Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

杉並区 26 (12/05/25) 旧和田堀町 (和田堀内村) 旧和田村 (2) 小名 大宮

2025.05.12 14:55

旧和田村 小名 大宮


今日は旧和田村の小名大宮とその南の旧和泉村を訪れる。



旧和田村 小名 大宮

小名 大宮は、先日訪れた小名 松ノ木の南に位置しており、その名は域内にある大宮八幡宮に由来し、北は小名堀之内、南は永福寺村と和泉村、東は堀之内村、西は杉並村に接していた。1889年 (明治22年) に堀之内村と和田村が合併し和田堀内村となった際に、旧小名 大宮は小字 大宮となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に町名改定が行われ、小字 大宮 (旧小名 大宮) は、大宮町となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) には大宮町は、大宮一丁目と二丁目に分割され現在に至っている。

小名 大宮の北辺を善福寺川が大きく湾曲して流れ、大宮八幡の台地、台地下の和田堀公園、その北側の松ノ木台地と地形に富み、地域の約4割が緑地で、杉並区内では最も緑被率 (杉並区平均は約2割) が高い地域となっている。その結果、人口密度は区内では最も低くなっている。



和田堀公園

小名 大宮内を流れる善福寺川流域は広大な和田堀公園が整備されている。この地は地盤が低く、住宅地の低層を蛇行し氾濫をしていた。氾濫の際には自然に溜池が作られ、古くから水はけの悪い土地だった。1934年 (昭和9年) に娯楽施設の大宮八幡園が開園している。戦後、1964年 (昭和39年) には野球場、陸上競技場、テニスコート、バーベキュー広場、サイクリング広場など、公園施設とスポーツ施設が造られた。2010年 (平成22年) に東京都が買収し和田堀公園として整備している。2022年(令和4年) に善福寺川増水時の調整池 (写真下) が完成し、公園内全域が東京都の防災公園に指定されている。


大宮遺跡

和田堀公園南の善福寺川を渡った所は崖上が高台になっている。大宮八幡宮の北側になる。この高台では1969年 (昭和44年) に発掘調査が行われ、弥生時代終末期の方形周溝墓3基が発見され、尊貴な者の墓域、祭祀遺跡と考えられている。墓からは軟玉製の勾玉、ガラス小玉、弥生式土器が出土している。大宮遺跡と命名された。善福寺川沿いの低地では松ノ木遺跡など多くの竪穴式住居跡が発見され、当時は水田耕作が行なわれていたと思われ、高台は祭祀などを行う聖域としていたと推測されている。この聖域には大宮八幡宮となっている事から、古代信仰が後に大宮八幡宮の創建につながったとも推測されている。大宮遺跡は発掘後埋め戻され、案内板が置かれている。


大宮八幡宮

大宮二丁目にある大宮八幡宮は、旧和田村の鎮守で、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祭神として祀っている。創立は、人皇第七十代後冷泉天皇の時、鎮守府將軍源頼義が奥州の安部氏征討に向かう際にこの地で宿営をし、白雲中天にたなびくのを見て、八幡大神の加護があると祈願をし、戦地に赴いた。無事、安部氏征討を終え、1063年 (康平六年) に凱旋の折、ここに立ち寄り、石清水八幡を勧請したとされている。その後、頼義の長男義家が1089年 (寛治3年) に奥州出羽の清原氏平定の帰途、社殿を修営、神田を寄進、常陸の鹿島より持ち帰った松苗千本を植構し、別当として阿左ケ谷に宝仙寺を建立したと伝わっている。宝仙寺は1429年 (永享元年) に中野へ移転し、新たに別当の大宮寺を建立している。源頼朝は鎌倉に幕府を開いた後には毎年奉幣使を立て幤帛を供進していたともある。

中世の大宮八幡宮は,多摩の大宮と呼ばれ、武蔵国の三大宮 (秩父の大宮の秩父神社、足立の大宮の氷川神社) の一つで広大な境内でを有し、現在でも、都内では、明治神宮、靖国神社に次いで第三番目の広さを誇っている。

