自然と人工の調和
https://note.com/qzqrnl/n/nd3bb355432ed 【人工美と自然美の調和】より
最所あさみ
先日六義園に行って驚いたことがある。
歩道の砂利道を歩いていると、前方で係の人が箒を持って作業しているのが目に入った。
近づいてみると、彼らは散らばった歩道の砂利を中央に集め、畝を作るように綺麗な道を作り上げていた。
私はこの光景を見て初めて、歩道の砂利道は人の手で成形されていたことに気づいた。
思い返してみれば、日本庭園の歩道は庭園と砂利の間に土の部分があり、常に砂利は中心に集められている。
人が歩けばそれらは散らばってしまうので、定期的に砂利を中央に集める作業が必要なのだ。
これまでは何も考えずに歩いていた砂利道だったが、その光景を見てからなるべく砂利を散らさないように注意して歩くようになった。
そして歩きながら、この広大な庭園を維持することについて思いを馳せた。
そういえば以前兼六園に行った時も、常に数十人単位の人が庭の手入れをしていたのが印象的だった。
草むしりや雪よけ、剪定など美しい庭園を維持するには膨大な手間ひまがかかっている。
しかし鑑賞する側の私たちは、それを『自然の美しさ』として享受している。
山の中にある生の自然に比べれば、庭園の中の自然はむしろ人工的ですらある。
庭園に限らず観光地の自然は多かれ少なかれその美観を維持するために人の手が入っており、私たちはそんな『手入れが行き届いた』自然を鑑賞しては美しさを讃える。
もちろん手付かずの自然はいうまでもなく美しいものだが、庭園のように人工的に手を加えた自然に私たちが惹かれるのは何故なのだろうか。
自然な状態こそが美の頂点なのだとしたら、ただ植物だけを移植してきてそのあとの生育は自然に任せるのがよい、ということになるはずだが、どうやら私たちの文化はそういう発展はしなかったようだ。
庭師さんの庭づくり哲学は何かの機会に聞いてみたいものだが、庭園を歩きながら考えたのは、やはり人が人であるかぎり『自分たちの生きた証』の香りがするものに惹かれるものなのかもしれないということだ。自然の前に、私たち人間は無力である。しかし私たちは自然に手を加える力を持っている。
この100年ほどはいささか人工的な営みが勝ってしまっている感は否めないが、偉大な自然に対して微力ながら人間の営みの証を残したいという欲求は、古来から私たちの中に連綿と続いているものなのかもしれない。
ただし、その営みは本来人間自身のためではなく自然のために行うものでもあったはずだ。
間引きや剪定は単に見栄えをよくするだけではなく、木や植物の寿命を伸ばす意図もある。
つまり、生き物がよりその生き物らしく育つための補助が理想的な自然美と人工美のバランスだったのではないだろうか。
千利休が綺麗に掃き清められた庭を見た際に木を揺らして落ち葉を再現したように、『より自然な状態になるための不自然』は日本の美学として受け継がれてきたもののひとつだ。
自分の今の仕事は自然美と人工美どちらに寄っているのだろうか、と改めて考えさせられた春の散策だった。
https://www.brh.co.jp/publication/journal/105/talk/ 【自然と人工の調和する場】より
能楽小鼓方大倉流十六世宗家大倉源次郎 × JT生命誌研究館名誉館長 中村桂子
1. 日本の伝統の柱
中村 実は、この国立能楽堂へ参りましたのは、ちょうど2年前の明日、2018年の11月18日、石牟礼道子さんの「沖宮」以来です。私も応援団でしたので。
大倉 ここで御座いましたね。当時の皇后、美智子さまもお出ましになられて。
中村 ええ。私も同じ日に拝見しました。
大倉 そうですか。石牟礼さんには、「不知火」の時に小鼓を打たせていただいて。水俣病で命を落とした生きものたちの鎮魂と再生を願って、現地の海岸につくられた能舞台で上演しました。
中村 不知火海はとてもきれいな海ですね。ところで私、今回『大倉源次郎の能楽談義』を読ませていただきまして、いろいろお伺いしたいことがございます。
大倉 私も生命誌のご本をいろいろ拝見して、ほんとうに何か訴えている世界が同じだなと思って承っておりました。芳賀徹先生との対談では、廃藩置県の次は廃県置藩だと、これは素晴らしいことをおっしゃっているなと思いましてね。徳川家康が偉かったのは、やはり「百姓(おおみたから)」である国民を守るのが司の役目というところで、今の国の行政の人たちにも、その基本を大切にしていただきたいと思います。
中村 徳川時代は封建社会でしたが、藩は地方分権のしくみでもあります。加賀は加賀で、尾張は尾張で、それぞれに文化があり、その中にお能もあったのでしょうね。私は、子どもの頃は戦争中でしたしお能とは関係なしに過ごしてきました。ただ、高等学校の同級生が宝生流宗家の長女でいらして、学芸会で彼女のお仕舞を見るのが私のお能に触れた原点です。日本の教育は、そのような体験の機会を盛り込むことがますます難しくなってとても残念です。学問も芸術も不要不急にされてしまいますし。
大倉 ほんとにね。なんでこんな時代になってしまったのでしょう。日本は教育文化が遅れていると感じます。家計にしても、子どもが生まれたら衣食住と教育は暮らしの軸なのに。
中村 基本的なものですよね。
大倉 文化を育てる。能楽はその強力な共有ツールなのです。江戸文化の再考ということにもなりますが、能は当時、武家の式楽でしたが、同時に、能の謡曲が庶民に親しまれ全国に広がりました。町人も謡を嗜み、その楽しみを通して日本文化が教養として市井の隅々にまで浸透した。いい意味のお遊び、娯楽なのです。
中村 これからの教育では、そのように懐の深い文化に触れることが大事ですね。
