俳句の深層
深層は身体感覚で
Facebookさん新垣 玄龍
■野口整体と仏教
私の整体の考え方も仏教がベースにあります。整体とは体が整うことなんですが、その整っていた状態は私たち全ての人間に備わっている。
整体の状態であれば、「必要な生きる力」は自然に、その人の体に働きかけてくれる。それは環境も人々も含めた、まさに万法すすみて自己を修証するようなイメージにピッタリなのです。
だから整体では風邪も必要として、引くのであり、花粉症でさえも周囲の「花粉」を利用して自らの体を整えようとしているという考え方なのです。
道元禅師は下記のようにいいます。
▼ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる (正法眼蔵・生死)
(ただ、わが身をも、わが心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れれば、仏の側から全てが行われている。
仏の働きに従っていくだけで、力をも入れず、心を費やさずして、生死を越えて仏になっているのだ)
この「仏の側から全てが行われている」「仏の働きに従っていく」この言葉が、まさに「人間が本来備わっている自然治癒力」なのです。
ところで、この仏の側からとは、どういう場所でしょうか?
▼「私は仏さまを心から信じているから、とても幸せだ」こんな人が、たまにいますが、こういう人も
自分で頑張って努力して信じようとしているので「自分の信仰のような酔い」に酩酊している状態です。
このような信仰は自分が良いときは機能しますが、悪いときは脆く崩れおちることが多いようです。
これは仏の側からではない、自分の側からの話だから方向性が反対なのです。
また、自分のような人間が救われるはずがない、こういう自己憐憫のような感情をもつ人も
仏の側からではない、自分の側からの話だから方向性が反対なのです。
そうではなくて「仏は無条件で私を救う」ことを決めているのです。
そして整体的にいえば「体は無条件で私を救う」ことを決めているのです。
その方向性の視点に立てば、私がどのような疑いをもっていても、文句を言っても、投げやりになって腐っても、その私の欠点まるごと救おうとしていることに気づくはずです。
だから仏の側からの視点で自分を見つめてみる。素直にあるがままにです。
それが、「仏の働きに従っていくだけで、力をも入れず、心を費やさずして」という意味です。
私なんかは欠点だらけの人間です。普段は、それを隠そうとしたり正当化することに必死なわけです。
つまり、仏の働きに抵抗している姿なのです。
このように書いて整理すると私が理解している私なりの仏教と野口整体が一緒だということが明らかになってきました。最期まで読んで頂き、ありがとうございました。
https://ameblo.jp/tomiwaka/entry-12888328334.html?fbclid=IwY2xjawLIsfpleHRuA2FlbQIxMABicmlkETFKc1JQdEdCQlJrRHk4UkFuAR744cHlFLbm7lxJ1SPodNEBHShdxTctepCHV28MXUj0rjYaWEPuCYPvcX2X7w_aem_qmPST2-RUzYIGuveCccfKw 【悟り・救い・回心・野口整体】より
■パラダイムシフト 覚醒体験
私は元ヤクザの僧侶である。
過去には、あの山口組でも進出できなかった、沖縄の地で三次団体のヤクザの組長も務めていた。しかし刑務所で覚醒体験をしたのが、きっかけで仏道修行へと導かれてきた。組織からは絶縁になり、堅気になって仏道修行してから10年の歳月が過ぎる。
ところで仏教といっても実に様々な宗派があり教えも全然違う。自分が頑張って努力して悟りを目指す禅宗なようなものから人生や生き方の全てを仏に任せて、救われることを説く浄土真宗。堅気になって、どうせ出家するなら色々な宗派を知りたいという考えがあった。