明治維新後、社領は全域が取り上げられ、官有地となり、そのうち、僅かに参道と神域のみが境内地としての使用が認められ、神社は和田村の氏子の負担で維持されていた。1906年 (明治39年)、国より旧社地の払い下げの通知があったが資金はなく、払い下げ予定地の山林を高千穂学校敷地に売り、ようやく資金を集め、旧土地を買い戻したという経緯がある。


大鳥居 (一之鳥居)

大宮八幡宮へは参道が三本あるが、東側の正参道がメインで入口には朱塗りの大鳥居がある。現在では一之鳥居と呼ばれているが、江戸時代までは社領は現在よりはるかに大きく、元々の一之鳥居は堀ノ内一丁目八番付近にあったという。この大鳥居は1954年 (昭和29年)に鉄筋コンクリート製で建てられ、1986年 (昭和61年) と2001年 (平成13年) に改修されている。


庚申塔 (222番)

一之鳥居の脇に小さな駒型の庚申塔が置かれている。1791年 (寛政3年) に造立され、石塔上部には日月が刻まれ、邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛が浮き彫りされている。


二之鳥居、参道

一之鳥居 (大鳥居) を入ると直ぐに二之鳥居が建っており、その前両脇に寄進された春日燈籠が置かれている。参道が神門に向かって伸びている。参道は明治時代以降に短くなってはいるが、それでも拝殿までは250mもある。二之鳥居を入って次の石燈籠迄の右側はスカウトの森と呼ばれる。ボーイスカウト杉並13団がこの地で発団され、森で野外活動をしている事からこの様に呼ばれている。また、昔からの大宮の竹林も残っている。 (写真中下)参道の両側には躑躅の老木が続いている。躑躅は三代將軍家光の時代に植えられた千本つつじの名残りといい、江戸時代にはつつじの花で境内がくれないに輝き、山を照らすような美しさから「山照らし」と呼ばれていた。


手水舎

参道の石燈籠を過ぎると、広場になっている。そこに手水舎が置かれ、手水鉢には心洗と刻まれている。


多摩清水社

手水舎の後方右端に鳥居があり、ここを入ると、境内末社の多摩清水社がある。祠の前の龍口から水が出ている。この水は延命長寿・厄除開運の泉で御神水とされレ、多摩清水社では水神を祀っている。昔は御神水が湧き出していたが、現在ではポンプで汲み上げている。パワースポットと言われ、何組かがお参りに列をなしていた。ここには、亀の像が三つ置かれている。水神の使いなのだろうか? 多摩清水社では水の日である8月1日に多摩清水祭が行われている。


通仙庵

多摩清水社の奥には通仙庵という茶室が建てられている。


神泉亭

手水舎の奥にももう一つ茶室がある。神泉亭で、ここでは添釜茶会席や茶道教室が開催されている。


神門

広場の正面奥に黒塗りの神門がある。この門は移設されたもので、戦前までは大鳥居の近くにあった惣門で、江戸時代にはこの様な黒塗りの門は社領のあることを示す権威の象徴で 「大宮八幡の黒門」 として知られ、江戸時代には中門と呼ばれていた。


南参道、大鳥居

神門の前へ通じる参道がもう一つある。1983年 (昭和58年) の御鎮座920年記念事業で整備され南参道で、南の都道14号線側にステンレス製朱塗りの大鳥居は置かれて、神門まで伸び、参道沿いには幾つもの大平燈籠が置かれている。


清涼殿

南参道の半ばには結婚式場の清涼殿がある。清涼殿の外には注連縄が掛かった蛙の様な大きな岩が置かれており、この岩を撫でると幸福が得られるという。「幸福(しあわせ)撫でがえる」と呼ばれている。岩の近くには蛙を描いた絵馬が幾つもかけられている。


夫婦銀杏 (雄銀杏、雌銀杏)

神門を入ると、両脇に銀杏の木がある。右は雄銀杏、左は雌銀杏で夫婦銀杏と呼ばれ、境内で一番太く、御神木となっている。境内にはこの他にも樹齢三百年の大木や神楽殿の脇には白樫の古木も残っている。