大倉 しかし、数ある伝統芸能の中で、なぜ、能楽が教育文化に寄与するのかと尋ねられるわけです。日本の伝統の柱は何か。これは、芳賀先生がいらしたらさぞかし話がはずんだことでしょうが、よくよく思い見るに、やはり日本の伝統の柱は和歌だと思うのです。「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに…」とスサノオノミコトに詠まれた歌を始まりとして、「万葉集」に編まれた4600首もの和歌が現在まで残っているのは素晴らしいことです。神話時代の歌を集めた「万葉集」に続き、後の御代に「古今集」「新古今集」と勅撰和歌集が編まれ、そこから歌物語が発生して「伊勢」や「源氏」や「平家」の物語となり、それらの歌や物語が芝居になったものが能ですから、ここには美しい言葉の歴史が丸ごとパッケージされています。それが田楽や能楽によって、生きた文学として各地に広まり、江戸時代には幕府の式楽という形で津軽から島津まで全国にゆき渡った。
これを生活文化にとり入れたのは、見立て遊びが得意なお茶の世界です。江戸に住みながら吉野桜の茶会に遊びましょうと言って、床の間に桜の絵を掛け、茶道具を設え、「吉野天人」など謡曲を歌って、さらに庭にまで吉野の景色を写すような見立て遊びがあちらこちらのお屋敷で行われていた。お茶という総合芸術の世界に、謡曲は言葉や声によって色を添え、それが生活文化として花開いていた。まさしく江戸のSDGsを可能にしていた時代で、欧米から訪れた人々もそこに理想の世界を見たわけです。
中村 東洋の端の島にこれだけの文化があるとは思っていなかったのではないでしょうか。
大倉 フェノロサも、イザベラ・バードも、アジアの中でも日本はとりわけ素晴らしい国だと旅行記に書き残しています。アムステルダムのシーボルト博物館には、彼が持ち帰った小鼓、大鼓、太鼓など能楽の楽器や、琴、雛飾り、茶道具、工芸品などがきれいに展示されています。東洋にこんな国があるんだということをオランダの人たちに教えてくれていたわけですね。
中村 日本は、今でも「万葉集」が読めます。これほど具体的に、庶民の暮らしの中に、伝統が息づいている文化はよその国にはありませんね。そして、それはいつも自然と関わり合っている。和歌も、お茶も、お能も、その中に自然が組み込まれていますね。私は、日本の文化は自然がつくったものだと思うのです。シベリアでも熱帯でもこれはできません。
大倉 土地が人を育てますね。日本には四季があります。
中村 私たちは、この自然の中に生まれたことをもっとありがたがらないといけませんね。
大倉 スサノオノミコトの歌に始まった伝統の世界は、現代の新年に催される宮中歌会始まで続いているわけで、やはり和歌は伝統の柱だと思います。この言霊が、四季折々を褒め、自然を謳歌し、今も日本の四季を言葉に紡ぎ続けている。私たちはそれを誇りとして次の世代へ伝えないとご先祖に申し訳ない。そう思って能楽をさせていただいております。
2. 世界の始まりから今、そしてこれから
中村 私は、30年ほど前に「生命誌」を始めました。生命科学を基本としながらも科学の中に閉じこもらず、もっと広く「生きていること」を考えたかったからです。137億年前に始まった宇宙の中に地球ができて、38億年前、そこに生きものが生まれた。私たちは、そのつながりの中で生きているという認識がとても大事だと思うのです。今、お話しになったスサノオノミコトから続く歴史も長大なもので、それに張り合う訳ではありませんが、38億年続く生きものの歴史のつながりの上での今、そして、これからを考えていくことが大事だと思っているのです。
そう思って、源次郎先生のご本を開くと、まず「翁」が出て参りますでしょう。「翁」という能には、地球の始まりからの物語が語られていて、しかも、これが能の一番の基本だと書いていらっしゃる。さらにそこには長い歴史とともに未来が入っていて、お能はそのことを根本に置いていると書いていらっしゃるので、生命誌と同じだと思ってびっくりしました。
大倉 ほんとうに。能の1日の番組は、江戸の式楽の時代から、神、男、女、狂、鬼の順に演じる五番立で、その折も、必ず最初に「翁」が上演されるものでした。それは「翁」に、この世界の始まりから、今、そして未来がパッケージされているからです。
中村 お能は、そのような歴史を背景に、現在を演じていらっしゃるわけですね。
大倉 先日、雅楽の方と話していたら、雅楽にも1日の事始めになる演目があり、それは日本でつくられたらしいと。「振鉾」という曲で、イザナギがイザナミと一緒に鉾を振った国創りの神話を連想させるものです。まず何もない舞台の上に一つのバーチャル世界をビックバン(誕生)させる必要があり、それを受け継いで能に仕立てたものが「翁」ではないかと思うのです。
中村 雅楽から能へつながる文化は根本の根本ですね。
大倉 基本的には雅楽は言葉のない世界で、少し乱暴な言い方ですが、そこへ言葉をのせたのは能です。
中村 言葉や、身体で表現する舞いが加わり総合的な芸能になっていったわけですね。
大倉 世阿弥は能楽論『至花道』の中で、「二曲三体」ということを研修しなさいと言っています。
中村 具体的にはどういうことを求められたのですか。
大倉 「二曲」とは歌舞、即ち謡(音曲)と舞です。赤ちゃんが生まれて「おぎゃー」と声を出すのが歌の始まり。手足を自由に動かすのが舞の始まりです。美しい言葉を発する。美しい所作を身に付ける。これが人間の完成に向かう二つの大きな基本だということを「舞歌二曲」という言葉で表しているのです。能楽師は子供のうちは、役柄を意識せず「舞歌二曲」を究めなさいと。次に「三体」というのは面白くて、成人の姿になってからは、さまざまな役柄を習得しなくてはならない。その基本形が「女体」「軍体」「老体」の三体で、絶対条件としての男と女の体。そして老人になる姿の三つの体を意識して習得をしなさいと。つまり「舞歌二曲」を役柄にうまく配して演ずる以外に能の秘訣はないと、世阿弥は能の始まりに書いていて、私たちは大きな宿題を与えられているわけです。