だから期間はどうあれ曹洞宗、日蓮宗、真言宗、臨済宗、ミャンマーのテーラワーダ仏教寺院で修行してきた。最終的には心配をかけまくった母親の誕生日に合わせて、三重県伊勢市の寺院で出家した。
それからは雨の日も雪の日も、伊勢神宮内宮の「おはらい町」で托鉢して生活した。
四国遍路で野宿行脚をして熱中症で倒れたこともある。そしてゲストハウスを設立して仲間を集めて、子ども食堂やら何やらと社会事業を色々とやってきた。今は野口整体をベースにした整体院を妻と一緒に経営している。
思えば遠くへ来たものだ。
刑務所の完全隔離された厳正独居という極限の状況におかれた私は正直、狂乱する寸前であった。その不安をどう表現したらよいか、わからない、とにかく壮絶な経験であった。精神を安定させるために色々なことを試したが全部役に立たずに絶望の淵に立っていたが、ある日、坐禅や瞑想をすれば良いのではないかと思い立ち、一心不乱に坐った。
そのおかげで精神も安定した気がしたこともあるが、結果的には不安に押しつぶされてしまい「もう、ダメだ、なるようになれ」と心の底から降参した瞬間に不思議なことが起こった。もう限界だ、ストレスで呼吸も苦しいし、頭も痛い、自分の意志では状況を変えることが出来ない。
心から負けを認めた瞬間だった。ドクドク、リアルに体中に響く心臓の脈拍、一つ一つの呼吸がスローモーションのように感じた。諦めても坐禅している姿は変わらないまま。
坐っているお尻に接している床は、まるで私を力強く支えてくれているように感じた。五感が研ぎ澄まされて
大きな光に包まれて、すべてが一体になった。そして私がいなくなった。
今さっき「完全な負け」を認めて何もする気を失い、すべてを放棄したはずなのに…
私が消えても体や命の働きは、ありありと「今ココ」にあり動いている。今までは私が頑張って生きていると思っていたのに、本当は命が私を流れていたんだ。まるで反対ではないか。
雷に打たれたような衝撃だった。
そして暫くの間、その至福の時間は続き苦しみから解放されて涙が溢れて止まらなかった。それから自分の心の働きが見えてきて、弱さを隠すためにヤクザになった自分を知ってしまう。
暗闇の部屋に光が射し込んだようであった。
それまでは、世間や誰かせいで自分の考え方や生き方に問題があるなんて少しも感じていなかった。
自分の内面と徹底的に向き合うことで自分の弱さや怖れからくる問題が色々なことに影響を与えている。
望んだわけではないが、そんな現実を知って新鮮ではあったが、心が酷く動揺したことを覚えている。
暗闇の部屋に光が射し込んだせいで、部屋の中が散らかり放題でゴミだらけということに気づいたからだ。
結局2年間、その完全隔離された厳正独居から満期出所をすることになった。
■松影の暗きは月の光かな
正直に告白すると、過去の刑務所の不思議な体験は「自分が悟った」のだと長年信じていた。悟るということも
私は仏教の禅には興味があって知っていたし、ヤクザになる以前の右翼団体の代表の頃から新右翼のカリスマ 野村秋介の本を読むことで禅僧の山本玄峰老師などの存在を知ったことで仏道に興味を抱いた。
その影響を受けて私も首里城の近くにある禅寺へ参禅したことがあった。だから何となく、迷いを離れて悟りを開くことが禅の目的だということは知っていたのだ。まぁ何はともあれ刑務所の体験は強烈な出来事であったのだ。しかし今では悟りではなく「霊的な目覚め」の 一歩であったと理解している。
松影の暗きは月の光かな
松影(まつかげ)それは私の暗い部分。怖れ、怒り、自己中心的な考え、コントロール欲求、アルコール依存症も含めて私の闇そのもの。仏教でいえば煩悩、迷いという。その松影は月という光に照らされてこそ、この影が見えてくるのです。言い換えれば、悟りに照らされるからこそ、この迷いが見えてくるのです。
