栄えた日蓮宗の妙法寺が昔からあった事で、妙法寺の北側、当時は畑だったこの地を選んだのではないだろうか?


日栄山妙祝寺 (日蓮宗)

堀ノ内寺町の北側に日蓮宗の日栄山妙祝寺がある。本尊として十界曼荼羅並びに木造日蓮上人坐像を祀っている。文政寺社書上によると1628年 (寛永5年) に江戸麻布桜田町 (現 港区六本木) に開山を興善院日為聖人、開基を常法院殿妙祝日栄大姉として開創されたとされるが、古記録は焼失し詳細は不明。

1914年 (大正3年) に寺院の発展をはかるため、現在地へ移転。1923年 (大正12年) の関東大震災で諸堂が倒壊し、現在の伽藍は1924年 (大正14年) に再建され、1936 年 (昭和11年) に現在の伽藍に再興されている。堂には江戸初期に作られたといわれる木造不動明王立像が安置されている。

脇には無縁塚が置かれている。

開基の日栄大姉は、伊予西条藩主一柳監物直盛の室で、家伝の開運不動尊の諸霊験に感銘し、桜田町の邸内に不動明王を祀る持仏堂を開創したのが当寺の始まりといわれ、生前、開山の日為と親子の縁を結び、大姉の死後、日為が菩提のため大姉の法名にちなんで山号を日栄山、寺号を妙祝寺としている。それ以来、一柳家一族の菩提寺となり、墓地には累代の墓所 (下の写真) がある。


如説山修行寺 (日蓮宗)

妙祝寺の門前の荒玉水道道路 (都道428号線、地元では火葬場道と呼ばれている)を挟んですぐ南に本尊を一塔両尊像とする日蓮宗の如説山修行寺がある。文政寺社書上によれば、1626年 (寛永3年) に下総国葛飾郡平賀村の本山本土寺 (現千葉県松戸市) の末寺として、修行院日城上人により麹町 (現千代田区麹町) に開創され、その後、江戸市街の整理のため、1634年 (寛永11年) に赤坂一ツ木 (現港区赤坂) へ移転し、1657年の明暦の大火の後、幕府の防火対策のため、1658年 (万治元年) に1,500坪の拝領地をもって市ヶ谷谷町 (現新宿区富久町) へ移転している。

1903年 (明治36年) の東京市都市計画により、1912年 (大正元年) に現在地移転している。1945年 (昭和20年) 5月25日に空襲を受け、堂宇など建物全てが焼失したが、後に再建されている。

墓地には1812年 (文化9年)に法華信者であった尾張藩附家老で犬山城六代城主成瀬正典の生前墓 (写真中下) や、八代正住の正室姬 (右下)、七代正壽の正室嘉津姫 (左下) など一族の墓も十数基建てられている。

また、出雲広瀬藩家老天野家の墓 (写真上)もあった。修行寺と広瀬藩の関わりは、1695年 (元禄8年) に、月山富田城下に存在した広瀬藩(出雲国松江藩支藩)の藩主松平近栄の室、満姫が本土寺に法華経を守護するとされる女神の七面大明神の木坐像を奉納し修行寺本堂に安置され、1731年 (享保16年) には、松平家からの寄付もあって七面堂が建てられていた。

その他には能楽シテ方流派の一つの金春流の別家金春八左衛門家十世安治の墓 (下) もあった。


案楽山本仏寺 (日蓮宗)

修行寺の門前から東に向かって細い道が伸びており、道を進むと、北側に、案楽山本仏寺がある。これも日蓮宗の寺院で、十界勧請の大曼荼羅、江戸中期に作られた木造日蓮上人像、釈尊像および仏使の四菩薩像を本尊としている。

本仏寺は1631年 (寛永8年) に江戸の谷中三崎に創建され、先に訪れた修行院の日通上人により開山されている。1689年 (元禄2年) に寺院焼失した後、1690年 (元禄3年) に本所出村 (現 墨田区太平) に寺地を拝領して移転し、1698年(元禄11年) には身延山久遠寺の末寺となっている。1735年 (享保20年) に子授け・開運の鬼子母神を祀る鬼子母神堂を創建、真源寺と法明寺とともに江戸三大鬼子母神の一つとして参詣や縁日で賑わい、江戸庶民の信仰を集めていた。 この鬼子母神像 (写真右下) には言い伝えがある。