中村 私が基本に置いている、西洋から入ってきた科学で大事なのは理性です。人間の文化として、言葉を話し、考えを究めて、新しいものを生み出していくことは大切です。しかし、科学の中にいてとても疑問だったのは、理性だけですべてを分析して語ってしまおうとすることです。
私は、理性が、源次郎先生のおっしゃる「体得する」ということと重なり合わない限り、ほんとうの文化にはならないと思っているのです。今、コロナウイルスへの対応も含めて、21世紀をどう生きていくかが問われていますが、日本には、今、伺った文化が息づいているわけですから、そこに、20世紀に西洋から学んだ理性的な文化を重ね合わせていけばよい。その術を日本人は心得ているはずで、実は、日本って、とても面白いことができる場所だという気がするのです。
大倉 ほんとうにそうですね。今、地球は悲鳴をあげています。人間社会はコロナウイルスに撹乱されていますが、生産活動が抑制されたおかげで東京の空がきれいになりました。自然が生き返っている。
中村 うちの庭にある藤棚も、初めて見たというくらい立派な房が綻び開花しましたし、街路のツツジがいつもよりずっときれいでした。でも社会が止まって、生活できなくなってしまっては困るので、この中で暮らす方法を探らなければなりません。今、そのチャンスですね。
大倉 新しい価値観が必要です。これまで追いかけてきた物質文明から転じて、次にどのように行動するか、私たちが試されています。
中村 私はいつも「人間は生きもの、自然の一部」と言っています。当たり前すぎて、皆さん忘れているけれど、一番の基本で、ここから次を考えたいと思っています。
3. 自然美と人工美の二元対比
中村 源次郎先生が舞台でお使いになっていらっしゃる小鼓は、植物や動物の皮など、自然の素材でつくられていますね。
大倉 ええ。鼓に皮を張る芯になる部分を「胴」と呼びますが、これは桜の木でとても硬いのです。朱色の「調べ」は麻紐、胴に張ってあるのは馬の皮で、これは小鼓も大皷も同じです。
中村 小鼓と大皷とで同じ馬の皮を使っているのに、まったく音が違うのはどうしてでしょうか。
大倉 同じ材質ですが、性格を正反対に仕上げています。さらに小鼓の皮は百年、二百年と使い続けるものですが、大皷の皮は舞台で使うと10回ほどで破れてしまいます。
中村 それほど違うとは驚きです。同じ馬の皮で、舞台で同じように演奏していらっしゃるのでそのようなことは考えもしませんでした。どうしてそんなに違いが出るのですか。
大倉 そういうコンセプトを誰が考えたか。これは、縄文時代から続くアニミズム的な感覚と、伝来文化の優れた工芸技術とをいかに共存させるかという大きな問いでもあったと思います。それが象徴的に表れているのが胴で、砂時計型をしていますが、描かれた蒔絵をご覧ください。一方には、卵の殻を割って出てきている雛鳥。ピヨピヨって。もう一方には雅楽の笙が描かれています。もう一つの簫はパンフルートのような12音階の立派な楽器です。二つを描くことで自然の声と人工の音との調和を表しています。こうした二元対比(二項対立)による捉え方は、室町時代以前からあったことがさまざまな伝書から知られています。雅楽の大太鼓などの楽器には、龍、鳳凰などの神仙の霊獣が極彩色で描かれていますが、そうした伝来文化を取り入れながら、独自の表現を試みたのだと思います。当時は日本でも金が産出されましたが、非常に貴重なもので、加えて蒔絵は特殊な技術ですから、金で蒔絵を施すことができるのは仏様だけ。ということは、この鼓の胴は仏様と同じ格を持っていたということです。あらゆるものが仏になる可能性がある「悉有仏性」を示し、そこに、自然美と人工美の調和という思いが込められているのです。
中村 まず胴について学ぶところから始まるのですね。自然も人工も共に美しいということがみごとに描き出されていますね。いつ頃からこのような絵を描くようになったのでしょうか。
大倉 この胴は安土桃山時代のものです。琳派の蒔絵もそうですが、梨地と黒地の境目をつくりまして、二つの異なる世界観を対比させながら描く。
中村 西洋絵画でも天国と地獄を描いて両方を対比させて考えなさいということがありますが、日本人にとって自然と人工の対比は非常に大事だということがわかります。
大倉 こちらの胴は、桜花と絹織物の絵が描いてあり、絹織物の柄は秋草です。春を示す自然美と、秋を示す人工美との二元対比です。鼓に接していると、そのように考えた当時の作者の意図を感じて思いがつながる一瞬があるわけです。
中村 安土桃山時代につくられたものを、今も舞台で使い続けていらっしゃるのですね。
大倉 はい。こちらは当時の名工・女内蔵折居(メクラオリイ)の作で、蒔絵はタンポポです。
中村 タンポポは意外です。タンポポに何か意味があるのでしょうか。
大倉 タンポポは芸人を象徴する。どこにでも綿帽子で飛んでいって、きれいなかわいらしい黄色い花を咲かせ、誰からも好かれる。踏みつけられて折れても、翌年には、またきれいな花を咲かせる。非常に強い。打たれ強い芸人を象徴する。お着物の柄でも、雪輪がよくタンポポと対で描かれます。雪輪の中にタンポポをあしらってある。タンポポは芸人、雪輪は芸そのもの、はかなく消えるものを象徴したデザインです。雪輪は豊作の吉祥としても親しまれてきました。
中村 タンポポに、そのような意味があるとは存じませんでした。
大倉 「タン」「ポ」「ポ」という音は、鼓の響を表してもいます。最後にもうひとつ。これは何の絵だと思いますか。
中村 波でしょうか。
大倉 実は、刈り取った後の田んぼの切り株です。でも画題として、どう思います?
