Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

連句と寅日子

2025.07.02 11:53

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2018_11_01.html 【連句と寅日子】より

                              市川 千年

 寺田寅彦(明治一一~昭和一〇)が巻いた歌仙は四七巻(未完成その他を入れると七〇巻)であるが、最初に満尾した歌仙は松根東洋城(明治一一~昭和三九)との両吟歌仙「水団扇の巻」である。この歌仙は、寅彦四八歳(数え年)の大正一四年八月二七日、東洋城と新宿駅のプラットホームで落合い、昼食前から十二荘梅林の離亭を借りて「連句を開筵」、午後8時半まで、場所を変えつつ九時間余りで名残のウラ2句目まで付け、九月八日に追加満尾し、同年十月東洋城主宰の『渋柿』(大正四年二月創刊)に掲載された。今日は、「連句雑俎」(昭和六)で「連句というものの本質を新しい光の下に見直」した寅彦と色紙に揮毫を求められると「俳諧根本芭蕉直結」と好んで書き、連句に「流轉無障の世」「金剛不壊の界」「八面玲瓏の相」を見出した東洋城の、まだこれらの認識に両人が至る前の「水団扇の巻」を鑑賞することで、連句実作に対する認識を深めていきたい。また、物理学者であった寅彦にとって「「時」の俳諧」(「連句雑俎」)とは何であったかを考えたい。

水団扇鵜飼の絵なる篝かな 東洋城     旅の話の更けて涼しき 寅日子

縁柱すがるところに瘤ありて 城      半分とけしあと解けぬ謎 子

吸物をあとから出した月の宴 城      庭のすゝきに風渡る頃 子

山里は洗足の水も秋早く ゝ         只だ飼ふまゝに鯉の痩せやう 城

たまさかに内に居る日は不興にて   子   もの烹きながら結ひいそぐ髪 城

君来べきしるしなればや宵の雨 子      草紙の中の世さへ悲しく 城

梅の実の色づく日々の医者通ひ 子      医は医なれども謡のみ説く 城

提燈の箱も長押に年古りぬ 子        唯一軒の家囲む森 城

五加木垣都の花に背を向けて 子       昔の春の御厨子黒棚 城

二オ

定めとて月の朔日目刺焼く ゝ       不孝の悴九離勘当 子

持山の奥も見知らず代々に 城       狸を祭る大杉の蔭 子

降りすぐる一時雨に日のありて 城     土の匂ひの侘しなつかし 子

薪小屋の薪も尽きたる黄昏れに 城     うしろの藪の雪折の音 子

淋しさは水車の屋根の石叩 城       死んだ女房の襤褸干しゐる 子

年回に当たらぬ年の盆の月 城       犬に物言ふ縁の白萩 子

ナウ

やうゝゝに野分の跡の片づきて ゝ    用はなけれどけふも出あるく 城

安本をあさり暮らすも癖のうち 子    めかけの数に殖える別荘 城

花見の場舞台廻ればものさびて 子    朧を刻む杉の四五本 城

 寅彦は初めて歌仙を巻いた感想を小宮豊隆に手紙で伝えている。「・・やつて見ると段々に六かしい事が分つて来るのを感じました。最初の二頁位は呑気に面白くても三頁辺からソロゝゝ単調と倦怠が目に立つて来る。それをグイゝゝ引立つて行くのは中々容易な事でないといふ事が朧気ながら分るやうな気がしました。此ういふ体験だけが一日の荒行の効果であつたかと思ひます。かういう事を考へて見ると、人の付け方が自分の気に入らぬ時でも、其れを其儘に受納して、そうして其れに附ける附け方によつて、その気に入らぬ句を自分の気に入るやうに活かす事を考へるのが、非常に張合のある事のやうに思はれて来ます。此れは勿論油臭い我の強いやり方でありますが、さういふ努力と闘争を続けることによつて、芭蕉の到達した処に近づく事が出来るのではないかという気もします。・・当日低気圧通過後の油照で恐ろしく蒸暑く、其れに一日頭を使つた為非常に疲労し、夜中非常な鼾で妻の安眠を妨害し抗議を申し込まれました・・・」