1677年 (延宝5年) に、小網町(現・日本橋小網町)の三叉川から出現した霊像で、下谷池之端に住む横田七郎右衛門という法華信者が5人の子を次々と失ったため、子授けを雑司ヶ谷鬼子母神に祈願したところ、舅が鬼子母神像を持ってくる夢を見た。舅の木村伊左衛門が横田七郎右衛門夫婦のために三叉川で願掛けの水垢離を取っていたとき、髪の毛に左手に赤子を抱き、右手に柘榴の杖を持った像がかかったので、所願成就のしるしと喜び、娘夫婦の所へ持参した。それからまもなく、横田氏の妻は男子を生んだという。横田氏は、この霊像を在家に安置することは恐れがあるとして、1678年 (延宝6年) に本仏寺に奉納した。それ以降、この像は、水中出現の「本所の子授け開運鬼子母神」と崇められるようになった。

1735年 (享保20年) に鬼子母神像を拝み、子を授かった津軽家の殿様が、そのお礼として鬼子母神堂を建立している。1784年 (天明4年) に天明の大火で類焼した諸堂を復興し、1791年 (寛政3年) には鬼子母神堂を再建している。

1923年 (大正12年) に関東大震災で堂宇を焼失、1942年 (昭和17年) に現在地へ移転。

本堂前境内には江戸時代に作られた丸彫り合掌浄行菩薩立像(写真下) が置かれている。体の痛いところを水をかけてタワシで洗えば痛みが治るという御利益があるといわれ、本所時代には、多くの信者で浄行菩薩立像は乾く暇がなかったといわれている。


報新山宗延寺 (ほうしんざんそうえんじ 日蓮宗)

本仏寺から更に道を東に進み、東京都道318号 (環状七号線) に突き当たった所にも、日蓮宗の報新山宗延寺がある。本尊として十界曼荼羅本尊と木造日蓮上人坐像を祀っている。1573年 (天正元年) 頃、相模小田原城下の郷士の報新宗延 (あたらしそうえん) が居宅を道場としたのが開創と伝えられている。山号と寺号はこの報新宗延からきている珍しいケース。1591年 (天正19年) に開基の二世日俒 (にちごん) 上人が後北条氏滅亡の混乱を逃れ、宗風高揚のため本尊の祖師像を背負い、経巻を懐にして江戸に移り、下谷車坂 (現台東区東上野) に寺地を賜わり寺の基礎を築いた。この後の寺運の発展は著しく、本山久遠寺直末(じきまつ)の江戸日蓮宗の寺院を統括する役目を担う江戸三大触頭 (ふれがしら) の一つとなり、江戸中期には寺中に五坊の塔頭 (子院) を置く大寺になったといわれている。明治維新後、火災により本堂、客殿、庫裡などを焼失しが、直ちに再建され、1917年 (大正6年) に区画整理のため現在地へ移転してきている。

環七に面した山門には注連縄が張られている。神仏集合の名残の様だ。狭い境内には灋 (法) 界萬霊塔や七重石塔が置かれている。

また境内の片隅には壽福稲荷大明神の祠も置かれている。日蓮宗は古い時代から三十番神など古来からの神道との融合に深く関連している。

本堂にも注連縄が張られている。ここにも神仏習合が現れている。本堂には小田原から江戸に移って来た際に持ってきた宗祖⽊像 (写真右下) や鬼子母神像、妙見菩薩像 (写真左下) が安置されている。「昔、⼩⽥原の農家で毎晩経を読む声が聞こえた。主人が声の主を尋ねていくと⼟蔵の中で月光に照らされた⽊像を発⾒した」という逸話があり、そのため「読経の祖師」と呼ばれ、信⼼すれば声がよくなり、難病が治ると⾔われた。かつては、「江⼾⼗祖師」という、江戸にある著名な日蓮聖人の十像の一つとして、あつい信仰が寄せられ、江戸の歌舞伎役者や芸人の崇拝も深く、境内地には水鉢 (本堂前のものがそれだろうか?) が奉納されている。また、本堂前には観世音菩薩永代供養塔 (写真右上) が置かれている。

