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迢空賞 花山多佳子(はなやま たかこ)氏 歌集『三本のやまぼふし』

2025.06.30 05:51

https://www.kadokawa-zaidan.or.jp/kensyou/dakotu/59th_dakotu/entry-1654.html 【受賞のことば・選評】より

第58回迢空賞受賞 『三本のやまぼふし』(砂子屋書房刊)花山多佳子

【受賞者略歴】

花山多佳子(はなやま たかこ)

1948(昭和23)年、東京都武蔵野市生まれ。同志社大学文学部在学中「塔短歌会」入会。

歌集に、『草舟』(第2回ながらみ現代短歌賞)、『空合』(第9回河野愛子賞)、『春疾風』、『木香薔薇』(第18回齋藤茂吉短歌文学賞)、『胡瓜草』(第4回小野市詩歌文学賞)、『鳥影』(第35回詩歌文学館賞)などがある。歌書に、『森岡貞香の秀歌』。「塔」選者。河北新報歌壇選者。

受賞のことば

花山多佳子

 歴史ある賞をいただきたいへんうれしく、選考委員のみなさま、歌集を読んでくださった方々に厚くお礼申しあげます。

『三本のやまぼふし』は二〇一五年より二〇二〇年、コロナ禍の始まった年までの日々の歌を収録しています。それから五年が経ち、世界も社会も一層すさまじい動きの中にあり、世の中の空気もすっかり変容しています。狭い身のめぐりを詠みつつ、時に想念として関心事を織り込むという自分の短歌のありようが、自分としてどこまで納得できるものか。

 身のめぐりの日常も崩壊している現実が至るところにあり、それをもたらしている社会の構造の一端としての身めぐりであり、いつその身めぐりも崩壊するかもしれない現状です。老いも深まっていることでもあり、思考停止に陥らないように戒めています。

 迢空─折口信夫の歌論や文章は若いときから折にふれて読んできました。超越的にならずに矛盾を抱え込みつつ生々しく考え続ける人間の凄みを感じます。その名の賞を励みとして何とかやっていきたいと思います。

選評(敬称略/50音順)

「『三本のやまぼふし』を読む」 佐佐木幸綱

 今年の迢空賞は、大辻󠄀隆弘『橡と石垣』(砂子屋書房)、大松達知『ばんじろう』(六花書林)、黒木三千代『草の譜』(砂子屋書房)、外塚喬『不変』(いりの舎)、花山多佳子『三本のやまぼふし』(砂子屋書房) の五歌集が候補作となり、四月五日に選考会が開催されたが、私は年初来、体調がわるく、選考会は欠席させてもらった。

 ここでは、受賞作・花山多佳子 『三本のやまぼふし』について、簡単に感想を書かせてもらう。

  ベランダのまへの三本のやまぼふし吹き荒るる風に花白く見ゆ

  夏至すぎて三日目の晴れ三日目の月やまぼふしの木を照らしをり

 歌集のタイトルになったヤマボウシをうたった一連がある。作者の住む部屋の窓の前に見えるヤマボウシの木らしい。そこから二首を引用した。ヤマボウシの木は三本あるらしい。昼も夜も、風に揺れ、月光に照らされるヤマボウシである。二首目、晴れたのが三日目だから月が出たのも三日ぶりということになる。見なれたはずのヤマボウシの花が、歌の中では新鮮に見えている。

 この歌集には家族がたくさん出てくるが、独特だ。じっさいの家族の人たちが独特であるというよりも、家族を作品化するときの作者のまなざしが独特だ、と見るべきなのだろう。家族の歌は、この歌集の特色の一つだと思って読んだ。