中村 地味で、通常はあまり画題になりませんね。
大倉 花か果実か、せめて葉っぱを描いて欲しいと思うけれど、刈り取った後の切り株を画題に選んでいるのはなぜか。実は、徳川家康が尾張徳川義直公に贈った胴の中に同じ蒔絵があるのです。
中村 かなり大切な画題だということですね。農耕民族としての意味があるのでしょうか。
大倉 戦国時代は、戦に明け暮れ田畑は散々荒らされた。それが荒らされることなく秋の収穫を迎え、お米が蔵に納まった。
中村 だから、切り株が残った。
大倉 そう。これは平和の象徴です。実りの収穫が蔵に納まった。そのような御代が訪れたのだから、しっかり守れよという意味を込めてこれを次の世代に贈った。
中村 それは源次郎先生の解釈ですか。
大倉 これが世阿弥の言うところの「秘すれば花」で、気付いた人は面白いよと。
中村 なるほど。「秘すれば花」にはそのような意味があるのですか。
大倉 「古今集」の序にある「言の葉ぐさの露の玉 心を磨く種となる」という言葉は、謡曲「高砂」の詞章にも書き込まれています。能舞台の鏡板にはいつも老松が描いてありますね。雪に覆われても緑の絶えない松の葉は和歌を象徴する「言の葉ぐさ」です。物質としての人間の身体には限界があっても、心の中に言葉は溢れるほどある。その中から「露の玉」のような珠玉の言葉を三十一文字集めて、例えば、恋の歌に詠んで、あなたに届ける。それが「言の葉ぐさの露の玉」です。ところがそれは「心を磨く種となる」わけですから、受け取った側が、その種を解釈して、花を咲かせ、実を育てる文化を身に付けていなければ、言葉は種のままに留まってしまう。
中村 蒔かれた種が育つには、肥沃な土壌が必要ですから土地を耕さないといけません。まさに文化とは“culture”ですね。
大倉 芳賀先生とお話をすると、いつも和歌の話で盛り上がりました。豊かな心を育むうえで言葉を大切にする文化はとても大事なことなんだと。
中村 今、ほんとうに言葉が乱れていますからね。表面的な乱れもありますが、そうではなく言葉の大切さが忘れられているという意味で。
大倉 言葉に力がなくなっているでしょう? これはよくありません。先ほどの二元対比の図柄の読み解きも、言葉ではないけれど同じことで、その蒔絵が施された時代背景を思い、描いた人によってそこに込められた心とつながった時に初めて、今、生きていてよかったと思え、この心をまた次へ伝えようという気持ちが湧いてくるわけですね。
中村 文学にしても絵にしても、それが描かれた心を読み取らないと、読んだり観たりしたことにならないということですね。ところで、先ほどの私の質問ですが、同じ馬の皮なのに、大鼓は10回で破れてしまい小鼓は百年続く。その違いは何か。それも二元対比なのですね。
大倉 人工と自然の二元対比で、両者を大切に守る文化として、大鼓と小鼓、それぞれが陰陽の意味を持つ楽器としたと思うのです。大鼓の皮が10公演で破れてしまうのは、組み立てる時に、大きな力をかけて引っ張って皮に負荷をかけるからです。さらに、舞台で使う前に火鉢に晒して乾燥させます。ですから、早いものは1回で破れる。使わずに破れることもあります。
中村 そこまでやるのですか。ぎりぎりまでぴんと張るので、カーンって鳴り響く、あのカン高い乾いた音を出せるのですね。
大倉 逆に、小鼓は、一代ではいい音になりません。私が手に入れて仕込んだものを子や弟子に渡して、次の人たちが舞台で使う。
中村 大きな力を掛けてぎゅうぎゅう引っ張って、火で炙って乾かす大鼓が、人工の極みの音だとすると、小鼓は自然の音なのですね。確かに大鼓の乾いた音に対して、小鼓は、潤いのある音で、「ポン」と響きますね。
大倉 小鼓は、大鼓とは逆に適度な湿り気が必要で、季節ごとに、毎日のお天気によっても音色が変わります。ほんとうに生きものなんです。だから微妙な調節をするために、舞台の上でも、都度、息を吹きかけたりしています。今日、お持ちしたこの皮は、百五十年ほど前のもので、私の父や祖父の代に手に入れ受け継いでいます。使い込んでいくうちによい音色になっていきます。
中村 乾いた音を出す大鼓は、人工の象徴であり、それはとても短い時間で滅びてしまう。それに対して、湿り気を与えて潤いのある音を出す小鼓は、自然の象徴であり、何百年という時を重ねながら育っていく。その人工と自然の音を舞台の上で調和させるのですね。とても考えさせられます。
4. 伝統に培われた知恵の集積
大倉 大鼓と小鼓とでは、胴の形が異なります。北アフリカからインドネシアを経て日本に入ってきたのが、砂時計型をした小鼓の胴で、ユーラシア大陸の内部を通って朝鮮半島から日本に入ってきたのが大鼓の胴で真ん中にくびれができています。サムルノリのチャング(杖鼓)は能の大鼓の胴と同じ形をしています。
中村 大鼓と小鼓とでは歴史も違うのですね。
大倉 能の打楽器には、もう一つ、撥で打つ太鼓がありますね。雅楽では、大型の太鼓や小型の鞨鼓が用いられますが、能の締太鼓は、出雲から入って和風にアレンジされたもののようです。
中村 鼓によって、背負っている文化が皆、違う。それを舞台の上で一つのものにしていく妙ですね。
大倉 五、六世紀頃から、大和へ大陸文化が入り始めました。それ以降、時間を掛けて培われ、十二、三世紀に能楽が形づくられる時に、さまざまな文化的要素を、それぞれが持つ歴史的背景を生かしながら全体として調和させていったのでしょうね。
中村 この国は、とにかく何でも取り入れて、うまくまとめて自分たちの文化としてきましたが、能の舞台にそれが象徴されていることを教えていただき、改めて、能の意味を考えさせられます。
大倉 能管は横笛の一つですが、日本独自の音階をつくり出しています。笛は風の音で、太鼓は、どうどうと打ち寄せる波の音。つまり風と水で風水です。笛と三種類の鼓に自然界の音を象徴させている。
中村 能の舞台の上には、日本が外から上手に取り入れた文化の蓄積が、その歴史とともにのっているのだということがよくわかりました。そこには自然も入っている。