本堂の隣には客殿が建てられている。これは大正天皇の御産殿を移築したものだそうだ。客殿前には無縁塔と題目塔 (写真左下) が置かれている。


地蔵菩薩像

宗延寺のすぐみな南、道沿いに合掌の地蔵菩薩立像が置かれていた。昭和50年代 (1975 年~) に造られたそうだ。誰か故人の供養のためか、交通安全祈願のためなのだろうか? 造花ではあるが花と飴が供えられているので、現在でも大切にされている様だ。


正住山福相寺 (日蓮宗)

地蔵菩薩像から次の道を西に入った所に正住山福相寺がある。この寺も本尊を十界諸尊と木造日蓮上人坐像を祀る日蓮宗の寺院になる。福相寺の歴史については異なる二つの説が文献にあり、その一つは1589年 (天正17年) に一如院日重 (身延山久遠寺20世) により下谷 (現 台東区) に開創され、寛永年間(1624年~1644年)に寺地が上野寛永寺の境内地となったため、小石川白山前 (現 文京区白山) に移転したとされる。もう一つの説では1628年 (寛永5年) に正住院日協により谷中三崎 (現 台東区谷中) に開創され、1703年 (元禄16年) に火災に遭い焼失したため、その後、小石川白山前に移転したとも伝わっている。

1918年 (大正7年) 建立され移設された山門を入る。境内は狭いながらも手入れ行き届いている。

境内には本堂とそれに隣接して客殿 (写真右下) が建てられている。本堂も1918年 (大正7年) に建てられたものを1937年 (昭和12年) に白山から現在地に移転する際に移築したもの。本堂には、中央に檀家総代である森岡平右衛門氏が、父母の菩提供養のため京都の仏師林如水に注文依頼した 1823年 (文政6年) 作の宝塔、釈迦如来、多宝如来、その下に日蓮坐像、両脇に四菩薩(上行、無辺行、浄行、安立行)、文殊菩薩、普賢菩薩、不動明王、愛染明王、四天王 (持国天、毘沙門天、廣目天、増長天) 等が安置されている。

また本堂には、病気平癒の御利益や福を授けてくれるという願満大黒天、その両脇に三十番神と共に安置されている。(左上) この願満大黒天は福相寺16世日元が大坂に立ち寄った際、長病の某氏のために同家に安置されていた伝教大師 (最澄) の作といわれ、日元がこれを清め祈ると某氏の長病が全快したという。これが縁でこの像は日元に託され、福相寺鎮護の善神として境内鎮守大黒堂 (寛政年代、1790年代に建造、ここに移ってきた後には建てられていない) に安置されたという。江戸後期には、来縁の記を刷物 (右上) にして参詣者に配ったほど庶民の信仰を集め、関西方面からも参詣者があり、その人々が奉納した石塔 (左下/右下) が今も境内に残っている。また、本堂前には1850年 (嘉永3年) に大阪、京都、泉州堺、江戸の商人により寄進された大黒天の使神とされる狛鼠石像 (中下) も残されている。日本神話では、根の堅州国での試練の逸話が描かれ、その一つが、須佐男尊が孫の葦原色許男神 (あしはらしこをのかみ 大国主) に野原に放った鏑矢を取ってくるように命じ、焼き殺そうとした際に、鼠が大国主を洞穴に導いて救ったとされる。このことから鼠は大国主之命の神使とされている。

境内の鬼門 (東北) の位置、庭の中に総代の森岡家が寄贈した世の音を聞く菩薩で、33の姿に変身して人々を救う聖観音像 (観世音菩薩) も白山から現在地に移転する際に移設されている。

今津屋森岡家墓所の中に江戸橋と刻まれた石柱があった。檀家総代の森岡家は江戸時代は八幡屋、今津屋を称して、江戸橋のたもとにて居酒売渡世、鉄物渡世 (打物砥石類) を業し、江戸時代から現在に至るまで福相寺に深く関わってきている。これは日本橋川に架かっていた江戸橋の標石柱で、同家の敷地内にあったもので、この場所に移されている。

墓地には、題目塔や延命地蔵菩薩像等がある。墓地西端塀際には初代杉並区長の魚井重太郎 (1932.10 ~ 1934.6) の墓 (右下) も置かれている。


妙法寺参詣道(堀之内道)

