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黄昏

2025.06.25 06:09

Facebook島田 牙城さん投稿記事【誰そ彼考】

儂は、高校時分から「誰そ彼(たそがれ)=黄昏」ということばが沁みて沁みて仕方がないのだが、未だに「黄昏」の本当の意味を知らない。

この写真は、まだ、儂には黄昏というには早い気がする。

と書いているうちに、空は紫を濃くし、儂の黄昏へと近づく。

向こうの人の顔が分からなくなる、だけれど向こうに確かに人がいる。そういう暗さ、深い夕暮れ時。

それは、「真闇」を知っている人にしか、本当には感受できないのかも知れない。

「真闇」を日々実感しながら生きている人、すでに日本には皆無であろう。

谷口智行著「俳句の深層」を編集している。書中に六さんという熊野の山暮らしの人が出てくる。あるいは、この人なら、と思うが、すでに亡くなっている。

黄昏、大好きだからこその、永遠の謎である。あ、今日は下弦の三日月だ、二十七夜月くらいかなぁ。うん、近くにいる人の顔も分からなくてなってきた。フフフ。


https://weathernews.jp/s/topics/201910/310225/ 【「彼は誰時」って何?

黄昏時との意外な接点】より

「秋は夕暮れ」と枕草子で書かれているように、秋は、夕暮れの時間が印象的な季節です。

夕暮れ時のことを黄昏時(たそがれどき)とも言いますが、これは夕焼けで薄暗い中、景色が黄金色に輝く時間帯を示す言葉です。

この黄昏時の語源は  誰ぞ彼(たれぞかれ)→たそがれ→黄昏時

日が暮れて薄暗くなり相手の顔の見分けがつきにくく「あなたは誰ですか?」と問いかける時間帯ということで「たそがれ」になったのだと言われています。

漢字で「黄昏」と書くのは、当て字のようです。

明け方は「かわたれ時」

同様に、明け方の事を「かわたれ時」と言うのをご存知でしたか?

語源とされているのは、黄昏時と同じように、  彼は誰ぞ(かわたれぞ)→かわたれ→かわたれ時  こちらも人の顔が区別つきにくい時という意味で、漢字で書く場合は「彼は誰時」と書きます。

元々は、「黄昏時」「かわたれ時」共に、夕暮れ・明け方のどちらでも使えたようですが、今は夕暮れが黄昏時、明け方がかわたれ時と使い分けされています。

夕方は誰ぞ彼が語源、明け方は彼は誰ぞが語源。

ちょっと混乱してしまいそうですが、どちらも趣のある美しい言葉ですね。


https://www.gonnenji.com/post/2020/06/09/%E3%80%8E%E8%AA%B0%E3%81%9D%E5%BD%BC%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%80%8F%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%88  【『誰(た)そ彼(かれ)のことば』がスタート】より

 ほそぼそと厳念寺の新コラム『誰(た)そ彼(かれ)のことば』がスタートしました。

この企画は、日々の生活の中で出遇う誰かのことばを通し、仏教的な視点を交えつつ深め、味わっていこうというものです。

 「誰そ彼」には元々「あなたは誰ですか?」という意味があるといいます。また、その言葉が転じて「黄昏(たそがれ)」という言葉になったと言われています。

 黄昏時は、「この世」と「あの世」が交わる時であるとも言われますが、仏教において「あの世」は「気づきの世界(彼岸)」という意味を持ちます。彼岸をたずね、此岸(しがん)「自分の世界、生活」の有り様に気付き、試行錯誤しながら歩むことが仏教の実践とも言えます。これから多くの方々との「ことば」と出遇うことを通し、日々の生活の糧としていけるよう、皆さんとご一緒に耳を傾けて参りたいと思います。


https://www.gonnenji.com/post/2020/06/08/%E8%AA%B0%E3%81%9D%E5%BD%BC%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%EF%BC%9A%EF%BC%91 【誰そ彼のことば:1】より

ワガママなのは分かっている。でも自粛中、皆がひきこもり状態だったから、何もしていない自分に罪悪感を覚えずに済んだ(友人・30歳)

【新しい日常】

 緊急事態宣言の解除を前に、生きづらさを抱える友人がふと呟いた一言。誰もがひきこもっていた「停滞」期間は、私にしばしの安堵をもたらすものであったという本音です。この言葉に、「経済が止まり、皆がしんどい思いをしていたのに何を言ってるんだ」「一日も早く日常を取り戻そうとしているのに、足を引っ張るようなことを言うな」と憤る方もいるかもしれません。

