俳句に見る風景の詠み方
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松尾芭蕉の俳句に見る風景の詠み方
松尾芭蕉(まつおばしょう)は、江戸時代を代表する俳人で、「おくのほそ道」などを通して日本各地を旅しながら多くの俳句を詠みました。芭蕉は、旅先で出会う景色や自然の移り変わりを、わずか17音の俳句に込めて残しました。芭蕉の俳句は、ただ目に見える景色だけでなく、その場の空気や静けさ、感動までも伝えてくれるのが特徴です。ここからは、芭蕉がどのように風景を詠んだのか、初心者でも使える俳句の発想法を紹介します。
芭蕉が風景を詠む際に大切にした「視点」とは
松尾芭蕉が俳句で風景を表現するとき、よく使っていたのが「視点の工夫」です。たとえば、芭蕉の有名な句「古池や蛙(かわず)飛び込む水の音」では、視覚よりもまず「音」に注目しています。このように、風景をただ見て詠むのではなく、音や香り、触れた感覚など、別の角度から感じ取ることで、同じ景色でも深みが増します。
視覚:色や形を見て詠む 聴覚:周りの音や静けさを感じる 嗅覚:季節の香りや空気の匂い 触覚:風の冷たさや温かさ 心の動き:景色を見たときの気持ちを表す
芭蕉のように、風景に自分の感情や感覚を加えて詠むと、独自の視点で心に響く俳句が生まれやすくなります。
旅先の風景を俳句に閉じ込めるコツ
旅先の風景を俳句で詠むときには、感動や季節感を意識すると良いでしょう。芭蕉も、旅で見た美しい景色を、自分なりの視点で表現しています。以下は、旅先で俳句を詠むときに試してみたい方法です。
一瞬の出来事に注目する
旅先で「ふと感じた」ことを詠むと、短い俳句でも生き生きとした景色が浮かびます。
季節を感じるものを探す
旅先の花や風、天気など、季節を表すものを取り入れると、よりその場の情景が伝わります。
感情を少しだけ込める
「楽しい」「寂しい」など、自分の気持ちを少しだけ俳句に入れると、句に味わいが増します。
五感を使う
目だけでなく、耳や鼻、肌で感じたことを詠むことで、より立体的な風景が伝わります。
芭蕉の句に学ぶ!自然を感じる季語の使い方
季語は俳句にとって大切な要素です。芭蕉も季語をうまく使いながら、風景や季節感をわずか17音に込めていました。たとえば「桜」や「雪」など、季節をすぐに思い浮かべやすい言葉があるだけで、情景がよりはっきりと伝わります。
自然な季語を選ぶ
春なら「桜」、夏なら「花火」、秋なら「紅葉」、冬なら「雪」など、シンプルで季節が伝わる季語を使いましょう。
情景に合った季語を使う
芭蕉は季語を無理なく自然に使っていたため、無理に季語を入れず、その場に合う言葉を選びましょう。
季節ごとの特徴を活かす
季語はただの飾りではなく、風景に合った季語が入ると句全体に深みが出ます。
季語の使い方を工夫するだけで、景色や感動がぐっと伝わりやすくなります。
切れ字で風景に深みを出すテクニック
切れ字は俳句にリズムを生み、感動を伝える助けとなります。芭蕉も「や」「かな」「けり」などを活用し、短い句に感動や静けさを伝えていました。たとえば「や」を入れることで、風景に一瞬の静けさや余韻が生まれます。初心者でも使いやすい切れ字を活用して、風景に深みを加えてみましょう。
まとめ
この記事では、松尾芭蕉がどのように風景を俳句で表現したのかをもとに、初心者でも試せる俳句の発想法を紹介しました。旅先の風景や自然の美しさを、五感や視点を工夫しながら詠むことで、俳句に深みが生まれます。松尾芭蕉のように、風景の一瞬を心で感じ、シンプルに表現することで、自分だけの心に響く俳句を詠んでみてください。
https://blog.goo.ne.jp/nikonhp/e/a8a5ab21876991a14ea8ae2353f08e68 【「物の見えたる光」素人の論】より
日本でいちばん偉大な詩人といったら、だれだろう?