  わが子らが金いろに髪を染めてゐし一時(いつとき)は時代の一時でもありき

  起きてゐるとアマゾンに何か注文する息子であれば目覚めずともよし

  AB型と家族が信じてゐた夫の血液型はO型だつた

 登場する「わが子」たちも「夫」も独特である。中でも二首目、息子に対して「目覚めずともよし」はやはり目立つ。

  川べりに咲く曼殊沙華いつせいに盛りすぎたる感のおそろし

  初夢に胡瓜の木といふもの見たり胡瓜が空になびきゐたりき

  数日を置きても固きアボカドのクレヨンのやうな食感をはむ

  手の痛み治らぬままに急死せし母の手のやうな気がするこの手

  両の手に覆ふ顔面がいつもより広い感じの雨の朝なり

  世界中消毒するがに照りわたる四月七日のスーパームーン

  こうした作が、たぶん、この歌集の中心をなす作たちだろう。たくさんの曼珠沙華の枯れる寸前の気配を表現した一首目。気配としか言いようのない姿。群生した花が一挙に枯れる寸前を表現して、見事である。

 夢をうたった二首目だが、自分が小人になってしまったような夢が楽しい。下句「胡瓜が空になびきゐたりき」のイメージが、なんとも楽しい。

 三首目、未熟のアボカドを食べたことはないが、「クレヨンのやうな食感」は、なんとなく分かる気がする。

 四首目、かなり昔に亡くなられた母の手のイメージらしい。手を通して、「亡き母」と「死」が一挙にクローズアップされる感覚。この歌集のピークをなす一首だと思う。

「現実を素直に詠んだ豊かさ」 高野公彦

 今回は、候補歌集について意見を交わした結果、選考委員の票が花山多佳子歌集『三本のやまぼふし』に集まり、すんなりと受賞が決まった。

 歌集のあとがきに「二〇一五年から二〇二〇年まで」の作品を収録したとあり、作者六十七歳から七十二歳の作品群であることが分かる。

  三時四時五時とめざめて時のすすみひたすら遅し老いのあかとき

 歌集の冒頭近くにこの歌があり、自分の老いに気づいてそれを素直に受け止め、リアルに詠っている。まさに自分もこんな感じだ、と同感する高齢の読者が多いことと思う。

  三歳の手がにぎりたるおむすびは口にほぐれてゆけりたやすく

  川向うにかがやく月を指したれば「あれはあきちやんが見つけた月」と言ふ

 どちらも孫を詠んだ歌であろう。幼子が握ったお結びはグニャリと柔らかくて持ちにくいけれど、口に入れると直ぐほぐれて食べやすい、と讃える。また、「ほらごらん、月が出ているよ」と教えると、「あれはあきちゃんが見つけた月」と言い返す。どちらの歌も、人生の始まり辺りにいる幼子の可憐さ、純粋さを詠んだ優しい歌である。

  空襲で死にたる人らひしめきて遊ぶがごとし浅草花屋敷

  人類はウイルスにより滅ぶといふ恐怖によりて人類は滅ぶか

 一首目は、東京の下町・浅草にある遊園地「花屋敷」で遊ぶ人々を見て、八十年ほど前この下町を襲った東京大空襲で亡くなった多数の人々を重ね合わせた歌である。二首目は、先ごろのコロナ禍の中で不安に揺れ動く人類を思い、長い人類の歴史の終焉に思いを馳せた歌である。どちらも、作者の歴史感覚の煌めきから生まれた歌といえよう。

  たまさかに鳴るものとなり家電(いへでん)の音を一瞬なにかとおもふ

 これは〈固定電話〉とも呼ばれる家電を詠み、携帯電話やスマホの普及という現代史の流れを感じさせる歌である。作者は一瞬、縄文人に戻って呼び出し音に驚いたのかもしれない。そういえば花山多佳子はかつて若かりしころ〈子を抱きて穴より出でし縄文の人のごとくにあたりまぶしき〉(歌集『楕円の実』)という作を残している。

  貼つて出す切手に迷ふみづからに苛立ちながらなほ迷ひをり

  眼鏡また見失ひたり家のなかに防犯カメラつけたきものを

 歌集にはこのようなユーモアのある歌も散見される。一般的に女性は、自分の中に見つけたマイナス面を詠みたがらない傾向があるようだが、この作者はそのような側面をユーモアで味付けして詠んでいる。自分という現実を、飾らず素直に詠むことが、この歌集に豊かさを呼び込んでいると思う。ご受賞、おめでとうございます。

