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遊戯三昧に生きる

2025.06.23 08:18

https://ooikomon.blogspot.com/2020/05/blog-post_4.html 【竹内悦子「天竺へ毛毬ころがす七変化」(『喜悦』)・・・】より

 竹内悦子第三句集『喜悦』、跋は中島陽華、その結びには、「嬉しいことにあと三年余りで卒寿。卒寿を過ぎたら俳句は口から出まかせがいいそうな。しっかり長生きして卒寿の醍醐味を大いに味わえるように健康に気を付けて下さい」と記されている。装幀は三宅政吉。集名の由来については、岡井省二先生の著書に、

   自由自在、融通無礙(むげ)、遊戯(ゆげ)三昧に生きる、表現する、俳句する。

  そこに法悦と歓喜の境位を体感する、からだそのものとする。その辺に俳句の 

  醍醐味はあろうか。

と記されている。この「法悦よ歓喜」、そして、工場と住居新築の折、お祝いに頂いた色紙から句集名を『喜悦』とした。

 とある。その色紙は本書巻頭の写真に収めてある。「竹柏の内に育む生業は喜悦めでたく真実昌盛」としたためてあって、「槐山房」の花押がある。従って、師の岡井省二に因む句は、当然ながら多い。例えば、以下にいくつか抄出すると、

     省二先生身罷る  澄む月の天上にあり曼荼羅記    悦子

     岡井邸の池 緋目高や夜空に星が見えますか   麻三斤の軸吊るしあり夏座敷

     熊野 省二句碑

  大蜥蜴襟巻をして出でにけり    幾たびも夏鶯が啼きに来る

  先生のこゑに目覚めておらが春   稲荷山に春の雪呼ぶ省二かな

  黒竹の杖と省二と花鯎       木の股に猿の腰掛省二の忌

  敷物は牛の文様省二の忌      人日や「鯨と犀」を膝の上

の句がある。ともあれ、他のいくつか、愚生好みの句を以下に挙げておきたい。

  太陽は一つ寄居虫(がうな)の脱ぎし殻   人も神も濡らしてゆきぬあばれ梅雨

  春はももいろ裏山に鳥のこゑ       神鶏の暁の一ㇳ声悦の春

  生と死は賜るものよ花八つ手    万愚節曲がつてゐたる銀の匙

     入場料七百円   七百億圓の切符通天閣の夏

  因みに、「槐(かい)」5月号(主宰・高橋将夫)には、以下の句が「槐集」にあった。

  令和二年二ン月二十日米寿とや    悦子   

  竹内悦子(たけうち・えつこ) 昭和8年2月、大阪市生まれ。

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「遊戯三昧(ゆげざんまい)」

藤原東演住職の心に響く言葉より…

「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という禅語は、「無門関」の第一則に出てくる。

我を忘れて、無心に遊んでみないか。

仕事も、趣味も、生活でなすことも、さらには人生の運不運もすべて遊び心で生きることがすばらしい。仕事は成果をあげなくてはならない。「何かのため」という意味づけが不可欠だ。