柿本人麻呂、西行、芭蕉など、数人の名が、すぐに思いうかぶのだけれど、わたしはなんといっても松尾芭蕉だろうと考える。芭蕉は日本の詩歌の伝統の中で、ずばぬけた、他の追随を許さぬ存在であり、これからも、そうであるに違いない。
芭蕉の「俳諧」は、戯曲におけるシェークスピア、小説におけるドストエフスキー、あるいは西洋音楽におけるバッハに比肩しうる表現の最高の達成度をもっている。
このあいだ、ある本を読んでいて、つぎのような芭蕉のことばを思い出した。
“物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし”服部土芳がしるした「赤冊子」に見える芭蕉のことばとされている。
もうひとつ、わたしが心にきざみつけているのは、芭蕉における不易流行の説。
不易流行とは「千歳不易・一時流行」のいわば短縮形。
“物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし”ここにいう、「物の見えたる光」とはなんだろう?
わたしは俳句はつくらないし、俳句をキチンと学んだ経験もないから、もしかしたら、見当はずれの「素人の論」になっているかもしれない。
「物の見えたる光」という場合、「物」が見えていることが前提である。そうなると、ここで芭蕉がいう「物」とはなにか・・・と、そこから問う必要が生まれてくる。
しかし。しかーし、である。
あまりむずかしく考えすぎて、たちすくんでいるあいだにも、時はどんどん流れていくのである。写真を撮るとき、詩を書くとき、わたし三毛ネコは「物の見えたる光」と向かい合っている。とりあえず、そういっていいのではあるまいか。
不易流行の説で考えると、流行を排し、不易に即くとはにわかにはいえない。
不易に習い、流行を見極めるというと、芭蕉の考えに近づくかもしれないなぁ(^^;)
また「三冊子」には、よく知られたつぎのようなことばが見える。“松のことは松に習え、竹のことは竹に習え”あたりまえのことを、こうきっぱりと断言されると「うーん、いやはや。恐れ入りました」と頭を下げるしかあるまい。名言とはすべてこうしたものではあるにしても・・・。わたしは詩を書くようになってから、ノートを一冊持ち歩いている。カメラもほぼ常時携帯している。「物の見えたる光」がいつわたしを訪れるか、予想できないからである。
詩の場合でいえば、インスピレーションがやってこなければ、詩が書けない。むりに書こうとしても、つまらないものしかできない・・・ということが、経験的によくわかっている。写真においても、事情が似ている。絵画とは違うから、写真を、アトリエに座って、1ヶ月がかり、2ヶ月がかりで描くなんて芸当はだれにだって、できやしない。
物の見えたる光は、出会い頭に一瞬だけあらわれて、消えていく。それをうまくつかまえた人が、その光を語り、指し示す資格をもつ。むろん、素人たるわたしの独断の論ではあるのだけれど。
https://akomix.blog.fc2.com/blog-entry-327.html 【「物の見えたる光」(海程神奈川アンソロジー『碧』8号原稿)】より
「物の見えたる光」 小松敦
「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」
ご存知『三冊子』にある芭蕉のことばだ。「物(対象)が見えた時の一瞬の光(美・感動)を、その光が心の中から消えないうちに詠み留めなさい」、と意訳してもかまわないが、わかったようでわからない。以下、少し吟味してみる。
■物の見えたる光