福相寺山門前の道を南に進むと妙法寺商店街の道に出る。かつては妙法寺への参詣道の終点で、この道沿いは門前町が形成され、参詣客を対象に多くの店で賑わっていた。記録では客数が四百人近いという店もあったという。今では店もまばらでかつての面影は失われている。

江戸から日蓮宗妙法寺へ向かう代表的な参詣道が妙法寺商店街の入口の妙法寺東交差点から東北に伸び青梅街道に至る堀之内道または妙法寺道と呼ばれていた道になる。明治に入り甲武鉄道(中央線)が開通し、1896年 (明治29年) に、叶屋・関口兵藏により、中野駅から妙法寺の門前町までのアゼ道や農道を直線に直し建設された堀之内新道により、堀之内道の利用者は減少した。江戸時代の堀之内道を通り妙法寺参詣の様子が浮世絵に描かれている。


日圓山妙法寺 (日蓮宗)

妙法寺商店街の先に日円山妙法寺がある。堀之内寺町にある寺院の中では唯一昔からこの地にあった日蓮宗の寺で、広大な敷地に幾つもの堂宇がある。日蓮の祖師像が厄除けに利益があるということで、江戸時代より多くの人々の信仰を集め、厄除け祖師と知られ、おそっさま (お祖師さま) と呼ばれていた。妙法寺はその歴史から日蓮宗では由緒寺と位置付けられ、総本山、大本山に次ぐ本山の寺格となっている。院妙法寺は1941年 (昭和16年) に勝劣派と一致派の2宗派による三派合同で新生日蓮宗となる前には旧日蓮宗の一致派 日遠系 久遠寺派にで、堀ノ内法縁を組織していた。先に訪れた宗延寺、福相寺、修行寺などはこの堀ノ内法縁に属している。

妙法寺は元々は真言宗の尼寺だったが、元和年間 (1615 - 1624年) に日逕上人が、母の日圓法尼の菩提のため日蓮宗に改宗し、日圓法尼を開山とし、日逕上人が開基となり、山号を日圓法尼に因み日圓山、寺号を妙法寺としている。当初は碑文谷法華寺の末寺であったが、1698年 (元禄11年) に碑文谷法華寺は不受不施派 (法華経を信仰しない者から布施を受けたり、法施などをしない) の寺院として江戸幕府の弾圧を受け、改宗を余儀なくされた結果、身延山久遠寺の末寺となった。この時に、碑文谷法華寺にあった祖師像を譲り受けたのが厄除け祖師像で、現在でも祖師堂に鎮座している。

1769年 (明和6年) の出火により境内の建物は悉く焼失し、現存の伽藍は1801年 (寛政13年) 以降に整備されたもの。

日蓮宗は、地域社会との結びつきが深く、地域住民の信仰の中心として、福祉活動や地域の文化イベントや祭りなどを開催して地域住民との交流を深め、地域社会の活性化に貢献している。妙法寺も地域活動を積極的の行っている。古典落語「堀の内」の題材になった事もあり、毎月、堀之内寄席を開催したり、毎年、「ほり乃うち」という機関紙を発行し、寺の紹介や堀之内法縁の寺院紹介、日蓮上人の生涯など、非常に詳しく分かりやすく記載している。このレポートは「ほり乃うち」を参考にしたところが多くある。また、1926年 (大正15年) に妙法寺貫首が「五重塔を建てるよりも、学校をつくって人間の塔を建てよう」という誓願と決意をもとに妙法寺の南西の小名 中道 (小字 谷中) に立正高等女学校を設立し、その後、東京立正高等学校 (右下) となり、東京立正短期大学 (左下)、東京立正中学校、東京立正保育園を設立している。


参道

妙法寺商店街から参道を進み妙法寺への入口に着く。入口には日蓮仏教の教えが世界中に広がり、人々が皆妙法に帰依して仏国土を実現する願いを表した 「一天四海皆帰妙法」 と刻まれている。入口には1904年 (明治37年) 建立の古代イオニア式風の燈籠や題目塔などの石塔が並んでいる。


仁王門 (山門)

妙法寺へは山門の仁王門から入る。この仁王門は、1787年 (天明7年) に建立されたものの再建で二層造りの桜門形式、入母屋造、本瓦葦、潜戸及び左袖塀付きになっている。仁王門両脇には金剛力士像 (仁王像) が安置されている。この仁王像は万治年間 (1658 ~ 61年)に四代将軍徳川家綱が麹町日吉山王社に寄進したものを1868年 (明治元年) に妙法寺に移され、元々置かれていた増長、広目二天像と入れ替えられたもの。仁王門には、獅子、龍、華などの彫刻が絢爛にほどこされている。