大倉 そう。パッケージされています。ですから「翁」の冒頭に歌われる「とうとうたらり」という言葉は古代の呪文ですし、続く「所千代まで座しませ 我らも千秋候はん 鶴と亀との齢にて 幸ひ心に任せたり」というこの七五四節は「今様」で、翁芸能ができた十二世紀頃の最先端の流行り歌です。そして、「君の千歳を経んことも」という大和言葉が歌われ、最後は漢文の「万歳楽」。「翁」は、過去、現在、大和言葉、大陸の四種の文化を基につくられた未来を予祝する寿ぎ歌なのです。
「翁」の囃子方の演奏。写真左から三人目が大倉源次郎(小鼓方の中央で頭取を務める)。(写真:新宮夕海)
中村 みごとにすべてを入れていますね。それを一つのものとして演じる。圧倒されます。科学が、本格的に日本に入ってきたのは明治時代で、これはついこの間です。しかも、西洋で形ができあがった文明が一気になだれ込んで来た。今の源次郎先生のお話を伺って、百五十年では、まだまだ私たちは科学を消化しきれていないんだと思いました。でも、日本人は「古事記」以来、少しずつ入ってきたいろいろな文化を、時間をかけて熟成させてきたわけですから、科学も、お能の舞台のように、日本の風土に合わせて変えていけるだろうと思うのです。
大倉 プラスにね。
中村 ええ。私はそう思って「生命誌」を始めているのです。科学をどのように受け入れれば、日本の自然と調和する文化にしていけるか。今日のお話をすべて学びながら、それをやってみたいと、今、改めて思いました。
大倉 能という芸能が、伝統に培われた日本人の知恵の集積であるとするならば、おそらく桂子先生のおっしゃる生命誌も、具体的に言葉や科学として示すものでなく、心に残していくものなのでしょうね。
中村 そうですね。私は直観的に、21世紀は、これまでのような理性による分析に偏った科学では済まないだろうということはわかっているのですが、どのようにすれば、科学を「生命誌」という形に直していけるだろうかと考えて来ました。お能は、既にそれをやっていらっしゃるということが、今、わかったので、それをやればいいんだって思いました(笑)。
大倉 やっぱり謡をやっていると自然に気付かされることはありますね。心から心へつながる舞台芸術ですので、なんとかこれをつなげて行きたいですね。
中村 頭だけで考えるのでなく、全身でお能をやっていらっしゃるからこそ、考えが身体の中から湧いてくるのですね。
5. 「端を楽に」することを喜びとする社会を
中村 生命誌を始める時に「生命誌絵巻」という絵を描きました。さっき「古事記」より古いぞと威張った38億年の生きものの歴史の表現で、私たちの一番の基本です。扇の要のところで小さな細胞が生まれ、それが38億年かけて扇を開くように多様化して、天のところに描いたさまざまな生きものが生きている今の世界がある。人間もこの中に描きました。すべての生きものが等しく38億年の歴史を背負った存在であるという絵です。実は、具体的に描き込んでいませんが、ウイルスはこの絵の中のいたるところにいると考えてよいのです。
大倉 38億年という時間感覚でウイルスを捉えるわけですね。
中村 ウイルスは生きものと違って単独で自己複製できません。生きものの細胞に侵入し、細胞の力を借りて増えます。生きものとは言えない存在なので「生命誌絵巻」には描きませんでしたが、ずっと昔から生きものと関わり合いながら存在してきたわけです。例えば、今度の新型コロナウイルスは、コウモリを宿主としていたウイルスが、たまたまヒトに感染する能力を獲得した。そのために必要な遺伝子を手に入れて活動の場を広げているのが現状ですね。
大倉 人間はウイルスを悪と決め付けたがりますが、ウイルスのほうも続いていきたい。
中村 私はウイルスを「動く遺伝子」と捉えています。遺伝子というのは、生きものが細胞の中に持つゲノムDNAに含まれており、どんな遺伝子の組み合わせを持つかが種によって違います。遺伝子は種ごとに親から子へ少しづつ変化しながら世代を超えて伝えられ、そこからその生きものの特徴を読み取ることができますが、実は、遺伝子は、親から子へ縦方向に伝わることに加えて、ある種から別の種へ、つまり横方向に伝わることがあり、これを水平伝播と言います。38億年という時間スケールで進化を振り返ると、遺伝子の水平伝播は頻繁に起きており、これが生きものの多様性を生み出す原動力の一つとも言えます。実はウイルスは、遺伝子の水平移動の運び屋さんなのです。
38億年の生きものの歴史を俯瞰すると、遺伝子って、いつも生きものの間を動き回っているものだということがわかります。私の遺伝子とか、ヒトの遺伝子という感覚ではなく、遺伝子とは、すべての生きものの共有資源であり、この役割をする遺伝子が必要だから私も使おうという感じですね。
大倉 能の謡曲は、今、二百曲以上が伝えられており、その詞章には、例えば、小野小町や紀貫之、在原業平、さらに西行や定家の詠んだ和歌の言葉や、源氏や平家の物語の詞書が引かれていますが、今の遺伝子のお話をうかがうと、それらの詞書がすべてつながって一つの能の世界ができているようにも思えます。
中村 面白い。おっしゃる通りです。生命誌研究館の研究の一つで蝶と植物の進化とそれぞれの関わりを探っています。蝶は幼虫が食べることのできる葉っぱが種ごとに決まっているのです。モンシロチョウは菜の花などアブラナ科の植物を、多くのアゲハチョウは橘、つまりミカン科の植物の葉を利用します。アゲハチョウのお母さんは卵を産む時に、その葉っぱが後から生まれてくる子が食べられる葉であるかどうかを味見して確かめます。チョウは前脚の先に味を感じる細胞を持っており、実はその中で働いている遺伝子は、私たちが舌で味を感じる時に働かせている遺伝子と同じ種類のものなのです。
大倉 能には、花々に心を寄せる蝶々の精が、旅の僧の前に現れ、寒中に咲く梅の花に縁がないことを嘆く「胡蝶」という曲もあります。