物「が」見えた光であって、物「に」見えた光ではない。物が見えた時の一瞬の閃光なのだ。『三冊子』の次の引用が理解を助けてくれる。「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞のありしも私意をはなれよといふ事也。此習へといふ所をおのがまゝにとりて終に習はざる也。習へと云ふは、物に入てその微の顕れて情感るや、句となる所也。たとへ物あらはに云ひ出ても、そのものより自然に出る情にあらざれば、物と我二つになりて其の情誠にいたらず。私意のなす作意也。」物が見えた時の一瞬の閃光とは、「忘我して物に没入し、その物の本性・美を直観した時に感じる物と自分との交感・感動」のことだ。
■いまだ心に消えざる中に
物が見えた時の一瞬の閃光は、物の側にではなく、私の心の中に閃く光だ。物の微を直観して光を感じるのは「私」なのだ。私意(主観)を捨てろとは言え、ほかでもない「私」がその「光」を「いひとむ」のだ。
■いひとむべし
ただ詠めというのではなく、詠み留めろと言っている。一瞬の感動を再現可能な言葉に固定すること。物が見えても言葉を捜しあぐねているうちは「私意のなす作意」に陥る。「物の見えたる光」は「いひとむ」言葉とともに閃かれるべきものなのだ。
ここで言っていることは、表現の話ではなく態度の話である。その態度は古今東西で検証されてきた。
仏教哲学では、物自体が独立した実体を持たず他に依存している現象を「空」と呼び、これこそ万物本来の有様としているが、芭蕉は私に対して、この万物流転一切空の世界において、対象と私とが今この一瞬に存在しているという奇跡をベルクソン的に直観し、言わばハイデガーの存在と時間を生きるように、と推奨している。つまり、「いひとむ」べき言葉を閃くには、今を大切に生きること、そういうことなのだ。
以上
https://dosken.com/blog/detail/2105 【あらたうと青葉若葉の日の光 ―芭蕉の自然、「物の見えたる光」―】より
「旅路の画巻」 柿衛文庫蔵 一巻
『芭蕉の真筆』(尾形功編 学習研究社 1993年)
私が初めて芭蕉を意識したのは高校時代のこと、石川啄木と共にであった。啄木の「やはらかに柳あおめる北上の岸辺目に見ゆ泣けと如くに」という短歌と、芭蕉の「あらたうと青葉若葉の日の光」という俳句にほゞ同時に出会った私は、両者に感動させられると共に、その違いにも強い興味を抱かされたのだ。共に早春の新緑を見事に詠い取っている。しかし文学青年を気取っていた当時の私は、望郷の歌の背後に隠された啄木の悲しみに思いを馳せるよりも、「泣けと如くに」の表現を露骨過ぎるセンチメンタリズムと感じたのだ。一方芭蕉の俳句も、早春の日の光を浴びて輝く新緑を、「あら」という間投詞(感動詞)と「たうと(貴し)」という形容詞で捉えていて、一瞬「あれっ」と思わされる。しかし決して甘さに流れることはなく、これを「青葉若葉の日の光」と三つの平明な名詞を連ねて受け止め、春の命の輝きを上品かつ透明に捉えていると思われた。今の私は、啄木短歌のセンチメンタリズムをむしろ評価し、そこに深い味わいを見出し得るように思う。だがこのことは別の機会に取り上げよう。
今回は芭蕉の俳句によって、私が自然の宿す奥深さと神秘に目覚めさせられた幾つかの段階を、二十代から四十代まで振り返ってみたい。「芭蕉論」を記そうというのではない。芭蕉を敬愛する一人の人間の、彼の俳句との出会いについての小さな回想記、備忘録の試みである。
「あらたうと青葉若葉の日の光」。この句への感動の延長線上で、私は浪人時代、『野ざらし紀行』(「甲子吟行」)の全文を暗唱し、「野ざらしを心に風のしむ身哉」や「猿を聞人きくひと捨子に秋の風いかに」、更には「義朝の心に似たり秋の風」を始めとする、悲壮感溢れる芭蕉の俳句・俳文に心を奪われたのだった。その後二十代から三十代にかけて、ドストエフスキイの世界に踏み込み、「闇と光」の混沌に翻弄されていた私が最も望み、かつ得られずに苦しんだのは、人間に対する、世界と歴史に対する、そして自然に対する認識の透徹、あるいはその前提としての感性の鋭敏化という課題であった。これを見事に成し遂げた人物として、芭蕉が強く意識されたのだ。だが二十代の私は、芭蕉を意識すると言っても、心が向いたのは悲壮感溢れる作品ばかりではなく、極めて平明で理解し易い俳句だったことも事実である。例えば以下に挙げる三句である。