          *

 このほか、黒木三千代歌集『草の譜』も高く評価された。

  土にふり石にふる雨みづにふり木にふるあめの悉皆浄土

  死ののちの髪膚(はつぷ)乾いてゆく死者をみづの凝(こご)りの白花〔びやくげ〕囲めり

  そのうちに百鬼夜行に入りゆかむ罅のいりたるみづ壺われは

  市中に無いマスク、ネットで買へるとぞいへどネットの外の老いびと

 詳しく述べるスペースは無くなったが、素材や表現法が多彩で秀歌の多い歌集だと思った。ただ、すでに他の賞に選ばれているので、この賞を贈らなくてもいいのでは、という空気が選考の場にあったことは否めない。

「日常の不思議な手触り」 永田和宏

 最終候補として五冊の歌集が残り、それら一冊一冊について、各委員がそれぞれ意見を述べた。迢空賞の選考としては、これまであまり例のないことであったが、全員がもっとも推したいとする歌集が一致して、すんなりと受賞作、受賞者が決定した。

 花山多佳子の歌集『三本のやまぼふし』は、第十二歌集にあたるが、遅すぎる受賞であったと個人的には思っている。

 花山多佳子の歌には、これぞ絶唱といった際立った歌は比較的少ないのだが、丸をつけたくなる歌がなぜか多くなってしまう歌人である。「相変わらず身のめぐりの狭い範囲の歌ばかり」と本人が「あとがき」に記しているが、そのほとんど歌にするまでもないような日常のこまごまが、花山によって詠われるとどこか懐かしい手触りと新鮮さで立ち上がるようである。

  むらさきに穂草かがやく六月を小さき鋏もちて散歩す

  めざめてもめざめても夜 めざむれば昼でありたる若き日おもふ

 それらなんでもない日常が詠われるなかで、花山の歌にはどこかピントの合い損ねたおもしろさとでも言うべきものがあって、その多くは子を詠った歌にあったように思われるが、この歌集ではそれが孫を詠ったものに特徴的に現れている。

  川向うにかがやく月を指したれば「あれはあきちやんが見つけた月」と言ふ

  木の根かたにどんぐり埋めし幼子は立ち上がりなぜか手を合はせたり

  大声で「カメ」と言ふ子は亀ゐるを告ぐるにあらず亀を呼ぶなり

 どれも幼子の行動をそのまま描写しているようでありながら、大人の常識とはかけ離れた幼い子供の感性に驚き、その領域に足を踏み入れることによって自らが楽しんでいるという風である。

 そんなある意味ピントの合い損ねたようなトンチンカンなおもしろさは、花山にこそあり、

  コンクリートだけを踏みつつ六十九年いちど人間を踏みしことあり

  「惡」と「悪」ながめてゐれば「惡」の字の顔にまぎれなく愛嬌のあり

などの歌には、そのおもしろさが躍如としている。現代短歌は何を詠うべきかなどといったかまびすしい議論とは別のところで、花山多佳子はこれからもちょっと現実の地平から足が離れたような場で歌を紡いでいくのであろう。花山多佳子は、学生短歌会の時代からずっと一緒に歌をやってきたことになり、その受賞はなによりうれしいが、その歩みをいつまでも傍らで見ていたいものだと願っている。

 

 その他に私は、黒木三千代の『草の譜』と大辻󠄀隆弘の『橡と石垣』を推した。どちらも実績と実力のある歌人であり、迢空賞を受賞してなんら不思議のない歌人であるが、黒木はこの歌集で読売文学賞、小野市詩歌文学賞、日本歌人クラブ賞を、大辻󠄀は若山牧水賞をすでに受賞していることなども、各選考委員が一位に推さなかった理由でもあろうか。