 でも、どうなんでしょう。世界中が停滞したこの間だからこそ、これまで当たり前だったと思っていたことが、実はそうではなかった、という声も少なくありません。

地球規模で経済活動が止まったことで、大きな変化があったのは自然環境でした。大気汚染が改善され、インドでは数十年ぶりに二百㌔離れた地からヒマラヤ山脈が望めるようになったそうです。その感動的な光景は、自然界においては、その地からヒマラヤが見えるのが「当たり前」だったことに、多くの人が気付かされました。

 身近なところでは、否応もなくテレワークが推進されたことで、これまでの満員列車に揺られての出勤、都市部に集中した働き方などへの見直しの声が上がっています。企業に勤める友人は「テレワークで、いかに無駄な会議や出張があったか気づかされた。もう以前には戻れない」とぼやき、社交的に見えた女友達はSNSに「ステイホームのおかげで、自分は家で読書していることが一番、落ち着く人間だったことを思い出した」とぼそぼそと書き込んでいました。従来の社会の枠組みや、世間が求める「当たり前」に合わせていた自分に気付いたともいえます。

 そしてまた、コロナ禍は社会の脆弱さも顕わにしました。六月二日、厚生労働省が発表した統計によれば、新型コロナの影響で解雇や雇い止めになった人は五月二十九日時点で一万六千七百二十三人。約半数が非正規雇用でした(6月2日付『朝日新聞』)。この数字は、危機にあった時、弱い立場にある人が守られるべき社会でなかったという証左でしょう。「これが当たり前」と思って私たちが暮らしてきた社会は、安心できないものでした。

 そうしてみると、冒頭の伝道板の言葉への受け止めが変わって来るように感じます。むしろコロナという非日常を体験したことが、これまでの「日常」の生きづらさに気づくきっかけになったのではないでしょうか。私たちは誰の「当たり前」を生きてきたのでしょう。

 お釈迦様は「自灯明(じとうみょう)、法灯明(ほうとうみょう)…自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、真理〈法〉をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」と説きました。

 今また「新しい生活様式」「新しい日常」という誰かの求めに基づく大号令が発せられています。感染対策はともかくとして、私や私を支えるすべてのものが、本当に生き生きと生きるためにはどうすればいいのか。コロナ禍で生じた「日常」への懐疑を大切にしながら、新たな一歩を踏み出していきたいものです。


https://www.gonnenji.com/post/2020/08/02/taso002 【誰そ彼のことば:2】より

水仙まんじゅうの季節になると パンプキン爆弾を思い出すのです

                    福井県出身・Nさん(70代)

【八月に想う】

  水仙まんじゅう(地域によっては、葛まんじゅう、水まんじゅうとも)は、半透明の葛にこし餡が包まれた夏の涼菓。口にふくむと、ひんやりなめらかな葛と、ほんのりした甘さの餡が広がります。福井県敦賀市では昔は夏になると各店の店先に流水で冷やされた水仙まんじゅうが売られていたそうです。

 しかし、敦賀出身のNさんにとって、水仙まんじゅうはその懐かしい故郷の夏を呼び起こすと共に、痛ましい戦争の歴史を思い出させるお菓子だといいます。

 1945年8月8日、アメリカ軍は一個の巨大な爆弾「パンプキン爆弾」を東洋紡績敦賀工場(現・東洋紡敦賀事業所)に投下しました。パンプキン爆弾という、耳慣れないこの爆弾は、実は原爆投下の訓練用の「模擬原爆」で太平洋戦争末期、日本国内49カ所に投下されたものの一つでした。翌9日、長崎に投下された原爆とほぼ同形で、敦賀に落とされたそれには通常の火薬が詰められており、工場は一瞬で地獄絵図となり、33名が亡くなりました。

 1948年生まれのNさんは、この史実を中学時代、級友の父親から聞いたといいます。

「東洋紡の守衛だった級友の父親は、爆撃を目の当たりにしたそうです。語り部となってその凄まじい惨状を懸命に中学生の私たちに伝えてくれました。水仙まんじゅうが町に見られる夏になると、その歴史をふと思い出すのです」と私に語ってくれました。

 この話で思い出したのがアニメ『火垂るの墓』のカルピスのシーン。戦争孤児となった主人公の清太が、まだ戦争が激しくなる前に家族で行った海水浴を回想する場面で、母親の「カルピスも冷えてるよ」と優しく呼びかける声が平穏な日々の象徴のようでした。