月の光が弱いときは、闇にまで光が届かずに自分の迷いや怖れなども、ハッキリと見えにくいのですが、悟れば悟るほど、自分の闇が明らかに照らされるのです。部屋のカーテンを閉め切ったまま、電気も付けずに生活していて部屋中がゴミだらけになっていたのに気づかない。ところがカーテンを開けたら太陽の光が射し込んできて嫌でもゴミが目につくということです。
この悟りの光は強烈であり、刑務所から出所しても光り続けて私の迷いを照らすことを止めてくれませんでした。それどころか今現在に至っても光は弱まるどころか、眩しい程の輝きで私の欠点を知らせてくれます。
ところで当時の私が悟ったという事実は大いなる勘違いだったことを説明しときます。
禅は悟りの宗教といわれています。「転迷開悟てんめいかいご」という言葉が示すように、迷いを離れて悟りを開くことが禅の目的です。しかし自分の迷いを何とかしようとして本当に簡単に迷いをなくすことが出来るのでしょうか。私の経験からすれば、自分の迷いを自分でコントロールしてなくすことは無理でした。
少々の迷いなら何とかなった気がすることもありますが、私の場合は特にアルコールに関しては自分の力では解決することが不可能な状態でした。
今では断酒4年目を迎えて暮らすことができています。しかし、この断酒も私の意志で頑張って止めてきたというわけではないのです。自助グループの仲間とミーティングをして自分の弱さや欠点を包み隠さずに「分かち合い」したり、底付き体験をして、私なりに理解した神さまに生き方をゆだねて、全てお任せする決心をしたからこそ、アルコール依存症という迷いから回復してきているのです。
でも断酒はしているが迷いがなくなったわけでは全然ありません。
それどころか迷いや欠点は減るどころか、次から次へと出てきます。
しかも明日スリップ(再飲酒)すればアル中へ逆戻りです。
この依存症という病は完治することはないのです。1日1日、回復を続けるしかないのです。それでも元ヤクザでアルコール依存症の僧侶の私は、この方向性しかないと信じています。それは日々の中で心の平安を感じれることがあるからです。
また日々、迷いながら欠点だらけで不完全な私ですが、それでもOKです。
なぜなら道元禅師は迷いと悟りについて『正法眼蔵』の第一巻「現成公案」の中でこう説かれています。
自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
自分の力だけで頑張って生きていると思うのは迷い。
自分を超えた力が支えてくれて、私を生かせてくれる縁が働いていると
気づくのが悟り。
これは世間の常識からしたら、かなり外れている考えではないでしょうか。
でも、これが仏教の修行の方向性なのです。
いや修行する人間でも、私が頑張って努力して修行して悟るのだ。
そういう大きな誤解をしている方々も多くいます。
しかし、そのような「私が修行する」「私が頑張った」
「私が悟った」という方向での修行はすべて「迷」なのだ。
と道元禅師はハッキリ示されています。
私の刑務所の覚醒体験も、どうにもならない状況で降参して起こったこと、いわば万法すすみて自己を修証する体験だったはず。本当は私が頑張って努力したことで得た結果ではないのです。
今までは私が頑張って生きていると思っていたのに、本当は命が私を流れていたんだ。こういう衝撃があったのにも関わらず、それを、いつのまにか私が掴んだものにしてしまった。体験を得ても、それを得たという「私」と「私のもの」である悟りが残り、しかも「悟った我」という、心の酔いに泥酔してしまっていた。
ところで、それでは努力する修行そのものが無意味であり、自分が頑張ることを全て止めて「迷」を止めたら悟りであるのかというと、それも自分の意志で修行を止め、放棄する態度で目的をもった行為であり、自己を運ぶあり方なのだ。だから迷いになる。
じゃあ、どうしたらいいのか?