ところが、遊びは何かのためにという目的がない。その成功とか失敗なんか関係がない。

成果など計算したら、それは遊びではない。人の評価も気にする必要がない。

ただやることが面白い、楽しいからやるのである。

第二次大戦でイギリスをナチから救ったチャーチル首相は、激務の中、家に帰ると暇を作っては庭にひたすらレンガをひとつひとつ積み重ねて塀を造ることに興じた。

次の日、庭師がすべて取りこわしてしまうのに。

懸命に働いて、余暇に遊んで気分転換をはかることはそれなりの価値がある。

だがあくまで仕事と遊びが対極にあるわけで、それでは禅の「遊戯三昧」の境地ではないのである。山田無文老師は真の「遊戯三昧」の境地をこう教えている。

「働くことがそのまま遊びなんです。人のためにすることがそのまま遊びなんです。

苦しい目に逢うこともまたそのまま遊びなんです」

◇『禅、「あたま」の整理』知的生きかた文庫

東大教授でありながら、山林王でもあり、大富豪であった、本田静六翁は「仕事を道楽化せよ」と言っている。

仕事を、好きになるまで必死の努力をすれば、それはいつかはその道のプロと呼ばれるようになる。

そして、プロ中のプロとなれば、仕事はまるで芸術活動のようでもあり、趣味との境はなくなる、ということだ。

気分転換に遊ぶのもいいが、仕事も、苦も、生老病死、すべてが遊び、というのが最高の境地。

「人生とは、冥土(めいど)までの暇(ひま)つぶし』と言ったのは、今東光和尚。

自由自在の、遊戯三昧の人生を歩めたら最高だ。

※【人の心に灯をともす】

https://ameblo.jp/hiroo117/entry-12462308192.html 【遊戯三昧に生きる】より

無能唱元氏の心に響く言葉より…

「普通に暮らしていることって、すっごく幸せなんだ!」

ある日、19歳になったばかりの少女がそう言うのを聞いて、ああ、この「気づき」こそ、「サトリ」というものなんだなあ、と私は一つの感動とともに思い入りました。

この少女の「サトリ」は、座禅修行30年を積んだ禅僧のそれと比べても、いささかも遜色のあるものではありません。

「無味(むみ)、無為(むい)、無事(ぶじ)」の中に、生の喜びを見いだすことは、きわめて稀れであっても、凡人にとっても可能なことなのです。

ただ、そのあとが続かないのですが。

凡人にとってのこの喜びは、しばらくほうっておくと、じきに色あせ、退屈によって、かき消されてしまうのです。

これは凡人ならずとも、賢人であっても同じことです。

禅僧には書画をよくする人物がよくいますが、これも悟りすましているばかりでは退屈で、そのひまつぶしを目的として、一つの芸の達者になった人なのではないでしょうか。

陽だまりの中で、数匹の猫がじゃれあって遊んでいます。

子猫はとても遊び好きで、ときには人間にさえ、一緒に遊んでくれとせがむことがあります。

これは、エネルギーが有り余っているからで、それを遊びで発散しないではいられないからなのです。

ところが、同じ陽だまりの中でも、親猫はうとうとと眠っており、めったに眼を開こうとはしません。

これは「若さ」というエネルギーをもうなくしているからなのです。

これから考えられることは、「若さ」というエネルギーと、「遊ぶ」という意欲は相関関係にあるということです。

猫と同様に、われわれ人間も、人生に「遊び」とその楽しみを求めつつあるかぎり、「若さ」をいつもまでも失わないで済むのではないでしょうか。

禅家は、「人生は遊戯三昧(ゆげざんまい)をもって生きよ」と説きます。

これは、「人生そのものを、ゲームとして、それを楽しめ」と言っているのです。

しかし、この遊びとは、どうもパチンコや競馬、ナイトクラブ、カラオケなどの、いわゆる、娯楽施設における遊びとは、ややそのおもむきを異(こと)にしているようです。

ではどの点を異にしているかと、おおまかな分け方ですが、娯楽型の遊びはおおむね消費的であり、遊戯三昧の方は多分に創作的、あるいは生産的であるのです。

たとえば、音楽の鑑賞は消費的であり、作曲および演奏は生産的であるように…。

後者で特に大切なことは、そこには「自己主張」があり、「自己表現」がある、ということです。

人間は生活の上で、自己表現がなされるとき、自己充足の満足を得ることができます。

そして、この満足を得ることによって、生きる喜びを、心の底から覚えるのです。

しかし、このように遊戯三昧に生きるには、人間にはさまざまな制約があります。

その最も一般的な制約とは、経済的な問題です。

人間は好きなように自由に生きるには、自由に使える十分な資金を必要とします。

チャップリンは、「人間にとって必要なのは、希望と勇気と少しばかりのお金である」と言っております。

しかし、あらゆる制約から解放されて、遊戯三昧に生きるには、「少しばかりのお金」では、どうも足りないようです。

『小さなサトリ―ミニ・エンライトメントが人生を変える』河出書房新書

藤原東演住職は「遊戯三昧」についてこう語る。

『「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という禅語は、「無門関」の第一則に出てくる。

我を忘れて、無心に遊んでみないか。

仕事も、趣味も、生活でなすことも、さらには人生の運不運もすべて遊び心で生きることがすばらしい。

仕事は成果をあげなくてはならない。

「何かのため」という意味づけが不可欠だ。

ところが、遊びは何かのためにという目的がない。

その成功とか失敗なんか関係がない。

成果など計算したら、それは遊びではない。

人の評価も気にする必要がない。

ただやることが面白い、楽しいからやるのである』(禅、「あたま」の整理/知的生きかた文庫)より

あらゆることを遊び心をもってやる、というのは、ゲームを楽しむ気持ちでやるということ。

ゲームの楽しみとは、たとえばゴルフにしてもすべてがうまくいくから楽しいのではない。

思い通りのところに飛ばない、思い通りに打てない、トラブルになる、くやしい、そんなことすべてを含めて、「思い通りにいかない」ことも楽しいのだ。

「人生とは何ですか」との問いに、今東光氏はこう答えた。

『人生というのは冥土(めいど)までの暇(ひま)つぶしだよ』

遊戯三昧に生きることができたら最高だ。