 連句の付合の読み方(例)

 「聯句はさまざまの宇宙の現象、それは連絡のない宇宙の現象を變化の鹽梅克く横様に配列したものである」(高浜虚子「聯句の趣味」 明治三二年五月「ほとゝぎす」所収)。

    いのち嬉しき撰集のさた       去来

     さまざまに品かはりたる戀をして 凡兆

 法則 二の裏六句のはじめの句である。雑で戀。

意味 今度は前の句の勅撰集に入るとある歌は定めていろいろの戀歌もあろうといふやうな連想から或人に思ひ及ぼし、其人は様々に風の變つた戀をして、といつたのである。「戀をして」と未了にいつたのは、いろいろの戀をしていろいろの歌を讀んだとも、後には發心して僧になつたとも、或ひは終に老境に立至つたとも、其は讀者めいめいの想像の自由に任して置くのである。かゝる敍法は連句には甚だ多い。(同「連句論」 明治三七年九月「ホトトギス」所収)

 「連句の付合を同一の基準・方法で読むことはできないかと考えた末、とりあえず次のような三段階で芭蕉晩年の作品を分析し、そこから少しずつ他作品へ手を広げてはどうかと思い至った。すなわち、①付句作者は前句に対してどのような発展的理解を示したか、②それをもとにいかなる場面・情景・人物像などを付けようと考えたか、③そのことを句にするために題材や詞をどう選んだか、という三段階であり・・・」(『近世文芸 研究と評論』第八十号所収 『続猿蓑』「八九間」歌仙分析 佐藤勝明・小林孔 平成二三年六月)

    夏の夜や崩れて明し冷し物  芭蕉

     露ははらりと蓮の縁先     曲翠

 〔付合〕①前句を夜の宴も果てた早朝の座敷とみて、②短夜のはかなき一景を案じつつ、視点を室内から屋外に移し、③障子をあけて縁側から眺めると、池の蓮の葉に露が転がっているとした。(備考 発句の景をそのまま映し、眼前の景を打ち添えた脇句で、「崩て」に「はらり」を響かせている)(同八十八号 『続猿蓑』「夏の夜や」歌仙分析 平成二七年六月)

 「ヒアガルの絵のように一幅の画面に一見ほとんど雑然と色々なものを気狂いの夢の中の群像とでもいったように並べたのがある。日本人でもこの真似をする阿呆があるが、あれも本来のねらい所はおそらく一種の「俳諧」であったに違いない。ただこれは「時」の俳諧の代りに「空間」の俳諧を試みて、そうしてあまり成功しなかった一つの習作とも見らるるものである。」(「連句雑俎」 連句の独自性 昭和六年三月『渋柿』)

 「私のこの甚だ不完全に概括的な、不透明に命題的な世迷事を追跡する代りに、読者はむしろ直接に、例えば『猿蓑』の中の任意の一歌仙を取り上げ、その中に流動する我邦特有の自然環境とこれに支配される人間生活の苦楽の無常迅速なる表象を追跡する方が、遥かに明晰に私の云わんとする所を止揚するであろう。試みに「鳶の羽」の巻を繙いてみる。鳶はひとしきり時雨に悩むがやがて風収まって羽づくろいする。その姿を哀れと見るのは、すなわち日本人の日常生活のあわれを一羽の鳥に投影してしばらくそれを客観する、そこに始めて俳諧が生まれるのである。旅には渡渉する川が横たわり、住には小獣の迫害がある。そうして梨を作り、墨絵をかきなぐり、めりやすを着用し、午の貝をぶうぶうと鳴らし、茣蓙に寝ね、芙蓉の散るを賞し、そうして水前寺の吸物をすするのである。

 このようにして一連句は日本人の過去、現在、未来の生きた生活の忠実なる活動写真であり、また最も優秀なるモンタージュ映画となるのである。」(同)