  たつた二歳だつたのよお父さま 老婆になつたわたし しろ瓜 黒木三千代

  生きませるごとく仄かにほほゑみています先生に別れは言はず

  教へ子と呼ぶとき滲む陶酔を厭ひいとひてわれは老いづく    大辻󠄀隆弘

  報道に遅れてぞ知るくやしさに昨日逝きたりといふ岡井さん

 黒木の歌集には、幼少期からの時間が濃密に蔵(しま)われているが、特に二歳で亡くした父とともに生きてきた歳月が切ない。大辻も老いへ向かう時間の意識が鮮明だが、教え子といった甘美な言葉への傾斜を厭いつつ、教員としての生活を終える時期の歌である。両者とも、岡井隆という師を失った時期の歌集でもあり、改めて師というものを考えさせられた。

 

「並はずれた感性と思索」 馬場あき子

 花山多佳子さんの感性の並はずれた面白さは、第一歌集以来衰えることなく今日につづいている。この度受賞された『三本のやまぼふし』は、どれも歌の内容にふさわしい落着きある文体でうたわれ、しかも一般的な人々の視線からはちょっと外れたところを捉えていて、そのことが或る種の批評性を帯びているところが独特である。

  会ひたしと来つれどはな子この場所にまだ生きをれば耐へがたきかも

  コンクリートだけを踏みつつ六十九年いちど人間を踏みしことあり

 以前から象のはな子の存在を気にしていたようだ。はな子は戦後はじめてタイからやってきた。はじめ上野動物園で、のち井の頭自然文化園で飼育されていたが、二〇一六年五月老衰により死亡。六十九歳であった。サバンナの風土をはなれて、コンクリートの堅い象舎の狭い敷地に鎖につながれて生きた六十年余の象の生涯を思う花山。「まだ生きをれば耐へがたきかも」にこめられた思いはすでに象の命運を超えて心に沁みるものがあったのであろう。

  「惡」と「悪」ながめてゐれば「惡」の字の顔にまぎれなく愛嬌のあり

  バス停にゐる女の子ジャンパーを脱げば人形をおんぶしてをり

  手の痛み治らぬままに急死せし母の手のやうな気がするこの手

 第一首では、「惡」の字体の方に「悪」という新字体より、悪そのものの中にひそむ「愛嬌」があると見ている。つまりこの字を発明した人の心は、「惡」なる文字にあるでこぼこした空間の広さにどこかとぼけた隙のある人間の顔を想像して、小悪をたくらむ人間に共通しそうな或る種憎めないものをみている。花山の共感はそこにある。

 二首目の人形をおんぶしたままジャンパーを着ている女の子の姿には、幼女の愛着のかたちにすでに独得のものがある。誰の手にも渡さない愛の所有の自負といったらいいだろうか。ただ、大人はこの姿をおんぶという幼女の欲求の逆表現とみて、ほほえましくみているにちがいない。

 第三首はちょっと怖い。手の痛みを苦にしつつ、治癒しないまま亡くなったお母さん。死後も、その痛みのみは生きていて、娘である自分の手になっているような、ふしぎな実感である。体から体へ何かを伝え残せるような独特の感性かもしれないが、この痛みの中にはなつかしさと愛が息づいている。

 今回はその他に四冊の歌集が推薦されている。中で黒木三千代さんの『草の譜』は三十年ぶりの上梓とか。この長年の沈黙についての解明はない。全体の構成をⅠからⅧに分け、出自や幼時の思い出から始まる編年体の編集と受けとめたが、事柄としては昭和十八年の歌材からはじまっている。つまり幼少期の記憶やその他の情報から想をふくらませ、追想しつつ自伝的端緒を開いている。しかしⅡではすでに今日の眼でアフガンの事情や、ウサマ=ビンラディンの動向などもうたわれ、今日につながる黒木さんの半世紀の物語が想像を喚起されつつ展開する。用語は端正で、現在の黒木さんの美意識に律しられており好詠が多い。すでに高評価を得て二賞を受賞されている。

 他に大辻󠄀隆弘さんの『橡と石垣』に感銘を受けた。破綻のない端正な歌柄は読みやすく、言葉が素直に心に落ちて来る。何よりも印象に残ったのはシリアISILにより殺害された「湯川遥菜」をうたい、「象徴」や「皇統」などで天皇の人生や家族への思いなどをうたったこと。また、死刑の問題や、ウクライナ戦争などにあえて立ち向かう姿勢もみせているが、ここでは著者の個性はあまり発揮されていない。