神楽殿

神門を入った北側には神楽殿が建てられている。大宮八幡宮では2001年 (平成13年) より、旧暦8月15日の十五夜にはに「十五夜の神遊び」を斎行しており、この神楽殿ではい雅楽神楽舞の奉奏、月の音舞台というコンサートなどが行われている。


北参道、大鳥居、赤門、振武殿

神楽殿の西側に北の善福寺川に向かって北参道がある。境内への入口には赤門 (北神門) が置かれている。この赤門は元々は正門で、扉板に1795年 (寛政7年) の書き込みがあり、江戸中期以前のものと思われる。1963年 (昭和38年) の御鎮座九百年にこの場所に移築されている。赤門を出て、参道の途中には1942年 (昭和17年) の皇紀2600年 (昭和15年) 記念として建てられた弓道場の振武殿 (写真右上) があり、その向こうに朱塗りの大鳥居が置かれている。


力石

赤門を入った境内には幾つもの力石が並べられている。明治・大正時代に近村の若者が力を競った 力石で、2003年 (平成15年) の御鎮座940年奉祝記念の際に力石石庭として整備されたもの。力石は「担ぎ石」「盤持石」とも呼ばれ、50貫 (187kg 写真右下) もの重さのものも含まれている。


社殿

境内奥正面に社殿が鎮座している。1661年 (永禄4年) に越後の上杉謙信が小田原北条氏康を攻めた際に、社殿や僧坊が悉く焼き払われ、社宝、文書一切が焼失している。元々の社殿は、現在の茶室がある場所にあり、鎌倉の方向に向いていたとされる。1591年 (天正19年) に徳川家康が社領30石を寄進し、境内地等6万坪を除地 (無税地) とし、社殿を江戸城鎮護のため東向きに修営したと伝わっている。現在の社殿は1965年 (昭和40年) の御鎮座900年記念の際に、檜材を用い、銅板茸で、流れ造りの本殿には三体の御神像が祀られている。


菩提樹

拝殿の左手前に、天然記念物の菩提樹がある。菩提樹は江戸時代の初めにに大宮八幡宮の再建に尽力した清涼院殿 (結城秀康の側室) が植えたといわれている。


宝物殿

拝殿の北側に宝物殿が置かれている。宝物殿の前に大きなテントが置かれて正面から写真が撮れず、斜めから撮影。この宝物殿には、秀吉の禁札は1590年 (天正18年)に豊臣秀吉が小田原城を攻めた際に、神社仏閣を戦禍から護るため、境内で殺生、馬乗、竹木採りをすると厳罰に処すると公示した高札 (写真左下)、旧拝殿に安置されていた1766年 (明和3年) 製作の木造著色随身像一対 (写真中下)、1651年 (慶安4年) に由井正雪が兵を挙げる際にこの大宮八幡宮で祈願奉納したと云われている絵馬 (右下) などが保管されている。


大宮天満宮

宝物殿の隣には境内末社で菅原道真を祀る大宮天満宮がある。毎月25日には、大宮天神月次祭、7月24-25日には納涼大宮天神祭りが行われている。


大宮稲荷神社、大宮三宝荒神社、白山神社

社殿の南側にも境内末社の祠が鎮座している。社殿隣には大宮稲荷神社の祠があり、衣食住の神の稲荷大神が祀られている。また、ここには姉妹友好神社の宮城県の竹駒神社、竈の神を祀る大宮三宝荒神社、五穀豊穣、生業繁栄、開運招福の白山比咩神 (菊理媛) を祀る白山神社が合祀されている。


共生 (ともいき) の木

大宮稲荷神社の前にはかやの大木あるのだが、この木には犬桜が寄生している。二つの異なる木が、一本の幹で結ばれ、助け合いながら生き続けている姿から、国際協調、宗教協力、相互扶助、夫婦和合などを示唆している神木として共生 (ともいき) の木 と呼ばれている。