中村 蝶と人間とでは、まったく違う生きもののように思われるかもしれませんが、昆虫も動物ですし、動物の祖先が持っていた匂いや味を感じる働きを、それぞれが大事に使い続けているのだと思います。そのように縦に伝わる以外に、ウイルスによって横から伝えられた遺伝子の例もあります。鳥も蛙も魚も、多くの動物は次の世代を卵に産み落としますが、私たち哺乳類は胎盤を持ち、お腹の中である時期まで子を育てます。この胎盤を形成する時に働く遺伝子のいくつかは動物の祖先に見られず、哺乳類の祖先がある時期に感染したウイルスが運んで来たものだと考えられています。ウイルスは細胞の100分の1という小さな存在ですが、遺伝子が殻を纏って生きものの間を動き回りダイナミズムを支えている。善でも悪でもなく、実際にそのように存在しているのです。
大倉 人間も他の生きものも含めた自然界の中に、ウイルスもいるということですね。
中村 私たちよりウイルスのほうが先輩で、私たちが生まれてきたのはそういう世界なのだから、ここで生きていくしかありません。それを今回のパンデミックで実感しましたね。そのような認識が当たり前になるとよいと思っているのですが、なかなか。
大倉 人間社会の価値観を変えるよい機会として、天が与えたもうたチャンスだと思います。人間の「働く」という行いの基本には、やはり「端を楽に」することを喜びとする価値観があるはずです。経済価値観で判断するだけでない別の価値観がこれから必要ですね。
6. 新作能「えきやく」
中村 源次郎先生は、「手を抜く」という対語があるという気持ちで「精進」という言葉をお使いになっていらっしゃるとご本に書いていらして、これは大事なことだと思いました。
大倉 僕も精進料理の方に教えていただいたのです。今、皆さん、楽して稼ぐことばかり考えます。悲しいことに、社会では自殺率が増えていますが、それも自分はなぜ、今、ここにいるかを考える手掛かりが与えられないからではないでしょうか。人のために働くことを子どもの頃から喜びにできる社会であれば、誰一人、命を粗末にする人はいなくなるはずです。今の教育はそこができていません。社会学者もそれを言わないでしょう。
中村 それは、学問というより日常の問題ですね。私たち一人一人が考えなければ。
大倉 自然の恵みの下で生きる人間社会のルールを考えることが、自ずからSDGsを成功させていたのが江戸の職人社会でした。毎日必要なものは一町に一軒必要で、八百八町に一軒づつあるから八百屋さんなわけで。例えば、豆腐屋に生まれると、五歳で、丁稚奉公に出されてよその飯を食うわけです。その時、その町に豆腐屋がなぜ必要かと気付かされる。年季が明けて家に戻って、初めて親や家業のありがたさ、人のつながりの大切さ、人のために働く、端を楽にすることの素晴らしさを知るのです。そこから家業を手伝って、元服したら子どもも授かり一人前にさせられる。そうやって、子に家督を譲るまでが現役で生きる時間で、早ければ三十五、六歳で悠々自適な生活ができてしまう。凄いのはその後で、豆腐屋はとんでもない豆腐をつくり出す。彫金職人なら、それまで毎日、町のために襖の金具などをコツコツつくり、長年に渡り基礎技術が習得されたわけで、現役を離れた後の彫金師はとんでもない物をつくり出す。浮世絵の写楽なども、後世に名を残す活動をした期間は短くて、パッと消えていますが、その背景には基礎技術を鍛錬する職人社会があったのだと思います。
中村 職人世界は身体すべてを使うものであり、指一本ですべてを済ます現代社会は問題だと思いますね。生きものである人間を考えた時に。
大倉 スマホで楽して情報を仕入れて、なんでもできると思っている。そんな若い次の世代を上手に導くには、ほんとうにしっかりした発信をしないと。
中村 人間、指だけじゃ駄目ですよ。全身で考えないと、という発信ですね。
大倉 最近、「えきやく」という新作能を書いたのも、なんとかして能を次世代に渡したいという僕なりの努力の一つなのですが、「えきやく」の「えき」はエキビョウで、これは、人間から見ると流行り病だけれど、ウイルスにしてみれば生き残り戦略であるという、まさしく「善悪不二」の状況で、これは般若心経でも唱えられる自然と人工の共存共栄という人間の営みの根本問題です。ここで大事なのは、やはりもう一度、端を楽にしていく。人だけでなく、自然に対しても、端を楽にしていく。そのことを、能楽は伝えていると僕は思っています。
中村 お話を伺っていると、同志ですね。ほんとうに。
大倉 こちらは能楽の世界から発信させていただきますので、科学としても、是非よろしくお願いいたします。
中村 何かご一緒にできましたら、是非。お能は静かに語っていくところが魅力ですね。生命誌も大事なことを静かに行っていきたいと思っていますので。
大倉 能には、装飾をそぎ落としながら、ほんとうに大事なものを見つけ、それを伝えていく伝統があります。能の最奥にある秘曲と言える「関寺小町」は、和歌で子供と遊ぶ能です。それも七夕の日に。ここに、とてつもなく深いメッセージが込められていると思います。僕にはまだまだそれはわかりません。けれども、こういう曲を、能楽の最奥の曲に選んだ人たちの思いを受け止めて次へ伝えなくてはいけないと思うのです。世間ではどうしても「船弁慶」だ「熊野」だと見映えの良い舞台が流行ります。切符が売れないと困りますから、それも大事ですけれど。
中村 老女が子どもに和歌を通して生きるということを伝えていくという「関寺小町」が一番の秘曲というのは、生命誌としても興味深いです。
大倉 やっぱり生きものは、水と土と太陽の恵みで育つ、それを頂いて生活する。口から入る物で人間の体はできているという基本原則を忘れては駄目で、それと同じだと思うのです。人間の歴史はビッグバンに始まる宇宙の歴史にどこかでつながっているはずですね。有機物か無機物かでは、僕らは有機物ですが、両方に共通する地球の豊かさの基盤は水ですね。でも、無機物の石や岩などには生命は宿りません。ところが、お能をやっているとわかると思いますが、「魂魄」の魄は無機物や場所に宿ることができる。
中村 精神と肉体、それぞれを司る気があるという考え方ですね。アニミズムは日本の文化を考えるうえで無視できませんし、決して、古いとか、理屈に合わないとかいう評価をするものではないと思います。