鳶の羽も刷ぬはつしぐれ 去来         一ふき風の木の葉しづまる 芭蕉

股引の朝からぬるゝ川こえて 凡兆       たぬきをゝどす篠張の弓 史邦

まいら戸に蔦這かゝる宵の月  蕉       人にもくれず名物の梨 来

かきなぐる墨絵おかしく秋暮れて 邦     はきごゝろよきめりやすの足袋  兆

何事も無言の内はしづかなり 来       里見え初て午の貝ふく 蕉

ほつれたる去年のねござのしたゝるく 兆    芙蓉の花のはらゝゝとちる 邦

吸物は先出来されしすいぜんじ 蕉

  (猿蓑集 巻之五 ウラ七句目まで)

  (ナオ八句目から)

  いまや別の刀さし出す 来     せはしげに櫛でかしらをかきならし 兆

  おもひ切たる死ぐるい見よ 邦   青天に有明月の朝ぼらけ 来

 (寅日子)たしか、ドストエフスキーの「白痴」の中に死刑場に引かれて行く途中で、白昼の空の光をしみじみ味わうという條があったと思う。死に面した時の空の光の印象は実際不思議な者だろう。――此の句を付けた去来の心持にはそれに似た者が有りはしなかったろうか。

湖水の秋の比良のはつ霜   蕉

(寅日子)あらゆる事件や葛藤が収まって静寂な自然が展開するような気がする、一つのCadenceを作っている。

                      (大正十二年十月「渋柿」)

 「牢獄の中に十二年間もはいっていた男の話を聞いたことがあります。・・この男はかつてほかの数名の者といっしょに処刑台にあげられたことがあるんです。政治犯として銃殺刑の宣告を読みあげられたのです。ところが、それから二十分あまりたって、今度は特赦の勅令が読みあげられ、罪一等を減じられたのです」、「この死を目前に控えた男は、当時二十七歳で、健康な頑丈な体格の持主でしたが、友だちに別れを告げながら、そのなかの一人にかなりのんきな質問をして、その答えに非常な興味さえ持ったということです」、「ついに生きていられるのはあと五分間ばかりで、それ以上ではないということになりました。その男の言うところによりますと、この五分間は本人にとって果てしもなく長い時間で、莫大な財産のような気がしたそうです」、「いま自分はこのように存在し生きているのに、三分後にはもう何かあるものになる、つまり誰かにか、何かにか、なるのだ、これはそもそもなぜだろう、この問題をできるだけ早く、できるだけはっきりと自分に説明したかったのです。誰かになるとすれば誰になるのか、そしてそれはどこなのであろう?これだけのことをすっかり、この二分間に解決しようとしたのです!そこからほど遠からぬところに教会があって、その金色の屋根の頂が明るい日光にきらきらと輝いていたそうです。男はおそろしいほど執拗にこの屋根と、屋根に反射して輝く日光をながめながら、その光線から眼を離すことができなかったと言っていました。この光線こそ自分の新しい自然であり、あと三分たったら、なんらかの方法でこの光線と融合してしまうのだ、という気がしたそうです・・・・・・・」「《もし死なないとしたらどうだろう!もし命を取りとめたらどうだろう!それはなんという無限だろう!しかも、その無限の時間がすっかり自分のものになるんだ!・・・》」(ドストエフスキー『白痴』 木村浩訳 新潮文庫 昭和五三年)

 安政時代の土佐の高知での話である。

刃傷事件に坐して、親族立会の上で詰腹を切らされた十九歳の少年の祖母になる人が、愁傷の余りに失心しようとした。居合わせた人が、あはてゝ其場にあつた鉄瓶の湯をその老媼の口に注ぎ込んだ。

 老媼は、其鉄瓶の底を撫で廻した掌で、自分の顔を矢鱈と撫で廻した為に、顔中一面に真黒い斑点が出来た。居合わせた人々は、そういふ極端な悲惨な事情の下にも、矢張それを見て笑つたさうである。

                      (大正十一年四月「渋柿」)