 水仙まんじゅうもカルピスも穏やかな夏の風物詩。平和な日常の延長線上に起きたのが戦争だったとNさんの話もアニメも教えてくれるように感じます。ならば、私たちの状態は今、どちらに振れているでしょうか。「平和」でしょうか。それとも「戦争」でしょうか。

 毎夏の戦争特集報道で、あの嫌な愚かな戦争を支えたのは、決して政府や軍ばかりでなく、町や村でお互いに監視し合いながら国に加担した市井の人の心だということを私たちは反省と共に学んできたはずでした。しかし、今またコロナ禍の不安から、誰かを「敵」に見立てたり、「自粛警察」などにみられる過剰な同調圧力で、隣人すら排除するような、他者の尊厳を省みない息苦しい空気が生まれているように思います。

 親鸞聖人は「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』)と言いました。縁次第(情況次第)で人間はいかようにも行動してしまう存在なのだと自覚しよう、という意味合いです。

 二度と過ちを繰り返さないと反省したはずが、情況次第で「いかなるふるまい」もしてしまう私たちであったと改めて突きつけられているのが現在ではないでしょうか。そうであるなら、再び戦争の道に進むこともたやすい話です。その業縁が未来に整うことのないよう、不安を見つめながら、今どう生きるか。戦後七十五年目の今夏、歴史がいっそう私たちに問いかけているように感じます。 合 掌

【『誰(た)そ彼(かれ)のことば』とは?】

 日々の生活の中で出遇う誰かのことばを通し、仏教的な視点を交えつつ深め、味わっていこうという新コラムコーナーです。

「誰そ彼」には元々「あなたは誰ですか?」という意味があるといいます。また、その言葉が転じて「黄昏(たそがれ)」という言葉になったと言われています。黄昏時は、「この世」と「あの世」が交わる時であるとも言われますが、仏教において「あの世」は「気づきの世界(彼岸)」という意味を持ちます。彼岸をたずね、此岸(しがん)「自分の世界、生活」の有り様に気付き、試行錯誤しながら歩むことが仏教の実践とも言えます。これから多くの方々との「ことば」と出遇うことを通し、日々の生活の糧としていけるよう、皆さんとご一緒に耳を傾けて参りたいと思います。


https://www.gonnenji.com/post/taso04 【【誰そ彼のことばno.4】ほとけ正月【仏教コラム】】より

 日ごろ忙しくしていても、お正月とお盆は故郷に帰り、家族や懐かしい人と過ごす方は多いでしょう。昔も「藪入り」といって年二回、一月十六日と七月十六日の前後だけは、よそで働く奉公人も雇い主から休みをもらい、帰省したものでした。

 ところで、「帰省」するのは生きている人だけではないそうです。お盆と同様、あの世からご先祖たちも帰り、再会をよろこぶ好日であるのがお正月だとされてきました。

 これを「ほとけ正月」といい、年明けて初めて行う仏事供養の意味も込められています。

 今も年越しから一月十五日にかけて、菩提寺やお墓に初参りにいくならいが各地にあり、奄美諸島の徳之島では、一月十六日を先祖祭り、先祖正月といってお墓の前で酒盛りをする慣習があるそうです。

 私たちはお正月とお盆に、お寺やお墓の前で、仏様や先祖と向き合う機会を伝承してきたのですね。では、それは何を意味するのでしょうか。

 厳念寺の宗旨である浄土真宗の宗祖・親鸞聖人(一一七三~一二六二)が著した聖典『教行信証』に、中国の道綽禅師(五六二~六四五)の著書『安楽集』から引用した次の言葉があります。

「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え」(現代語訳:前に生まれた者は後に生きる人を導き、後の世に生きる人は先人の生きた道を問いたずねよ)

 この言葉は真実(悟り)の言葉や教えを収集するその訳をあらわしたものですが、有限の命を生きる私たちは、よく生きようとするなら、前に生まれた者(先人、先祖)に導かれ、そしてまた後に生まれる者(これから生まれる人たち)を導いていく、願いのタスキをかけられた存在であると言い換えることもできるのではないでしょうか。