大倉 これがお能の着目点の素晴らしいところで、例えば、能「屋島」で、修羅道に落ちた義経の魄が、壇ノ浦という戦さ場に宿って終わりのない修羅の場面をくり返しているという物語を書き残せたのは、魂魄という陰陽の世界観があったからです。
中村 現代社会が失ってしまった世界観ですね。
大倉 世阿弥は「能を書くこと この道の命なり」と言いました。ですから僕も、恥ずかしながら、今回「えきやく」を書きましたけれど、やはりその時代、時代のさまざまな出来事を通して、連綿と語り継がれてきた世界観を後世に伝えていくのがお能だと思うからです。
「えきやく」とは、エキビョウとヤクビョウのことで、流行り病のエキビョウはウイルスなどによるものですが、ヤクビョウとは心の病で、まさしく現代人の心の問題です。物質文明は発達したけれど、精神が追いつかない。精神文明を先行させるにはどうしたらよいのでしょうか。
中村 なるほど。エキビョウがヤクビョウを明らかにしているのが今であり、エキビョウだけを解決するのでなく、ヤクビョウについても考える必要があることを示されたわけですね。
大倉 同じ漢字を書くというのは、やはり日本人の知恵だと思うのです。そのメッセージを受け止めて次の世代へ渡さなくてはなりません。これを是非、書かなければいけないと思ったのです。
中村 お能は古典と受け止められていますが、実は、その時々のテーマを題材につくっていくものなんですね。それが人々に受け入れられ残ってきた。これこそ文化ですね。
大倉 室町時代の宗教問題を扱った作品もあります。やはり人間の魂の問題。そして、時代ごとの社会問題が作品を通して読み込めた時に、「言の葉ぐさの露の玉 心を磨く種となる」のが、自分の中で花となり実となる瞬間だと思うので、これを、「心より心に伝ふる花」として次の世代に伝えていくのが能楽師の役目だろうと。ですから是非、そのような世阿弥の理論を現代科学に置き換えて次の世代へ伝えていくような能楽をよろしくお願いします。
中村 自然が一番大事ということがあらゆる文化の基本ですね。その中でそれぞれの時代が抱える問題に向き合っていくこと。まさに生命誌が求めていることと同じですので、こちらこそ、よろしくお願いいたします。
天の岩戸開きの神話を題材にした能「絵馬」の上演(風のミュージアムで開かれた薪能で)。
シテ:梅若玄祥(四世梅若実)。小鼓:大倉源次郎(写真左から三人目)。(写真:新宮夕海)
対談を終えて
JT生命誌研究館名誉館長 中村桂子
「滅び」と「生まれたて」が共に
生命誌を始めたのは、生きものが歴史と関係の中にあるところに意味を見たかったからです。人間も生きものですからその営みにとって歴史と関係は重要です。能楽は日本人がそのような営みを大切にしてきたことの象徴ではないかと思い関心を持ってきました。今回、能の原点である「翁」に過去、現在、未来が入っているお話を伺い、関心は更に深まりました。小鼓は数百年もち、大鼓は十回打つと終わりで「滅び」と「生まれたて」の音が舞台上でぶつかりあっているというお話も忘れられません。表現の中に本質を見るという点で学びたいことが溢れています。
能楽小鼓方大倉流十六世宗家 大倉源次郎
「はじめもなく終わりもなし」
中村桂子様から38億年の生命誕生のお話を伺いながら宇宙の時間軸では能楽700年の歴史はほんの一瞬の出来事なのだろうと改めて考えさせられ、尚且つ不謹慎かもしれないが人類が産業行為を抑制しただけで空の青さと山の紅葉が美しく自然エネルギーの偉大さに驚かされる。ウイルスが人類に与えた地球規模の大規模実験ともいえる2020コロナは悪ばかりでは無く、善を見い出すのは人の役目だと教えられた。自然美と人工美の調和。自由と孤独。などなどが思い巡らせられ陰陽の道を説く能『杜若』の一節が頭の中をぐるぐると巡った。
大倉源次郎 (おおくら・げんじろう)
1957年、大倉流十五世宗家・大倉長十郎の次男として大阪に生まれる。1964年、独鼓「鮎之段」にて初舞台。1981年、甲南大学卒業。1985年、能楽小鼓方大倉流十六世宗家を継承(同時に大鼓方大倉流宗家預かり)。2017年、重要無形文化財各個指定(人間国宝)認定。公益社団法人能楽協会理事。著書に『大倉源次郎の能楽談義』。
https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/e/2099164130ba5e71a4768c708d0fdb21 【俳句評 俳句と現代詩のあいだ 宇佐美孝二】より
現代詩のことなら多少わかるが、俳句は残念ながら門外漢である。原稿の依頼をうけた時、「何かの間違いでは?」と回答すると、詩客の運営責任者からは、それでも結構・・・と返事がきた。わからないことを学ぶのは嫌いではないので、この機会にお勉強をいたすこととして、不見識を承知で俳句の世界に切り込みを入れたいものです(笑)。
■時間について
古本屋で見つけた、『現代俳句』楠本憲吉著(学燈文庫)はなぜか出版年が入っていない。奥付には著者の検印が押してあるので、古い本には違いない。昭和30年かそこらだろうか。そこには正岡子規から橋本多佳子まで37名、錚々たる俳人の句が載っている。
数々の名句である。そこに一定の視点、言うまでもなく「自然」という視点があることに気が付いた。その自然からの視点は、時間の流れも少なく“瞬間”を切り取ったものがほとんどである。
山肌の虚空日わたる冬至かな (飯田蛇笏)
ひとつの物なり現象が止まっている。もちろん書かれていない過去の時間は流れている。しかしながら書き写された現象時間は止まっているように思える。これが伝統俳句というものなのだろうか。それでも、37人の俳人(小説家も)のなかには、違った時間感覚のある2、3の俳人のいることが見えてきた。漱石はその一人である。
菫程な小さき人に生れたし (夏目漱石)
これを瞬間の感慨と捉える人は多いに違いない。表現される時間には二種類ある。一つは眼の前を流れる(感覚で捉える)線的な時間。もう一つは、蓄積された地層のような、全体で感じる非線的な時間である。漱石の句には、非線的な時間の重なりを感じる。高浜虚子や山口誓子にも時間の重なりや流れを感じる。