春なれや名もなき山の春霞 (野ざらし紀行、貞享二年)
山路来て何やらゆかしすみれ草 (同上)
よくみれば薺(なづな)花さく垣ねかな (続虚栗、貞享三年)
自然と向き合う芭蕉の心に、「名もなき山」や「すみれ草」や「薺の花」が宿す素晴らしさと神秘が、きっと静かにやさしく沁み入ったのであろう。そして私の心にも、静かにやさしく沁み入って来たのだ。
「 甲子吟行画巻 逢坂山」(山路来て・・・)
『芭蕉の真筆』(尾形功編 学習研究社 1993年)
三十代、私の心に強く留まり続けたのは次の五つの句であった。
明ぼのやしら魚しろきこと一寸 (野ざらし紀行、貞享元年)
海くれて鴨のこゑほのかに白し (同上)
花の雲鐘は上野か浅草か (続虚栗、貞享四年)
何の木の花とはしらず匂(にほひ)哉 (笈の小文、元禄元年)
するが地(ぢ)や花橘(はなたちばな)も茶の匂ひ (炭俵、元禄七年)
最初の二つは「色」が、次は「音」が、他の二つは「匂(におひ)」が詠われた、どれも平明さの内に奥深い味わいを持つ句ばかりである。今見ても、これらは二十代に愛唱した親しみ易い俳句の延長線上にあることがよく分かる。当時の私には、そして今もそうなのだが、自然を凝視する芭蕉の眼に耳に鼻に、つまりはその全感覚神経に、対象がその本来の姿を素直に顕し出すものと思われ、しかもそれを的確に感受し、僅か十七文字に平明に言い留める彼の芸術的才能に驚きと羨望を禁じえなかったのである。極めて身近で見慣れた対象と向き合いながら、哲学的・宗教的認識とも連なる深みを以って、その本質に迫り得る「芸術」というものに急速に関心が向かったのが、二十代後半から三十代であった。芭蕉に導かれ、また恩師に導かれて、ダ・ヴィンチやフェルメール、そして倪雲林や梁階や徽宗皇帝の絵画世界に強く惹かれて行ったのもこの頃である。しかしこれら芸術家たちが生み出す奇跡的とも魔術的とも言うべき神韻縹緲たる作品に心を動かされるものの、その裏に秘められた苦闘、骨身を削る克己・努力について、そして彼らが与えられた類たぐい稀な才能について、私は未だ十分に理解していなかったと思う。
なお上に挙げた「花の雲鐘は上野か浅草か」について一言。
「東京の空は桜で埋めればいい」とは、前々回取り上げた牧野富太郎の言葉だが、その二百年前、芭蕉は既に江戸にその光景を見て、花の雲と寺院の鐘の音とを重ね、江戸の春の見事さを実に平明に詠っていたのだ。芭蕉にはこの前年にも、ほぼ同じ光景を詠った句がある。「観音の甍(いらか)みやりつ花の雲」(末若葉、貞享三年)。上野・浅草に数多くある寺院と、至る所に咲き乱れる桜とが朧に混ざり合い響き合い、いつしか江戸の町は仏の慈悲が顕れ出る目出度き有り難き春爛漫の様相を呈している。仏土現成――江戸の桜と鐘の音を向こうに置くと、芭蕉の感性はこの方向に動き出さずにはいなかったのであろう。牧野に直接「鐘の音」についての言及はない。しかし時空を超えて、牧野の心も芭蕉の心と響き合っていると考えたい。
「松尾芭蕉像」 小川破立画
早稲田大学図書館蔵