 ほとけ正月、お寺やお墓の前で、先祖からかけられた「願い」を見つめる機会にもしたいものです。

                      合 掌 

https://www.gonnenji.com/post/taso05 【【誰そ彼のことばno.5】「平和だから、朝ドラ受けがあった」【仏教コラム】】より

「平和だから、朝ドラ受けがあった」 ツイッターの声

「朝ドラ受け」とは、平日朝8時15分からのNHK番組『あさイチ』の出演者が、直前の同局の朝のドラマ(朝ドラ)『連続テレビ小説』について番組冒頭でコメントを行うことです。その日の主人公のふるまいや台詞、ストーリーに直後の放送の『あさイチ』出演者が一喜一憂してコメントする。朝ドラファンのなかには、ドラマからの一連の流れとして、「朝ドラ受け」のリアルタイムのコメントや反応を楽しみにしている人がたくさんいます。

 しかし去る2月25日、朝ドラは放送されたものの、『あさイチ』は放送休止。代わりに流されたのはロシアのウクライナ侵攻に関するニュースでした。これを受けて、インターネット上のツイッターには「朝ドラ受けは平和の象徴だったんだな」「平和だからこその朝ドラ受けだった」等の朝ドラファンの声が続々と投稿されました。

 これらのツイッターの声に「平和ボケ」「お花畑」など揶揄する投稿も見られたわけですが、果たしてそうでしょうか。

 いかなる戦争も、いったん起きれば「日常」を暴力的に踏みにじり、大切なものを奪っていきます。学校に行くこと、家族や友人と過ごすこと、趣味を楽しむこと、家でのんびり過ごすこと――。あらゆる「当たり前」だと思っていたことが、できなくなり、そして最悪は命を奪う。先の太平洋戦争で私たちが歴史から学んだことです。

幸いに日本は戦後77年の長きにわたって、平和が守られてきました。しかし、当たり前のその平和な日常が突如、否応なく暴力的に奪い取られる事態が戦争なのだと、朝ドラ受けという日常を通して、多くの人が身近なリアルに差し迫ったこととして気づいたからこそ、ツイッターに投稿したのが今回だったのではないでしょうか。

現在放送中の朝ドラ『カムカムエヴリバディ』は戦前から戦後にいたる母娘三代のヒロインの物語ですが、ラジオ英会話好きの初代ヒロインの安子が「ラジオ英会話を楽しむ」という日常を突如、奪われたのは太平洋戦争開戦のニュースからでした。ドラマの視聴者のなかには2月25日、物語が現実と反転するように感じた人もいたようです。

平和は守ろうとする意志がない限り、いつでも「戦争をしたい人たち」「私さえよければと思う人たち」によって破られるのだと、今この情況が教えてくれます。

私にできることは何か。一人ひとりの平和への思いが問われています。


https://www.gonnenji.com/post/taso06 【【誰そ彼のことばno.6】「『向かうところ敵なし』とは敵を持たないことです」【仏教コラム】】より

「向かうところ敵なし」とは敵を持たないこと

                             僧侶・天野こうゆう

 「向かうところ敵なし」――。非常に強くて、どんな相手にも負けないことの意味で使われる言葉です。「今のあのチームなら、向かうところ敵なしだね」。こんな感じでしょうか。

 自信満々なありさまを自負する時にも使いそうですね。

 岡山県倉敷市にある真言宗寺院の天野こうゆう住職は、檀家さんからよく、

「和尚さんに怖いものはないのですか?」と聞かれるそうです。

 それに対して天野住職は次のように考えるといいます。

《私は「怖い」と思い込むと萎縮してしまうので、あまり考えないようにしています。怖いものだけでなく、敵も最初からいないと思うようにしています。そのときに役立つのが「向かうところ敵なし」という言葉です。向かうところ敵なし……一見、「自分は最強だ」と宣言しているように聞こえます。しかし「敵を持たない」と解釈すれば、一気に平和的な言葉に変身します》(『月刊住職』2023年4月号)

「向かうところ敵なし」という言葉をよくよく考えてみると、その前提として「力を持っている」ことになります。しかし、力は常に相対化されるものです。今、この瞬間は誰にも負けないと思うかもしれませんが、時勢が変われば負けることもある。究極が「四面楚歌」でしょう。周りすべてが敵となる孤立無援の状態です。

 八十六年前、日本は今のロシアのように傲慢にも他国に侵略し、やがて太平洋戦争を引き起こしていきます。しかし物資もエネルギーも大国のそれを遥かに下回っていたことから、たちまち劣勢に陥り、ついには中立条約を結んでいたソ連からも裏切られ、四面楚歌状態に陥ります。子どもから大人まで三百十万人以上の命の犠牲、歴史文化の焼失という多大なる代償を払って敗戦を迎えました。