 「この短文は一見、何でもない昔話のようだが、ここには寺田寅彦の胸底にある歴史・郷土・血族などへの想いが、すべて塗り込められていると言っていい。

 じつは、これは井口村事件として土佐ではよく知られた事件で、この詰腹を切らされた少年、宇賀喜久馬は寅彦の叔父であり、切腹の介錯をしたのは喜久馬の実兄寺田利正で、寅彦の実父である。このことを寅彦は、なぜ率直に明かさず、まるで山間の僻地に伝わる寓話か何かのような書き方をしたのか、これは文学者としての寅彦を考える上で見過ごせぬことと思う。」(安岡章太郎「寺田寅彦全集」第一巻 解説)

 寺田寅彦語録、時間認識

 「三週間余り入院している間に自分の周囲にも内部にも色々の出来事が起った。色々の書物を読んで色々の事も考えた。色々の人が来て色々の光や影を自分の心の奥に投げ入れた。しかし、それについては別に何事も書き残しておくまいと思う。今こうしてただ病室を賑わしてくれた花の事だけを書いてみると入院中の自分のあらゆるものがこれで尽くされたような気がする。人が見たら何でもないこの貧しい記録も自分にとってはあらゆる忘れ難い貴重な経験の総目次になるように思われる。(「病室の花」 大正九年五月『アララギ』)

 「複雑な万象を貫く一脈の真理あるいは原理理法が存在するという信念、あるいは少なくもそういうものが存在すると信じたいという希望をもっている。そのような希望を抱いて万象に対しこれに照らしてこれを見た結果を云い現わす時に哲学が生まれるのである。」(「物理学序説」生前未発表 第一篇緒論 第一章 学問の起源、言語と道具より 大正九年十一月十二日に稿を起こす)

 「空間化された時間は力学的の世界観に必要欠くべからざるものである一方で、物理学者の立場をはなれて非物質的の世界におけるものとしてはあまりに物足りないような感じのする人は多いであろう。Bergsonのごときその一人であった。彼は物理学はすべてのものを空間にのみreduceせんとする。「物理は幾何のバラストを背負っている」と云った。そしてKantが空間的な時間を知的認識の形式と考えたに対し、直観的認識の根本形式として純粋継続pure durationなるものを考えた。これは無論形而上的なものではあるが、かくのごとき説の出るというのは物理学的の時なるものが物理的の意味しか持たない事を悟らしむるに足るであろう。

 空間化されたる線的時間においては現在すなわち「今」はいわゆる時点Zeitpunktであり、その間の長さはZeitintervalleである。かくする事によって時は連続的な数学的の量となる。しかるに一方主観的の「今」は甚だ不判明なもので或る時は数十分あるいは時によっては一世紀ほどを意味する事さえある。かくのごとき「今」の領域は相互に重なり合いつつ進行していく。かくのごとくなる事によって始めて連絡せる時間の知覚が成立する事は疑いない。狭き領域内では二つの継起する出来事がしばしば前後の順序を顛倒して感ぜられる例さえある。かくのごときを時間閾という。聴覚では1|40―1|80秒である。」(「物理学序説」第二篇 第四章感覚)

 「物体の物体たるはこの境界たる面や稜角における何等かの非連続によって認知される。従って物理学のあらゆる問題には境界条件(boundary condition)なるものが現れて来るのである。(同第六章物質とその性質)

 「普通の詩歌の相次ぐ二句の接続は論理的単義的であり、甲句の「面」と乙句の「面」とは普通幾何学的に連続し、甲の描く曲線は乙の曲線と必然的単義的に連結している。これに反して連句中の一句とその附句との「面」の関係は、複雑に連絡した一種のリーマン的表面の各葉の間の関係のようなものである。句の外観上の表面に現れた甲の曲線から乙の曲線に移る間に通過するその経路は、実は数段にも重畳した多様な層の間にほとんど無限に多義的な曲線を描く可能性をもっているのである。そうして連句というものの独自な面白味は正にこの複雑な自由さにかかっているのである。要するに普通の詩歌の相次ぐ二句は結局一つの有機的なものの部分であり、個体としての存在価値を有たないものであるが、連句の二句は、明白に二つの立派な独立な個体であって、しかもその二つの個体自身の別々の価値のみならず、むしろ個体と個体との接触によって生ずる「界面現象」といったようなものが最も重要な価値をもつものになるのである。そうして、この点が既に連句と音楽との比較の上に一つの著しい目標を与えるのである。これを私は今仮に旋律的要素と名づけてみようと思う。(「連句雑俎」連句と音楽)