私が頑張るのも、頑張らないのも方向性が違うといわれる笑
いやいや、そもそも、こんな仏教の禅のような考え方がオカシイのか。
じゃあ禅と対比される浄土真宗はどうなのか。
浄土真宗は私がナムアミダブツ(南無阿弥陀仏)という6文字を唱えるだけで
阿弥陀さんが私を救ってくれるという教えです。
知り合いに鳥羽市在住の海女さんがいます。
その方が教えてくれたのですが、
鳥羽市では盆の入りから、毎日、同じ場所、同じ時間に
念仏(ナムアミダブツ)を唱える女性がいるそうです。
「念仏ばあさん」と呼ばれる、
ある一定の年齢に達した女性たち(職業ではない)です。
地域によって、盆の時期もやり方も異なりますが、
その時に、海に入るとよくないことがあるなど、
お盆は、海女さんであっても海に入らないとのこと。
この念仏も普通に考えたら、私が念仏を唱えていれば、阿弥陀さんが私を救ってくれる目的で唱えるのかと思うじゃないですか。ところが、そういう考え方では、本当の念仏ではないという。本当の念仏は阿弥陀さんとの取引ではなく、おのずと口からあふれ出る、阿弥陀さんの側から称えさせている念仏なのです。
親鸞聖人は、その『正像末和讃』に次のことを書いています。
弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるにより(自然法爾章)
(「南無阿弥陀仏」と称えているのは、行者の意志ではない。阿弥陀仏のお誓い自体によってそう向かわされて、そうさせられているのだ)
自力の禅、他力の浄土真宗などと対比されることも多いものですが、
方向性はどうやら同じなのです。
自分が努力して必死になって到達するようなものではないのです。
道元禅師は付け加えて、言います。
迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。
仏とは目覚めた人であり、ブッダとも呼ばれる。その目覚めた人は、自らの迷いに目覚めた。
迷える人々は、自分が頑張った結果としての「ご褒美」としての悟りに大いに迷っている。
アルコールを飲みすぎて酔いつぶれて、成功する夢を見ている…それは夢から覚めて、気が付くのです。
だから夢から覚める、そして心の酔いからも覚めてシラフで生きる方向です。
だから仏は迷いがない状態ではないのです。迷っている世界と目覚めた世界が別々にあるのではない。
迷いに気づいて目覚めているから仏なのです。
「悟れば問題は一気に解決されて、すべての悩みはなくなる」
このような極端な考え方が「悟り」のイメージだといえます。
しかし、これこそが「迷い」だと道元はいうのです。
悟りは迷いの自覚、気づきなのです。悟りがあるからこそ、迷いに気づかされるのです。
そうであれば道元禅師の「現成公案」の中で続く言葉も理解が深まるでしょう。
諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。
しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。
本当に悟った人(仏)が「私は仏なんだ」と思うはずがないだろうと。
だからこそ本物の仏であり、仏を実証しているのです。
「現成公案」の迷い悟りと仏と、親鸞聖人の「悪人正機説」の悪、善と往生が同じように感じます。
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、『悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや』。」 (歎異抄・第3章)
「悪人でさえ極楽にいけるのだから、善人の往生はなおさら確実だ」 というのが世間の常識ですが、親鸞聖人の救いは真逆です。善い人でさえ救われるのであれば、悪い人の救いはなおさら確実だというのです。
欠点だらけの救いようのない自分が、自分の力で、どうやっても救われるはずがない。
だからこそ、この自分を救ってくれると約束した阿弥陀にお任せするしかないじゃないか。
この考え方は、読む人にとっては、かなり誤解する怖れがあるのではないか。
たとえば生活保護の救済制度のように、自力で自立して暮らしている人(善人)ではなくて
自立しては生きていけない、弱い人(悪人)を救っていく救済制度なのか。
そして、こういう誤解から親鸞聖人が生きていた時代に、
「それなら、すすんで悪いことするほうが得ではないか」といった人たちがいたようです。
真面目に働いて税金もとられるなら、生活保護で暮らしていくほうがいいだろう。
善人より悪人が救われやすいというのなら、悪いことをしたもの勝ちです。
しかし、その誤った解釈を浄土真宗では否定しています。
親鸞聖人の言う「善人」とはそもそも、自分には欠点がない完全で、いつも正しいと思い込んでいる人です。
つまり、自分のことを「まとも」だと思い込んでいるとんでもない誤解をしている人のことです。
そういう人は、もしかすると自分のことを神や仏のように思い込んでいるかもしれません。
いやカルト宗教の教祖のように本気で、そう思っていると言いたいのではなくて、自分の世界を全てコントロールしようと神仏のように振舞っているのではないか。そういうことです。