仁王門の左前には江戸消防記念会の「開宗七百年紀念」、仁王門右手には江戸の鳶組が寄進した二基の常夜燈が並べられている。

常夜燈の隣にはもう一つ門がある。門を入った先にある鉄門と似た西洋風の門になっている。昔はこの場所は長屋門があったが、鉄門が作られた際に取り壊されている。その後、鉄門は大玄関前に移され、この場所には鉄門のデザインに合わせて新しい門が作られた。門の前には江戸三大石匠と呼ばれ、江戸時代から昭和初期まで四代わたり続いた井亀泉 (せいきせん) 銘の酒井八右衛門が 1923年 (大正12年) に作った狛犬が置かれている。門の脇には1878年 (明治11年) に鉄門と共に建てられた門番小屋 (写真下) が残っている。


手水舎 天明の水

仁王門の山門を入り、祖師堂へ向かう参道の左手に唐子に支え手水鉢が置かれている手水舎が置かれている。1772年 (天明2年) に渇水のために掘った井戸で、妙法寺の水屋といわれている。それ以降、涸れることなく清水が湧いているそうだ。手水鉢は1760年 (宝歴10年) に江戸神田の鋳物師粉川市正藤原国信により鋳造され、その後、1819年 (文政2年) に再建されたもの。1853年 (嘉永6年) 建立と推定されている手水舎には精巧な彫刻も施されている。


鐘楼

参道右手には円筒型の鐘楼がる。梵鐘の銘文には1725年 (享保4年) に自得院日性を願主として江戸神田の鋳物師粉川右近藤原安継が鋳造を行ったと刻まれている。また、梵鐘には「鐘の音は妙法の声、鐘を打てば仏と一つになる」という意味の文字が刻印されているそうだ。この梵鐘は妙法寺の草創期に鋳造されたもので伽藍に関わる現存物としては最も古いもの。当初は鐘楼門に吊られていたが、1769年 (明和6年) の火災後、1787年 (天明7年) に再建された鐘楼門 (現在の楼門) にも掛けられ、現在は江戸時代末期の1821年 (文政4年) に建てられた鐘楼に移されている。


祖師堂

参道を祖師堂に進むと、参道両脇には1769年 (明和6年) 鋳造の常夜燈が置かれている。この常夜燈の格狭間には、幾つもの唐獅子像があしらわれている。


常夜燈の間の参道には身を清める常香炉が置かれ、その先に祖師堂がある。

祖師堂は江戸時代に火災に遭ったが、その後、1772年 (明和9年) に再建され、老朽化で1812年 (文化9年) に四ツ谷の大工棟梁山田與兵衛樹孝により、新しく建立されたものが残っている。祖師堂には「おそっさま」と呼ばれる祖師御尊像 (除厄け祖師) が奉安されている。言い伝えでは、1261年 (弘長元年) に日蓮大聖人が鎌倉由比ヶ浜から伊豆伊東への流罪となっていたとき、弟子の日朗上人は由比ヶ浜で何日も御題目を唱え続けていた。ある日に不思議な光を放ち漂う霊木が日朗上人の膝もとまで流れてきた。日朗上人はその霊木が佛天の導きと拝し、日蓮大聖人の姿を彫刻し、日蓮大聖人の無事を祈願していた。三年後に日蓮大聖人が流刑地から戻った際に、尊像を見て、自ら開眼し魂を込めたという。この年は日蓮大聖人が数え年42歳だった事から、除厄け日蓮大菩薩と呼ばれるようなったという。

祖師堂向拝正面には、江戸時代から昭和にかけて房総半島を中心に、五代にわたり、寺社の欄門や向拝を彫った宮彫り師一族波の伊八初代武志伊八信由の作による懸魚 飛龍 (写真左上)が正面破風に、その下には五態の龍 (下)、上長押には木鼻 獏 (中左)、木鼻 獅子 (中中)、蟇股 飛龍 (中右) など見事な彫刻が施されている。