私の直観による時間概念は、なにも新しいことではない。が俳句は目の前の瞬間を切り取るものであるという“写生の常識”は、子規以来連綿と続いている。こうした歳時記風俳句は、俳句の世界では伝統に則ったやり方であり、疑う人は少ないという。自分たちの日常をそのように記録することに異論を唱えるわけではないが、一方で書かれた時間が流れたり跳んだりすることで内容(時間の広がり)はずいぶんと豊かになるのではないかと思ったりする。
Fall 田村隆一
落ちる 水の音 木の葉 葉は土に 土の色に やがては帰って行くだろう 鰯雲の
旅人はコートのえりをたてて ぼくらの戸口を通りすぎる 「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」 ぼくらの人生では 日は夜に ぼくらの魂もまた夕焼けにふるえながら
地平線に落ちてゆくべきなのに 落ちる 人と鳥と小動物たちは 眠りの世界に
(詩集『新年の手紙』より)
現代詩の世界で、時間を表現した一例である。もちろん手練れの詩人である田村隆一の作品であることを強調しなければならないが。
■季語のこと
時間概念は、歳時記風俳句として記録するおおかたの俳句には自覚が薄いのではないかと想像するが、反論もでてくるだろう。そうした時間と並行して考えるのは、季語のことである。現代詩の世界からみると、季語の存在は不思議でもある。
海に出て木枯帰るところなし (山口誓子)
なるほど、季語によって17音の中に厖大な「時間の累積」が生じる(先ほどの「時間の広がり」とは別の意味で)。われわれが古来感じてきた感覚が一語で時間を飛び越える。それによって「自然のなかの普遍的なうつくしさ」(鷹羽狩行)を感じられる、一種の象徴の力であろう。
だが一方で、この感覚は人間にとって本当に普遍だろうか、と思わざるを得ない。言葉が、古典的な意味から現代的な意味と感覚に移るように、古い感覚の上には新しい感覚が積み重なる。またそれが言葉の、われわれの感覚を新鮮に保つ醍醐味でもある。人間は古い感覚層に安住したがる生き物だ。季語とはわれわれの感覚を試す装置かもしれない。
しんしんと肺碧きまで海の旅 (篠原鳳作)
無季俳句は、歳時記俳句にたいして生まれた必然だったかもしれない。自由律俳句もそうだが、現代詩の観点からみると共感するところ大である。もちろん現代詩にしても「おじや風現代詩」(飯島耕一)と揶揄されるように、戦後60年以上もたてば風化、陳腐化していることは否めない。どの分野にも対立する構図、あるいは並行して派生する疑似関係の構図があるものだ。先ほどの無季俳句、自由律俳句であり、現代詩の分野でいえば、次のような作品がある。
石 石 石
秋
唇
船 船
扉 扉
扉 蠅
蠅
(連作[7]法隆寺)
これは、戦後の前衛詩運動の一つ、コンクリート・ポエトリー(視覚詩)に関わった、新国誠一という詩人の作品。世界的な詩の運動体でありながら、新国は日本語の漢字と言うものにこだわった。2008年には国立国際美術館で回顧展が開かれている。
俳句の世界でも、高柳重信が視覚的な俳句を作っていると聞く。こうした、いままで当たり前だと思われてきた概念を捨てて、新たな概念で表現活動をすることは言葉にとっても人間にとっても必要なことである。俳句を含めた詩は、自然を謳う時代から人間を謳う時代へと移ることが次の時代の土壌をつくることであると自覚してもよいのではないか。季語に話を戻せば、無季という句の選択は、世界を広げるひとつの鍵ではないかと考えたい。
■たこつぼ化を考える
幸い、というべきか雑誌「ユリイカ」2011年10月号の「現代俳句の新しい波」という特集には、私が以上に述べ感じてきたことがほぼ他の俳人たちによって問題視され提示されている。それらを紹介することは目的ではないが、ここでは作家の長嶋有や西加奈子が句を載せ、同じく作家である川上弘美も句作の経験を鼎談で語っているという事実が、新たな俳句の展開をもたらしていると期待したいところである。
朝寒やフレーク浸る乳の色 (高柳克弘)
白雲と林檎とバスの時刻表 (神野沙希)
あの子ですエッフェル塔を盗んだのは (千野帽子)
(以上「ユリイカ」2011年10月号から)
おそらく、60歳代以上が圧倒的多数を占めると言われる俳句の作り手たちの眼には、これらの明るすぎる俳句の世界に戸惑いと拒絶を感じるかもしれない。私にしても、20年前、30年前には、年輩の3、4人の詩人から、「あなたの詩はどうも(詩の正統?と)違うようだ」とか、間接的には「私の先生は<こんな書き方をしてはいけない>と言われました」と伝えられた経験がある。今から思えば苦笑ものだが、現代詩の世界でも自分の考えている枠組み、書き方から外れると拒絶反応を示す人たちがいたのだ。
俳句人口300万とか600万とか、1000万とか言われる、現代詩からみたらとてつもない層の広がりのある詩の表現分野。現代詩の世界からも、句の世界に流入する人が増えている。だがそれとて、たこつぼ化という問題は必然だろう。聞くところによると「あれをしてはいけない、これもいけない」という“禁じ手”“作法”は呆れるほど多いらしい。結社と宗匠のある世界は、入るときは、裃を付けないといけないのか、と妄想するほどだ。これらの、いわゆる“たこつぼ”を揺らすのは相当な力が必要だ。
前述の「ユリイカ」で角川春樹は俳句を、「盆栽俳句」「半径50センチの身辺(を詠んだもの)」という言いかたをしている。高年齢層では変えるのは容易ではないだろう。だが、「俳句甲子園」から出てきたような若い作り手たちなら可能だろう。現代詩の世界でも、私もかつて「身辺50センチの世界」と呼んだことがあるように、その大半は日常詩である。そこから出ていきたくても今さらどうしたら出ていけるかわからない、という状態である。平凡な結論になるが、若い、柔軟な感性が世界を変える。これはどの世界でも共通だろう。たこつぼは、揺らしても、水が枯れないと中からでてこない。地震が起きても変わりそうもない日本人の世界観(俳句観)は、10代、20代から変えていくしかないか、と思われる。web媒体である「詩客」の存在意義は大きい。