若宮八幡神社、白幡宮、御嶽榛名神社

大宮稲荷神社の南隣にもう一つ境内末社の祠がある。この祠には江戸時代より農業養蚕の神の武州御嶽神社と上州榛名神社から分霊をした御嶽榛名神社、八幡大神 (応神天皇) の子神の仁徳天皇を祀った若宮八幡神社、源頼義とその子の八幡太郎源義家を祀った白幡宮が合祀されている。鳥居の両脇に安置されている狛犬1対 (写真下) は、1771年 (明和8年) に造立され、元は本殿前に置かれていたが、1965年 (昭和40年) に社殿の改修工事に伴い、この場所に移されている。


神輿庫

若宮八幡神社の南には、細長い神輿庫があり、氏子区域内の各地区の32基の神輿が奉安されている。


義家公手植松跡

神輿庫の前にも注連縄のある木が上に伸びている。源頼義が本宮を創建した後、その子の八幡太郎義家が後三年の役の後に当宮の社殿を修築し、境内に一千本の若松の苗を植えたといわれている。この若松の苗が長い年月に成長した巨木がここにあったという。1939−40年 (昭和14-15年) 頃に松喰虫が大流行し、この松や神木を含め、境内の松が殆ど冒され枯損してしまった。その後、その遺株に二代目の松が植えられている。


祭馬塔 (大宮馬頭観音)

大宮八幡宮の大鳥居から道を東に進む。この道は大宮八幡宮への参道で、道端に祭馬塔と刻まれた自然石が置かれ、花が供えられ祀られている。以前はここに説明書が貼られ、馬頭観音と書かれて、造立の経緯が説明されていた。1928年 (昭和3年) に宮家から下賜された白馬に乗り陸軍将校が、ここにさしかかった時に宮馬が足を骨折したという。この白馬がどうなったのかは書かれていなかったが、馬の骨折は死に至るケースが殆どで、昭和初期には治療の術はなかったと思われるので、その後死んだか、安楽死を選んだのだろう。その供養塔が建てられた。ここでは交通安全祈願も行われているそうだ。


鞍掛の松

更に参道を東に進むと道沿いに松ノ木が一本空に向かって伸びている。この松は二代目に代替りしてはいるが、「鞍掛の松」 と呼ばれ、平安時代に、源八幡太郎義家 (1039~1106年) が父の源頼義と共に奥州遠征の折に、この松の枝に馬の鞍を掛けたという言い伝えがある。1836年 (天保7年) 刊行の江戸名所図会に当時の様子が記されている。

鞍掛けの松は大宮八幡宮の馬場先の大路、民家構えの外にあり、蒼として繁茂せり、根より一丈ばかり上に至りて屈曲せる故に、土人和田の曲がり松と称し、或いは鞍掛け松とも呼べり。相伝う、八幡太郎義家朝臣奥州の逆健征伐の折、この松技に鞍を掛けられしよりしか言うと。又、此所より二、三町東、道の傍らに大さ三許りの古松一株あり、土人一本松と唱う、昔八幡宮の一の鳥居ありし旧地なりと言う

戦前には、この場所には大宮八幡宮の二の鳥居 (黒く塗られていたという話もある) があり、下馬札が立っていたそうだ。(一の鳥居は、更に東の堀ノ内一丁目八番付近にあったという)


道しるべ (是より西上乃原)

かつての参道を更に東に進むと都道14号に大宮八幡宮前交差点で合流する。この都道14号はかつての古道で、大宮八幡宮の参道だった。この交差点に道しるべの石塔が立っている。「是より西上乃原」 と刻まれている。上乃原とはこの道の南側の旧和泉村の小名 上野原のことだろうか? (この道しるべに関する情報は見つからず)


大聖寺坂

大宮八幡宮前交差点から北東に道が分かれている。この道は大宮小学校の正門前を通り、坂道になっている。この坂は大聖寺坂と呼ばれている。大宮小学校のある場所にもと大正寺 (大聖寺?) という寺があったが、慶長年間 (1596~1614年) に妙法寺に移ったとの言い伝えがある。この寺の本尊が大聖不動明王と称した事でこの名がついたという。また、八幡太郎義家が奥州で大勝利を得て帰りに通った坂だから大勝利坂、大勝坂と呼ばれたとの説もある。


