Ride in Kyushu Day 55 (8/2/19) Seinan Civil War Last Battle Shiroyama 西南戦争最後の戦い 城山 (not completed)
Battle Field at Nabidabashi Bridge Seinan 西南戦争 涙橋の戦い
Battle Field Shiroyama 西南戦争 城山
Nanshu Shirne / 南洲神社 薩軍墓地
今日は西南戦争が始まりそして終わった鹿児島の城山に登る。この地に来て少々驚いたのは、鹿児島中心部は地方都市としては小さい。自転車で走れば明治時代の南の端から北までは物の30分ぐらいだ。距離にして7-8キロと言った感じ。そして、城山は市の中心部の天文館地区にあり、当時の藩庁があった鶴丸城のすぐ裏にある。町に住んでた人達は、城山での戦いが、目の前で展開しているのが身近に見えただろう。ここでは、西南戦争が始まった時と、最後の城山での戦いについては、鹿児島で訪問した地の切り口で見ていく。
西郷隆盛所縁の地を巡って見た。
西郷隆盛誕生地
維新ふるさと館のすぐそばに、西郷の生まれた地があり、記念碑が立っている。1827年生まれ。ここから数十メートルの所に大久保利通が育った跡地もある。西郷と大久保がこの地で重なった時期があり、貧しい大久保は西郷家の食事に訪れ、一緒に食事をしていたと言われている。薩摩には郷中教育の制度があり、この地で、3才年上の西郷が大久保の面倒を見ていた。大山巌も西郷と同じ郷中であった。二人の関係はほとんど人生の全ての時期にまたがる。どちらが欠けても、日本の歴史は変わっていただろう。それ程、深い関係だ。最後は征韓論で決別をするが、それでもお互いに想いは変わらなかっただろう。
両親始め多くの家族がここに住んでいた時期に、西郷の薩摩藩内での活躍が始まる。
西郷がこの場所にいたのは29才迄で、その時期には色々な事が起こっている。
22才: 斉彬が藩主となる。ここから、西郷が歴史の表舞台に出て行く事になる。
26才: 江戸勤務で斉彬の御庭方役となり、斉彬から直接色々な事を学ぶ。斉彬の密書を水戸斉昭や松平春嶽などに届ける役目もやっており、この時期に諸般の重要人物との繋がりが出来たと思われる。
西郷従道誕生地
当たり前なのだが、西郷隆盛の弟の従道も同じ場所で誕生した。西南戦争では官軍として、隆盛と戦う立場になるのだが、西郷家族としては複雑な心境であったろう。兄弟が敵味方となった。隆盛と従道はこの運命を受け入れていたと思う。隆盛としては、明治政府に従道が残っている事で安心したであろうし、従道は隆盛の理想の実現が使命と思っていたと思う。
西郷南洲翁宅地跡
下加冶屋からここに移って来たのが1855年西郷が29才の時。ここに移る2年前に、伊集院家から妻を迎えるが、まもなく両親が病気でなくなる。結局妻とは離縁となる。あまりにも貧困で、見るに見かね、妻の実家が引き取ったのだ。下加治屋の家を売り借財に当てた。この家の時代は、波瀾万丈となる。
30才: 京都で斉彬の訃報を聞き、殉職しようとしたが月照らに説得され斉彬の遺志を継ぐ決意をする。忠義が家督を相続し、島津久光が後見人となるが、この久光が実質的に国を動かしていた。西郷はこの久光とは相性が悪く、辛い時代が始まる。この年は世の中と西郷自身にも大きな転換期となる。井伊直弼が大老になり、日米修好通商条約に調印、尊王攘夷派には安政の大獄の向かい風が吹く。
攘夷派の僧侶の月照を鹿児島で保護しようと連れて行くが、藩は日向への追放を決定、落胆した西郷と月照は入水自殺を図る。西郷のみ蘇生、月照は死亡。市内に月照が藩の決定を待ちながら滞在していた場所が跡地として表示があった。
鹿児島湾の北に西郷が流れ着き蘇生した場所がある。
薩摩藩は井伊直弼支配下の幕府に対して西郷を表舞台には出せず、西郷を奄美大島に潜居させる。島に着いてから10ヶ月が経った時(西郷30才)に、そこの地域有力者の龍家の一族・佐栄志の娘・とま(愛加那)を島妻(あんご)とし、約1年後に菊次郎が生まれる。それから1年後に、久光から鹿児島への召喚状が届き、帰国。この時西郷は33才。この奄美大島の生活は3年に及んだ。30才から33才。男としては脂が乗り切っている時期だ。この時の西郷の気持ちはどの様なものだっただろう。
33才で帰国するが、久光とは相変わらず反りが合わず、西郷は公然と久光を批判していた。西郷はこの様な好き嫌いが極端に出てしまう過激な一面もあった。これが維新を成し遂げる求心力となったとは思う。帰国後直ぐに久光の率兵上洛で、下関待機の命を受けるが、京都で藩士暴発を阻止すべく上京。これが久光の逆鱗に触れ、徳之島そして沖永良部島に流刑。この沖永良部島に流刑中に薩英戦争が起こり、西郷は島を抜け出し鹿児島へ向かおうとしたが失敗。この時に村田新八も喜界島に流刑になった。この村田は城山の戦いで共に戦死するまで、西郷の信奉者であった。彼も鍛冶屋町の生まれ。
約1年半後に鹿児島に帰国。西郷37才。この年に京都で禁門の変が起こり負傷、勝海舟や中岡慎太郎と面会し長州征伐につき話している。
翌年38才の時に糸子と結婚。これからが薩長同盟に向けて、坂本龍馬や桂小五郎(木戸孝允)と会談。翌年1866年に薩長同盟を結ぶ。1867年に四侯会談(島津久光、山内容堂、松平春嶽、伊達)を実現させ、小松帯刀、大久保利通と倒幕の勅命を受ける運動を行い。年末に王政復古の大号令が発せられる。
1869年 西郷40才 1月に鳥羽伏見の戦いが起こる。