芭蕉の弟子・土芳とほうが著した『三冊子さんぞうし』(元禄一六年)に初めて触れたのは三十代半ばのことである。中でも『赤冊子』には芭蕉俳諧の本質、創作の秘密・秘伝と言うべきものが次々と記され、学ばされることが実に多く、今も私の座右の書である。中でも当時、私の心には「物の見えたる光、いまだに消えざるうちに言ひとむべし」という言葉が飛び込んで来たのだった。「造化」(造物主)によって創り出された「物」(被造物)、つまり対象がその本質を「光」として顕し出すこと、その「光」を己を無にすることによって捉え、十七文字の一句に表現し切ること、そのために芭蕉は骨身を削って努力をしたこと、これらのことが見事な筆で記されているのだ。土芳とは別の芭蕉の弟子・去来きょらいも、句作にあたっての芭蕉の教えをこう記している。「句調ととのハずんバ舌頭ぜっとうに千転せんてんせよ」(去来抄)――私は、これら土芳や去来が伝える芭蕉の言葉が、哲学的・宗教的認識と芸術的創作に於ける究極の真実であり、真理に他ならないと思うようになったのだった。小さな塾の開設と呼応して、「物の見えたる光」を巡り、師と弟子たちが繰り広げる思索、「学びと創造の場」の伝統への尊敬と憧憬の心が強く湧き出たのもこの頃である。
『赤冊子』との出会い以来、私の芭蕉俳句への関心のあり方は大きく変わったように思う。つまりある句が、直接は自然界の草木や草花を取り上げ、具体的な「物」や「匂い」や「音」を詠うものでも、更にその奥に潜む神秘と本質、即ち「造化」から発される「光」をこそ求めるべきことがより強く意識されるようになったのだ。個体性と具体性の奥にある、真の意味での普遍性と抽象性、つまりは「超越性」をより強く問題とするようになったとも言えるだろう。それはドストエフスキイの作品や福音書との取り組みの進展とも呼応するものであり、この自覚は三十代から四十代を超えて、今も変わることがない。
芭蕉の俳句は千を超える。それら一つ一つが確実に「何か」を物語っている。しかし私の心に強く留まるものをここに挙げるには余りにも数が多く、またそこで彼が見たであろう「光」について十分に解説する力も、残念ながら未だ私にはない。最後に取り敢えず四十代、特に私の心に留まり続けた六句を挙げ、最初に記したように、私の前半生の芭蕉との出会いの回想、備忘録としたい。
あやめ生(おひ)けり軒の鰯(いわし)のされかうべ (江戸広小路、延宝六年)
道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり (野ざらし紀行、貞享元年)
夏草や兵(つはもの)共がゆめの跡 (奥の細道、元禄二年)
先(まづ)頼む椎の木もあり夏木立 (猿蓑、元禄三年)
水仙や白き障子のとも移り (笈日記、元禄四年)
清滝(きよたき)や波に散り込む青松葉 (追善之日記、元禄七年)
「あやめ」、「木槿」、「夏草」、「椎の木」、「水仙」、そして「青松葉」 ―― 我々にはごく身近でありふれた自然界の草木・草花でしかないものが、芭蕉にとっては深い奥行きを持った「光」として顕れ出たのだ。
https://note.com/yousui393/n/n78c6f70d4e95 【「光景」と「情景」-未来につなげるランドスケープ-】より
「光景」と「情景」をテーマに人々の心に残る風景について考える。
「光景」
私が仕事にしたいと思っているランドスケープアーキテクトとは、ざっくりいうと風景をつくる人である。ランドスケープに限らず建築でもそうだが、多くの人に触れる作品をつくるアーキテクトたちの願いは、つくった空間や景色ができるだけ長くみんなに使われ、心に残るものであって欲しいと思うものである。しかしながら、私たち一人々々は生きている間に無数の景色に遭遇することになる。その内の一体いくつが個々人の心に残る風景となるのだろうか。
心に残る景色の一つとして「光景」を挙げたい。○○の光景が目に焼き付く、というように強いフラッシュのような衝撃、驚き、あるいは気づきを伴うような景色である。例えば、人間的スケールを超越した大瀑布、大渓谷、巨樹、巨岩石、広大な平原といった類稀なる景観は、時に私たちの人生観を変えるほどの強い衝撃を与える。本来、光景とは見たままの景色を意味するが、私はこのように定義したいと思う。