ここから和田堀公園内の第二競技場、先に訪れた済美台遺跡を通り、都道428号線 (荒玉水道道路) を西に越えて所の郷土博物館に向かう。


井口家住宅長屋門

郷土博物館への入口は旧井口家住宅の長屋門が移築されている。この長屋門は、文化文政年間 (1804~1829年) 頃に宮前五丁目 の五日市街道沿いに建てられた井口桂策家の表門で、1971年 (昭和46年) に解体され、1974年 (昭和49年) に杉並区へ寄贈、郷土博物館の表門として移設復元された。この井口家は、関町の名主井口家からの分かれで萬治年間 (1658-1661年) 頃に井口杢右衛門が大宮前新田 (宮前) を開発、大宮前新田の名主となった旧家になる。江戸幕府の統制下では、農村部では一部の村役人層の家のみが建築を許可されていて、井口家は代々名主を務める家柄だったので長屋門が許されていた。長屋門は、中央を通路、右手を土間の納屋とし、左手の蔵屋には年貢米を収納していた。(養蚕業に関わる機織機などを展示している) 屋根はもともと茅葺だったが、防火上、銅板で葺かれている。左側の蔵屋にしている。


郷土博物館

長屋門から杉並区立郷土博物館に入る。1979年 (昭和54年) に東京都は嵯邸跡地を和田堀公園用地として買収し、一部はテニスコート兼用の善福寺川遊水池、子供の広場に整備している。残りの屋敷跡は放置され自然林となっていた。1985年 (昭和60年)、杉並区が東京都から子供の広場を含む地を借り受け、1989年 (平成元年) に郷土博物館の建設開館している。

一階には杉並に関する歴史と郷土資料の展示公開している常設展示室があり、「原始・古代」から「中世」「近世」「近現代」までの様子を時代ごとに紹介している。

郷土博物館の前庭の一画には杉並区内にあった石塔や石仏を移設、展示している。


旧侯爵嵯峨家

郷土博物館が建っている敷地や周辺は公家の旧侯爵嵯峨家の所有地 (四千坪) だった。ここにあった嵯峨家屋敷には「流転の王妃」 として知られる嵯峨侯爵の令嬢の浩 (ひろ) が住んでいた。1937年 (昭和12年) に、軍主導の政策で満州国皇帝 愛新覚羅溥儀の弟 溥傑と結婚させられ、この屋敷から井の頭通りを経て、九段の軍人会館の式場へ向かったという。

嵯峨家は、平安時代末に左大臣に任ぜられた藤原実房の子孫で、江戸時代には正親町三条と名乗り、明治維新後、嵯峨と改名し、明治維新の功により従一位勲一等に叙せられ、後に候爵に列せられ、大正天皇の傅育官を勤めた。

1945年 (昭和20年) 8月に日本は敗戦となり、ソ連軍の満州国侵入の難を避けて、満州国の皇后とともに避難中、八路軍に捕らえられ、各地の刑務所を転々と移されたが、後に解放され日本へ一時帰国した。中華人民共和国が成立した際に夫の溥傑が解放され、浩は中国へ帰り、15年ぶりに再会、溥傑氏との生活が再開。1987年 (昭和62年) に北京の病院で溥傑に見守られて亡くなった。政略結婚ではあったが、浩が遺した言葉がある。「私は夫との結婚に一度たりとも悔いを覚えたことがありません。半ば強制された結婚であっても、夫と私との間は深い愛で結ばれていたのです」


篠崎家住宅

郷土博物館の奥庭に野外展示として下井草村字中瀬の本百姓篠崎家住宅主屋が1973年 (昭和48年) に杉並区へ寄贈され、翌年に解体され、1989年 (平成元年) に現在地に移築、復元されている。この住宅は寛政年間 (1789年 ~ 1801年) 頃と推定されている。



これで旧和田村の史跡巡りは終了し、この後、旧和泉村に移動して散策を続ける。和泉村の訪問記は別途。



参考文献