過去の刑務所で霊的な体験をする以前の私は自分のことを「まとも」だと信じていました。
ヤクザをして恐喝、脅迫、暴行、傷害などでしても「悪いことをした」なんて反省したことなどなかった。
逮捕されても「運が悪かった」くらいのこととしか考えていなかったのです。
ヤクザをして生きることも「任侠」の道を歩んでいると思い込み、何なら強気をくじき弱気を救うなんて
本気で考えてて生きていたのでした。今振り返れば、ただのチンピラでしかありませんでした。
そういう自覚のない生き方を親鸞聖人は「善人」だといっているのです。
そもそも仏教の教えは生きている命を平等に扱うものです。しかし人間は肉や魚を食べて生きている。
野菜だろうが、植物でも命なはずです。害虫駆除も人間の都合でやるし、人間中心の世界観で生きている。
「自分が良ければ全て良い」そういう姿勢で生きているのです。
そんな傲慢な人間が「私は善人だ」というのは、少し考えたらおかしな話だと気づくはずです。
いや、それでも気づかない人がいるから困ったものです。
しかし、そういう傲慢な人でも、阿弥陀仏は救ってくれると親鸞聖人はいうのです。
よって、「私は欠点だらけで不完全だ」と 気づいている謙虚な人は、なおさら救われやすいはずです。
そう読めば「悪人正機説」は理解が深まるのではないでしょうか。
まさに、松影の暗きは月の光かな、の世界です。
だから私が正しいと考えているときなどは、「月の光が弱い」のです。自分の欠点が暗すぎて、よく見えないのですから。アルコール依存症でスリップ(再飲酒)するときは、「もしかしたら今度は、うまく飲めるのではないか」「もうアルコール依存症は治ったのではないか」などと間違えた狂気に囚われて、ありのままの自分が見えなくなる時なのです。
そのときには神や仏から遠い状態にあるのです。迷っていることにも気づかない、深い迷いの闇の中です。
そういうときは、不自由そのものです。なぜなら自由というのは本来は自分が、考えたいずれかを選ぶことができるからです。依存症という病気は、完全にコントロールを失った状態です。だから過去にアルコール依存症者は「酒を飲むしかなかった」のです。そこには選択する自由はなかったからです。
アルコール依存症の自助グループでは「自分のことをアルコール依存症の〇〇です」と語ります。
なぜなら自分の欠点や弱さをありのままに、分かち合いするときにこそ、神や仏が隣にいて、自分が救われることを体験として知っているからです。
■野口整体と仏教
私の整体の考え方も仏教がベースにあります。整体とは体が整うことなんですが、その整っていた状態は私たち全ての人間に備わっている。整体の状態であれば、「必要な生きる力」は自然に、その人の体に働きかけてくれる。それは環境も人々も含めた、まさに万法すすみて自己を修証するようなイメージにピッタリなのです。だから整体では風邪も必要として、引くのであり、花粉症でさえも周囲の「花粉」を利用して自らの体を整えようとしているという考え方なのです。
道元禅師は下記のようにいいます。
ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる (正法眼蔵・生死)
(ただ、わが身をも、わが心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れれば、仏の側から全てが行われている。
仏の働きに従っていくだけで、力をも入れず、心を費やさずして、生死を越えて仏になっているのだ)
この「仏の側から全てが行われている」「仏の働きに従っていく」この言葉が、まさに「人間が本来備わっている自然治癒力」なのです。
ところで、この仏の側からとは、どういう場所でしょうか?
「私は仏さまを心から信じているから、とても幸せだ」こんな人が、たまにいますが、こういう人も
自分で頑張って努力して信じようとしているので「自分の信仰のような酔い」に酩酊している状態です。
このような信仰は自分が良いときは機能しますが、悪いときは脆く崩れおちることが多いようです。
これは仏の側からではない、自分の側からの話だから方向性が反対なのです。
また、自分のような人間が救われるはずがない、こういう自己憐憫のような感情をもつ人も
仏の側からではない、自分の側からの話だから方向性が反対なのです。
そうではなくて「仏は無条件で私を救う」ことを決めているのです。
そして整体的にいえば「体は無条件で私を救う」ことを決めているのです。
その方向性の視点に立てば、私がどのような疑いをもっていても、文句を言っても、投げやりになって腐っても、その私の欠点まるごと救おうとしていることに気づくはずです。
だから仏の側からの視点で自分を見つめてみる。素直にあるがままにです。
それが、「仏の働きに従っていくだけで、力をも入れず、心を費やさずして」という意味です。
私なんかは欠点だらけの人間です。普段は、それを隠そうとしたり正当化することに必死なわけです。
つまり、仏の働きに抵抗している姿なのです。
このように書いて整理すると私が理解している私なりの仏教と野口整体が一緒だということが明らかになってきました。最期まで読んで頂き、ありがとうございました。
2冊目の本は、このようなことを書いてみたいです。
興味を感じられたらお気軽にお問い合わせください。