では、大自然の景色だけが光景かというとそうではない。光景の本質はコントラストや非日常性だと思う。大都市の中にあって緑のマッスを形成する鎮守の森や傾斜地に残された樹林は意外性であったり、それらに蓄積された時間的スケールの大きさによる驚きを与える。また、見慣れたはずのまちの景色が変化する祭りというイベントも光景であると思う。祭りが終わった後も、しばらくはまちに残像が重なって見え方や感じ方が変わっているという経験があるだろう。もっと些細な例を挙げると、いつもの通勤路に昨日はなかったはずなのに突如として赤い花の群れが顔を現したならどうだろうか、わざわざ遠出をしなくても季節の移ろい、自然の力を感じることができるはずだ。フランスの修景家であるジル・クレマンはこれを「ずれ」と呼んでいる。すっかり分かっているという感情と、それにもかかわらず完全には分かっていなかったという感情から生まれるずれは些細なものごとを強烈に見せる。予定調和の都市生活において、些細であっても人の予想通りには動かない自然が魅せる景色は光景になりうると考えている。
「情景」
もう一つは情景である。光景がフラッシュのように印象的な瞬間を切り出した景色や体験であるなら、情景はもう少し長い時間や反復的な経験を通じて醸成された心象風景であり、あるいはそれを呼び起こす景色であると考えている。つまり、心に残る景色というより心に残っている景色といった方が正しい。あらゆる景色が情景になりうるだろうし、情景は人によってそれぞれ違うものである。
情景は状景とも書くように、状況がつくりだす景色なのかもしれない。多くは過去への憧憬であるように思う。今となっては戻ることのできない忘却された過去の日常が、何らかの類似する断片によって思い出され、それを懐かしむ状況なのだろう。そうなると、情景は特定の景色を指すのではなく、あの頃に見ていた景色というように複数のシーンを指すようになる。また重要なのは、視覚情報だけではなくそのときの感情や前後の物語が結びついているということである。例えば、平日はみんなの都合が合わない家族だったが休日の度にキャンプに行っていた楽しい思い出のある山や川の景色、といった感じである。そのようなストーリーが景色に結びつくことで情景が記憶され、そのときよりも未来の時点で類似する視覚刺激や感覚に出会ったとき情景が呼び起こされるのだろう。
個人的情景と社会的情景
単に「情景」と呼ぶとき、どのような景色が浮かぶだろうか。追ったことはないけどうさぎのいるような山や、釣ったことはないけど小鮒のいるような川をイメージするのではないだろうか。認知心理学の分野ではノスタルジア(懐かしいという複合的感情)を個人的経験に起因する個人的ノスタルジアと、体験したことがないのになぜか懐かしいといった(例えば大正時代のデザインを懐かしむなど)社会的ノスタルジアに分けている。
情景も同様に分けることができると思う。前項で説明した個人的な経験に基づく懐かしい景色は個人的情景であり、体験したことはないが懐かしいような気がする象徴的な景色を社会的情景と呼べるだろう。
では問題は、実際行ったことがないにも関わらず「情景」と聞くとその景色がなぜ思い浮かぶのかである。それはおそらく、先のふるさとの歌のように日本の懐かしい景色の象徴として、知識的に教育されているからではないだろうか。つまり歌や小説、あるいは自分より年配の人の話などに含まれる懐かしい景色のストーリーと、テレビやネットの画像でみた景色イメージを脳内で合成し、仮想的な経験をしているということである。
これらは社会的価値観に支えられている。つまり、野山や小川を日本の情景だと思う人が多数派でなくなったならば、それは社会的には浸透しなくなり、間接的、仮想的に経験することもなくなってしまう。個人的に経験しない限り思い描かれない風景となってしまうだろう。