堂内の内陣には、除厄け祖師を奉安する宮殿があり、天井や欄間、幢旛、丸柱にが金箔で覆われている。背後には1790年 (寛政2年) に仏師玉沢浄慶・良慶父子により作られ、元鐘楼門に奉安されていた南方を守護し病気の難を除く増長天 (中左) と西方を守護し怨敵の難を払う廣目天 (中右) も奉安されている。外陣の正面欄間の中央には初代波の伊八作の松に孔雀 (中中)、その左右には浄土にいる上半身が天女の姿をした美声の鳥の迦陵頻伽 (下) が彫られている。


額堂

境内の西にはお札場から鼓楼に長く伸びた額堂がある。1814年 (文化11年) に建立されたもので、江戸時代から奉納された14枚の絵馬と扁額が掲げられている。中には日蓮宗の熱心な信者だった加藤清正像を描いた絵馬もある。


鉄門

境内の東側には書院の門がある。これは鉄門と呼ばれ、1878年 (明治11年) に妙法寺が工部省赤羽工作分局に設計施工を依頼し、鹿鳴館・上野博物館・ニコライ堂などを設計し、日本の近代建築学会の恩師といわれる工部省御雇の英国人ジョサイア・コンドル博士 (1852-1920) が設計した和洋折衷様式の門。元々は仁王門の東側に通用門として建てられ、後に現在地に移されている。門柱は基部に牡丹文様の香狭間、唐獅子付腰額縁、中央に銘文額縁、上部に井桁橘文様付額縁を設えている。柱頭には、青桐鋳造の童子 (東側女性、西側男性) を安置し、門扉を吊り込んだ楣上には、彩色された鳳凰を冠し、5個のアカンサス装飾付の灯籠を付設している。洋風を基調とし、日本古来のモチーフを散りばめている。明治初期の文明開化を推進した時代の中でも、和洋折衷の斬新なデザインとなっている。


總受附 (総受付)、手水舎

鉄門の東には手水舎があり、その奥には總受附 (総受付) が建てられている。


大玄関、書院、御成の間

鉄門を入ると、書院の大玄関 (写真左上) がある。妙法寺で行われる特別行事のときに使う正式な玄関になる。通常は書院西側玄関 (右上) が使用されている。書院奥には1814-1817年に竣工した御成の間 (下) と呼ばれる部屋があり、江戸時代後期に徳川将軍が鷹場への途中や野遊の際に将軍の休息御膳所として、また御三卿の一ッ橋家、田安家の御膳所としても使われていた。将軍の座る上段の間は一段高くなっており、天井、床の間、腰障子には狩野幽玄常信の筆の水墨障壁画が描かれている。現在では千部会や御会式など行事の際に「お経頂戴の間」として活用されている。


書院庭園

書院の御成の間と諸大名の使者が来寺の際に応接間として使った座敷の使者の間は書院庭園に面している。


本堂(三軌堂)

祖師堂と書院の間を奥に進むと、祖師堂と書院を結ぶ渡り廊下がある。この場所を描いた浮世絵があり、当時のままに残っていることがわかる。

この渡り廊下をくぐると、三軌堂と称される本堂が建てられている。「三軌」とは、如来の衣・座・室を表し、法華経を信じ説く人の三つの心構えを表している。本堂は1819年 (文政2年) に建立されたが、二百年近く経った際に、老朽化柱や長押が湾曲するなど随所に老化が目立ってきたことから、宗祖日蓮大聖人伊豆法難御赦免七五〇年慶讃事業として、2010年 (平成22年) から建立当初の趣を残した形で再建工事が行われ、2013年 (平成25年)に完成し現在に至っている。

本堂内正面の諸仏諸尊像 (写真左上) は、日蓮大聖人が文字として顕された大豆茶羅御本尊を木像で表現したもので、中央上部には、お題目が書かれた多宝塔を中心に釈迦牟尼仏と多宝如来が並座、その両脇には、未法に法華経を弘める地涌の菩薩の上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩が並んでいる。下段には、慈悲の象徴の白像に乗る普賢菩薩と智慧の象徴の獅子に乗る文殊師利菩薩、その外側には憤怒相の不動明王と愛染明王が祀られている。四隅には、東西南北の四方を守護する持国天、広目天、増長天、毘沙門天の四天王が置かれ、正面前方には昔は出開帳で多くの人々の参拝のため他所に持ち出された日蓮大聖人像「おそっさま」が祀られている。