 一九五一年に開かれたサンフランシスコ講和会議では戦勝国である連合軍から日本分割統治、主権の制限などの過酷な賠償請求が出されます。けれどもここに、一人の人物が登場します。仏教国のセイロン(今のスリランカ)から来たジャヤワルダナ氏(後の大統領)です。会議の冒頭、演説に立ったジャヤワルダナ氏はお釈迦様の次の言葉を引用します。

「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」(『法句経』)

 そして、セイロンは賠償の請求を放棄するとしました。怨みを残し、再び敵を作るのをやめましょうと呼びかけたのです。この演説が会議の流れを決め、日本は分割統治や賠償金の支払いを免れたそうです。

 それから七十二年後の今、日本政府は再び「力に恃み」「敵を作る」ことに躍起になり、軍事費に莫大な税金を投じ、戦争のできる国に舵を切ろうとしています。

さて私たちはどちらを選んで生きるでしょうか。力だのみの「向かうところ敵なし」か、それともジャヤワルダナ氏がお釈迦様の言葉を実行したように敵を作らない、持たない「向かうところ敵なし」でしょうか。お寺は常に後者でありたいと思います。 合掌


https://www.gonnenji.com/post/taso07 【【誰そ彼のことばno.7】「私は、透明化されている人たちを描き続けたい」【仏教コラム】】より

私は、透明化されている人たちを描き続けたい

                     NHK朝ドラ『虎に翼』脚本家 吉田恵里香

 異例の話題作、NHK連続テレビ小説『虎に翼』を楽しみにご覧になっている方は多いでしょう。かくいう私(厳念寺の若坊守)も毎朝、胸を揺さぶられながら観ている一人です。

 同ドラマは日本の女性初の弁護士、裁判官、家庭裁判所長となった三淵嘉子さん(一九一四―八四)をモデルにしたもので、伊藤紗莉さん演じる主人公の「寅子」が社会に横たわる様々な不合理に「はて?」と疑問符を投げかけながら奮闘する姿を描いてきました。

 このドラマがこれまでの朝ドラと一線を画すのは、いわゆる「女一代記」ではなく、主人公の人生を軸に据えながらも登場人物一人ひとりに焦点をあてる群像劇という手法で社会(あるいは社会を構成する意識)を憲法や法律と連動させながら描いているところではないかと私は思います。

 たとえば寅子の学友、花岡君は一見女性に優しいふるまいをしながらも実は男尊女卑の価値観を持っており、それを親友の轟君から「俺はあの人たち(寅子ら女子学生たち)は漢だと思った」と人間の尊さは性差ではないと指摘され、反省します。学友の梅子さんの苦悩を通して家父長制の意識に支配される家族と「嫁」「母」の無償労働への鈍感さを描いた回もあれば、道男ら戦災孤児をクローズアップすることで戦争が子どもたちのその後の人生にいかに苦難を与えたかを描く回、あるいは朝鮮半島出身の学友の崔香淑(ヒャンちゃん)を通じ日本人の差別意識を、さらには義姉の花江ちゃんの存在を通じて専業主婦を取り巻く意識なども浮き彫りにしてきました。

 いずれの登場人物の立場と心を緻密に丁寧に描くことで、「私も(俺も)そうだった」「あの時の感情を思い出す」と共感の声が視聴者から上がっているようです。

 その脚本家の吉田恵里香さんが、ある回での人物の描き方に対してSNSで綴られたのが

「私は、透明化されている人たちを描き続けたい」(6月10日「X」投稿)でした。そうだったのか、なるほどなと感じました。「透明化されている人たち」とは、社会のなかで見えづらくさせられている存在(声)でしょう。では誰が見えづらくしているのか。それは政治家であり、社会を構成する私たちでもあります。「自分の得票にはつながらない」「自分とは関係ない」という自分さえよければの姿勢が確かにいるその人の存在と声を奪うのです。

思い出されたのが『仏説阿弥陀経』というお経の「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という一文です。阿弥陀様のいる浄土に咲く蓮の花の様子を語ったもので、「青き色には青き光、黄なる色には黄なる光、赤き色には赤き光、白き色には白き光あり」と説くその心は、心穏やかな世界とは、私たち一人ひとりが本来もつ姿があるがままに存するということです。権力者の価値観や社会の情勢でいのちや存在が押しつぶされる世界は地獄です。

大乗仏教では、誰もが幸せに生きるために一人ひとりが菩薩となって動こうと説きます。これは憲法第十二条《この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない》の精神に通じるのではないでしょうか。脚本家の吉田さんの言葉はその精神を「私は私の仕事で実現する」と力強く宣言されたように感じました。合掌