緑化にみる情景の価値観の変化の兆し
情景の価値観が変容していくのではないかと危機感を覚えているのは、今が再都市化の時代であり、都市にも緑が増え住みやすくなっていることである。ドーナツ化という言葉に表される郊外化の時代は、都心部など住めたものではなく自然に近い郊外での居住を志向する人たちが多数派であった。当時を生きていないので憶測でしかないが、野山や小川や田園風景などを愛し、そういった自然に少しでも近い場所で生活を送りたいと考える人が多かった(あるいは社会的にそういった生活が理想とされた)のではないだろうか。反対に、2000年代以降の近年はアンパン化とも呼ばれ都心居住人口が増加回復する再都市化が起きている。また都市緑化にも力が注がれ、新しく建てられる超高層マンションには緑豊かな屋外空間が必ずと言っていいほどついてくるようになった。大規模な都市公園も近くにあり、わざわざ車を出して郊外へ出かけなくてもグリーンコンタクトが可能になったため、都市の中で完結する生活を送っている人が増えているような気がする。
将来、都市に生まれ、都市の中で育ち、都市の景色を情景に持つ人たちが多数派を占めるとどうなるのだろうか、と不安に思うのである。時代が変わればさまざまな価値観も変わっていくもので、仕方のないことだと言えばそれまでであるが。極端な例であるかもしれないが、知人から、『友達が旅行中に車窓から広がる田んぼを見つめながら「さっきから同じ植物がずっと生えてるけどなんの植物だろうね?」と言った』という笑い話を聞いた。確かに、そんなやつおるか?と今の常識で考えれば笑ってしまうが、今後そういう人たちが多数派を占める未来も十分にあり得る。
話は戻って、都市が緑豊かになってきたことについてだが、所詮は緑化に過ぎないということが問題であると感じている。木をはじめ、石や水といった自然素材を用いることがイコール都市景観を自然にしているという誤った発想が背後にあるように思う。それは自然の定義は人工の対比でしかないことを示している。
光景と情景の関係
冒頭で「光景」とはコントラストや非日常性が本質であると書いた。緑化景観を自然だと思う人にとって、本当の自然景観とはより衝撃的で、より非日常性を感じるものであり、そういう人たちが増えてもいいのではないかと思うかもしれない。しかし、光景は「ずれ」でもあると書いた。この「ずれ」はその人の感受性の強さがなせる気づきでもある。つまり自然を人工の対比としか見れない場合、公園の緑も野山の木々もひとくくりの自然だという認識になってしまい、感動が薄れてしまうのではないかと思うのである。
この感受性に強く関係しているのが「情景」であると思う。過去の思い出のあるお気に入りの景色を集めた情景のアルバムが豊かであればあるほど、小さな差異や変化にも気づくことができ、多くの「光景」に出会うことができるのである。
おわりに
ひと昔前と比べて、様々な価値観が確実に変わってきている。人々の心に残る風景も上の世代と若い世代とでは違ってきているはずだから、これからのアーキテクトが目指すべき風景像も変わっていくのかもしれない。しかしながら、社会的情景としてこれまで良しとされてきた日本の原風景から全く乖離した景色をつくってもいいのだろうかと思う。
私はこれから都市に生まれ、都市で生活する人たちの将来の情景が豊かになるような空間をつくっていきたいと思う。それは石や木や水を自然のオブジェとして扱うのではなく、山の景色や野の景色、海の景色や川の景色を感じさせるように、自然の必然性をもって構築していくものである。過去から続く風景観を継承しつつ、そこに都市に生きる世代の新しい物語が刻まれていくことで新たな情景が形成されていくのだと思う。