西側祭壇 (右上) には、清澄にて立教開宗した姿を表した、「旭が森のお祖師様」と呼ばれる日蓮大聖人の立像が祀られている。その両脇には三十番神も祀っている。三十番神とは、日本全国の神様が一ヶ月間三十日交代で法華経を守護するという思想に基づく三十柱の神。東側祭壇 (左下) には、釈迦牟尼仏立像と法華経の守護神の鬼子母神、毘沙門天、十羅刹女、七面大明神、大黒福寿尊天が祀られている。本堂奥には釈迦堂 (右下) があり、中央に釈迦牟尼仏座像が鎮座し、その左右には妙法寺歴代山主と檀家の位牌が置かれている。


日朝堂

本堂からは祖師堂からの渡り廊下がさらにと北側奥に伸び、日朝堂 の創建時期は不明だが、江戸三大大火の一つの明和大火 (1772年 明和9年)以前には建立されていたと推測されている。現在の日朝堂は1828年 (文政11年) に創立され、この年に京都の仏師林如水により作られた身延山十一世行学院日朝上人像が法華経の経巻を開き読む姿で奉安され、像胎内にも日朝上人像が納められている。堂の手前には、幕末から明治初期頃に作られた手水舎がある。

日朝上人(1422 ~1500年)は室町時代初期の人で身延山第十一世法主として 日蓮宗総本山身延山久遠寺発展の礎を築いたとされている。眼病を患い失明に至ったほど勉学に精進したが、眼病回復後、眼病を患った人々救済の大願をたてた事から、「学問と眼病の守護」としても崇められていた。また、室町時代の代表的な教学者として、稀世の学匠としても高名で、学業成就、合格祈願のため、受験シーズンには多くの人々が訪れている。現在でも6月25日の命日には日朝上人大祭が執り行われている。


二十三夜堂

日朝堂の東に隣接して二十三夜堂が建てられている。1878年 (明治11年) に建立されたもので、堂内には勢至菩薩が変化した月天子月を神格化した神である二十三夜尊大月天王像が安置され二十三夜様と呼ばれている。神道では月読尊に相当し、神仏習合の月待ち信仰が続いており、毎月23日に開帳され、大勢の人が参拝し、良縁や財運を祈願している。特に10月23日には、二十三夜尊大祭を行っている。この日には祖師堂では堂内西側に、二十三夜尊の掛け軸を祀り、僧侶がお経を読み法味を捧げ、その功徳を参拝者が授かっています。二十三夜尊大月天王の神使とされる兎の彫刻が、向拝や扁額に施されている。また、堂内には「なで石 (右下)」と言われる白蛇が這っている様な石が奉安され、この石を撫でると様々な御利益があると伝わっている。


浄行堂

二十三夜堂の東側には浄行堂が置かれ、堂内には浄行菩薩立像が安置され、菩薩像の体を清水で洗い、祈願すれば病気治癒、家内繁栄の御利益があるとされている。


裏庭

本堂、日朝堂の西は広い裏庭になっている。


裏庭には幾つものの石塔、燈籠などが置かれている。その中には井戸 (左上)、1860年 (万延元年) 建造の五重石塔 (右上)、道標 (中左)、キリシタン燈籠 (中中)、仏門に入り剃髪した女性の髪塚 (中右) などが見られる。


千部講中題目塔

祖師堂の裏にあたる裏庭の南端には二基の題目塔が建っている。寛政年間 (1789 ~ 1801年) に祖師堂が再建された時に題目講により造立されたもの。向かって右は「両国 東西講中」とあり、東は習志野、西は八王子、北は鳩ケ谷、南は小田原からの関東一円の講中によるもので、石塔右面には、祖師五百五十遠忌報恩と刻まれている。左の石塔は三日講、千部講により造立されたもの。当時の妙法寺は、全国からこれらの千部講中が集まり千部会に参加していたと考えられ、その賑わいをうかがい知ることができる。