 候補作に他二歌集があったが触れる紙数が尽きた。お許しを請う。


https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6077/ 【折口 おりくち 信夫 しのぶ】より

生没年 明治20年2月11日 〜 昭和28年9月3日 (1887年2月11日 〜 1953年9月3日)

出身地 大阪府

職業・身分 学者(人文科学) 、 文学者

別称  釈迢空(しゃくちょうくう)、靄遠渓(あいえんけい)

解説

国文学者、民俗学者、歌人。日本の古典、古代の民俗生活についての学問的成果は国文学、民俗学をはじめ、神道学、芸能史等、多方面にわたり、文献や資料を実感的に把握することを目指した独創的な内容を持ち、「折口学」とも称されている。主な著作として『古代研究』(1929-30)がある。また歌人として、根岸短歌会、アララギに参加するが、大正13(1924)年反アララギ派を結成して、『日光』の創刊に関わった。創作の面においても多岐にわたり、歌集に『海やまのあひだ』(1925)、詩集に『古代感愛集』(1952)、小説に『死者の書』等がある。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%98%E5%8F%A3%E4%BF%A1%E5%A4%AB 【折口信夫】より

折口 信夫(おりくち しのぶ〈のぶを〉[注 1]、1887年〈明治20年〉2月11日 - 1953年〈昭和28年〉9月3日)は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。

折口の成し遂げた研究は、「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。みずからの顔の青痣(あざ)[注 2]をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク、「靄煙渓」とも)と名乗ったこともある。

経歴

出生から修学期

「折口信夫生誕の地」の碑と文学碑(大阪市浪速区敷津西1丁目)

1887年2月11日、大阪府西成郡木津村(現:大阪市浪速区敷津西1丁目・鷗町公園)に父秀太郎、母こうの四男として生まれた。信夫の祖父の造酒之介が、飛鳥坐神社の社家の出身ということもあり、終生、折口はそれを自慢していた(養子なので直接血縁はないと言われている)。1890年より木津幼稚園に通う。1892年、木津尋常小学校(現在の大阪市立敷津小学校)に入学。1894年、叔母えいから贈られた『東京名所図会』の見開きに初めて自作歌を記した。感謝の念篤く、後年『古代研究』にこの叔母への献詞を載せている。1896年、大阪市南区竹屋町にあった育英高等小学校に入学。

1899年4月、大阪府第五中学校(後の天王寺中学)に入学。この頃には大阪の名所旧跡の地理に詳しくなっており、放課後や日曜日には友人とよく御勝山古墳の辺りを散歩していたとされる[2]。中学の同級生には武田祐吉(国文学者)、岩橋小弥太(国史学者)、西田直二郎などがいた。1900年夏に大和の飛鳥坐神社を一人で訪れた。その折に、9歳上の浄土真宗の僧侶で仏教改革運動家である藤無染(ふじ・むぜん)と出会って初恋を知ったという説がある。富岡多惠子によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性[3]があるという。

1901年、15歳になったこの年に父親から橘千蔭『万葉集略解』[注 3]を買ってもらった[4]。作歌にも励み、『文庫』『新小説』に投稿した短歌一首ずつが入選。しかし1902年に中学の成績が下がり、暮れに自殺未遂。1903年3月にも自殺未遂したが、「作歌多し」であった。1904年3月、卒業試験にて、英会話作文・幾何・三角・物理の4科目で落第点を取り、原級にとどまる。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかった。同じく後年、天王寺中学から校歌の作詞を再三頼まれたが、かたくなに拒み続けたと伝えられる。大和に3度旅行した際、室生寺奥の院で自殺を図った若き日の釈契沖に共感、死への誘惑に駆られた。二上山が眼前に三輪山が遠方に、両方見える村の友人の屋敷に複数回滞在している。