千部会の起源は続日本書紀に記載がある「748年 (天平20年) に聖武天皇が先帝元正天皇の崩御に際し、法華経壱千部を書写して供養した」と言われている。日蓮宗では、全国各地から集まった僧侶が法華経一部を壱千回読誦し、「法華千部会(「お千部」とも呼ばれる)」と称している。江戸時代、最盛期には江戸には200以上の題目講があり、その半数が妙法寺に参詣していたという。妙法寺の千部会は1767年 (明和4年) 頃には年中行事として定着し、江戸の題目講が千部講中を組織し、祈願、追善、報恩などのために、壱千部の経典を読誦する法会を行っていた。現在では三日間にわたる法華千部会が行われている。


征清軍隊戦死者追悼之碑、日露戦没戦病死者追悼碑

裏庭の半ばには二基の供養碑が並んで建てられている。向かって右は征清軍隊戦死者追悼之碑で、1894年から1895年にかけての日清戦争で戦死した日本軍兵士追悼の記念碑、左は日露戦没戦病死者追悼碑で、1904年から1905年にかけての日露戦争で戦死した兵士たちを追悼するために建立された記念碑になる。


有吉佐和子の碑

裏庭の日朝堂近くには作家の有吉佐和子の碑が作られている。有吉佐和子はキリスト教信者なのだが、妙法寺のすぐ近くに住んでいて、境内を通って帰宅していたそうで、妙法寺とも懇意にしていたそうだ。


子育観世音菩薩立像

裏庭北には観音様が立っている。 2000年 (平成12年) に造立された子育観世音菩薩で、世の人の苦しみを聞き届け、災厄から救うという。毎年4月18日に大祭が行われ、子どもの発育増進、子宝祈願に参詣者が訪れている。


裏門

子育観世音菩薩立像の側には裏門があり、ここからは墓地への長い道が延びている。裏門はもともとは釣瓶井戸の上屋だったが、後に手水舎に転用され、更に裏門 (墓地門) に改造されたもの。


菖蒲田

墓地への道沿い東側には杉並百景に選ばれた菖蒲田があり、ここではます。約500株の花菖蒲が植栽されている。例年6月上旬から中旬頃が見頃なのだが、まだ3月で、菖蒲は咲いていない。インターネットに満開時に訪れた人がその写真を掲載していたので、それも載せておく。


無縁塔、庚申塔

墓地内の無縁塔の中に駒形石塔の庚申塔が置かれている。石塔上部には日月が刻まれ、中央には阿弥陀如来が浮き彫りされ、その下に左右に二匹の猿が浮き彫りされている。庚申塔が広まったには江戸時代の寛永年間 (1624–1645年) 以降で、初期には後に主流となる青面金剛/三猿像の他、阿弥陀、地蔵尊、猿田彦など主尊が定まっていなかったので、ここにある庚申塔の造立時期不明だが17世紀半ばから末のものの様だ。


歴代住職墓碑

墓地の中に無縫塔 (卵塔) が幾つも並んだ墓所がある。無縫塔は通常、僧侶の墓で、ここには開山の日圓法尼をはじめ歴代の住職の墓になる。


庚申塔

個人墓の中にも庚申塔があった。自然石に庚申と大きく刻まれ、その下に三猿が浮き彫りされている。


堀之内静堂

墓地の東側に妙法寺の葬儀施設の堀之内静堂が建っている。


稲荷神社

妙法寺の外、西側の道沿いに稲荷神社の祠がある。創建年代や由緒等、詳細は不明だが、屋敷神の様に思える。祠の中には幾つものの狐と奥にはお札が祀られている。お札の前に御幣が置かれているので全体は見えないのだが、お札の下隅には、日蓮宗の四天王の大廣広目天、大増長天と書かれている。日蓮宗の髭曼荼羅と呼ばれる大曼荼羅 (十界曼荼羅) で日蓮宗の本尊になる。稲荷神社は神道では宇迦之御魂神を祀るのだが、ここでは日蓮宗の本尊が祀られている。これは日蓮宗ではおかしいことではなく、稲荷は大黒天、鬼子母神、毘沙門天、帝釈天などと共に法華経守護の諸天・善神とされており、ここでは日蓮宗信者が屋敷神として稲荷神社を建てたのだろう。これ藍の神仏習合の影響がこの様な形残っている。


今回の東京滞在の最終日は旧堀之内村の史跡を見てきたが、妙法寺で随分と時間をかけたので時間切となった。旧堀之内村内にはまだまだ多くの史跡があり、積み残しとなった。次回、東京に行くきた際に残りを見ることにする。


参考文献