1905年3月、天王寺中学校を卒業。医学を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の國學院大學の予科に入学。藤無染と同居する。この頃に約500首の短歌を詠んだ。1907年、國學院予科を修了し、本科国文科に進んだ。この時期國學院大學において国学者三矢重松に教えを受け、強い影響を受けた。また短歌に興味を持ち、根岸短歌会などに出入りした。1910年7月、國學院大學国文科を卒業。卒業論文は「言語情調論」であった。

今宮中学教員として

卒業後は大阪に戻り、1911年10月に大阪府立今宮中学校の嘱託教員(国漢担当)となった[5]。1912年8月に伊勢、熊野を巡る旅に出た。1913年12月「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得た。

再上京

1914年3月、今宮中学校を退職し、上京。折口を慕って上京した生徒達を抱え、高利貸の金まで借りるどん底の暮らしを経験したという[6]。1916年、30歳に時に國學院大學内に郷土研究会を創設。『万葉集』全20巻(4516首)の口語訳上・中・下を刊行。1917年1月、私立郁文館中学校教員となった。同年2月には「アララギ」同人となり、選歌欄を担当することになった。一方で、國學院大學内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動した。

1919年1月、國學院大學臨時代理講師に就いた。また、万葉辞典を刊行。1921年7月 - 9月、柳田國男から沖縄の話を聞き、最初の沖縄・壱岐旅行に出た。1922年1月、雑誌『白鳥』を創刊する。同年4月には國學院大學教授となり、穂積忠らを教えた[7]。

1923年6月、慶應義塾大学文学部講師となり「三田文学」にも深く関わった。第2回目の沖縄旅行に出た。1924年1月、亡師三矢重松の「源氏物語全講会」を遺族の勧めで再興。後にこの会を慶應義塾大学に移し、没年まで活動を続けた。またこの年には「アララギ」を去って、北原白秋らと共に歌誌『日光』を創刊した。

1925年5月、処女歌集『海やまのあひだ』を刊行。1927年6月、國學院の学生らを伴って能登半島に採訪旅行し、藤井春洋の生家を訪ねた。1928年4月、慶應義塾大学文学部教授に昇格し、芸能史講座を開講した。1929年、川田順、斎藤茂吉、前田夕暮、松村英一、北原白秋らが設立した日本歌人協会(東京市本郷区駒込)[8]に加入。1932年、文学博士号を取得。日本民俗協会の設立に関わり、幹事となった。

1935年11月、大阪木津の折口家から分家。第3回目の沖縄旅行。1940年4月、國學院大學文学部に「民俗学」講座を設けた。愛知県三沢の花祭り、長野県新野雪祭りを初めて見た。

1941年8月、中国大陸を旅し、北京にて講演。同年12月8日、太平洋戦争(大東亜戦争)に突入し、藤井春洋は応召。1942年、『天地に宣る』を出版。1944年、藤井春洋は硫黄島に着任。春洋を養嗣子として入籍。1945年3月、第1回大阪大空襲で生家が焼失。大本営が藤井春洋のいる硫黄島の玉砕を発表。同年8月15日の終戦の玉音放送を聴くと、箱根山荘に40日間籠もった。

戦後

1948年4月、『古代感愛集』により日本芸術院賞を受賞[9]。同年12月には第1回日本学術会議会員に選出された。1949年7月、能登一ノ宮に戦死した春洋との父子墓を建立した。1950年と翌51年は宮中御歌会選者を拝命。

1953年7月初め箱根仙石原の別荘[注 4]に行くも健康がすぐれなかった。同年8月31日、衰弱が進んで慶應義塾大学病院に入院。同年9月3日、胃癌により永眠。養子として迎えて戦死した春洋と共に、気多大社がある石川県羽咋市一ノ宮町に建立した墓に眠る[10]。また、折口家の菩提寺願泉寺(大阪市)に分骨が納められている。

受賞・栄典

1948年:『古代感愛集』により昭和22年度日本芸術院賞を受賞。

1957年:第1期全集に対して昭和31年度日本芸術院恩賜賞を受賞[1