 「季節の感じは俳句の生命であり、第一要素である。これを除去したものはもはや俳句ではなくて、それは川柳であるか一種のエピグラムに過ぎない。俳句の内容としての具体的な世界像の構成に要する「時」の要素を決定するものが、この季題に含まれた時期の指定である。時に無関係な「不易」な真の宣明のみでは決して俳諧になり得ないのである。「流行」する時の流れの中の一つの点を確実に把握して指示しなければ具象的な映像は現われ得ないのである。(「天文と俳句」 改造社『俳句講座』第七巻所収 昭和七年八月)

 話題提供一、 仏教の時間論を映写機の喩えで説明した仏教学者木村泰賢(明治一四~昭和五)

   「まだ光が当たっていない、映写前のフィルム」が未来

   「光が当たってスクリーンに像が映っている、その瞬間のフィルム」が現在

   「映写が終わって下のリールに巻きとられたフィルム」が過去

   「フィルムのコマとコマの間隔」が一刹那という時間

 説一切有部がいう時間の機構と映写機の大きな違いが「未来のフィルム」の状態。

 映写機なら、未来のフィルムはあらかじめリールに巻かれてセットされている。ということはコマの並びは最初から決まっているということである。これだと、この世のすべての出来事は初めからすべて決定されているということである。

 仏教の時間論はそうではない。映写機の上方にセットされているのがフィルムを巻いたリールではなく、バラバラのコマが一杯つまった袋だと考えればよい。袋の中にはこれから映写されるはずのコマが、一個一個バラバラになって舞っている。その数は無限である。それが未来だ。だから未来においては、これからどのような出来事がどのような順番でスクリーンに映写されるのか分かっていないし、場合によっては決してスクリーンに投影されずに未来でグルグル回っているだけのコマ、というのもありえる。

 では、その未来のコマがスクリーンに投影される順番は、どのようにして決まっていくのかというと、現在、つまりランプで照らされている場所から一刹那前のところに一コマ分の待合室があり、そこに、次の刹那にランプに照らされることになるコマが入るようになっている。つまり、現在という段階の一刹那手前で、次に「現在」となるべきコマが決まってくるということである。

 ではその待合室にどのコマが来るのかを何が決めるのかというと、それは過去に去っていったコマや、今現在スクリーンに映っているコマがもたらす因果関係である。端的に言うなら、過去の私や、今現在の私がどうであるかにより、未来の私が決まっていくということである。

 だからこそ、仏教は宿命論に陥ることなく、「今私が努力することで、未来の自分を高めていくことができる」と主張することが可能なのである。(「仏教の時間論」佐々木閑 近藤寿人編『芸術と脳―絵画と文学、時間と空間の脳科学―』 第一部「脳は時間をどのように記し、理解するか」所収 大阪大学出版会 平成二五年)

話題提供二、堀見末子『堀見末子土木技師―台湾土木の功労者―』(発行者堀見愛子 平成二年七月三一日)

 「寺田は、一八歳でまだ中学四年生のとき私に突然「堀見。恥かしいが今度、結婚することになった。両親が余り勧めるものだから」というた」「寺田は目出度く結婚したものの、嫁さんは、一、二年して肺病に罹り、寺田と別居して種﨑で療養していた。明治二九年九月に五高に入学した寺田と私が同船して熊本に立ったとき、二人は高知の港を出るまで甲板上にいたが、種﨑の浜に茣蓙を敷いて、その上に立った病気の妻君のお夏さんが、手に持ったハンカチーフを打ち振り、甲板上の寺田に別れを告げていた。寺田も、応えて学帽を打ち振った。寺田の眼は、かすかに潤んでいた。その後間もなく、お夏さんは娘一人を残して世を去った。」(「第五高等学校時代」)

寺田寅彦の目指したもの 「物理学生としての私ではないもつと自由な「私」だと思っていただきたい」

 「主体の時間的経験とそして時間において不可逆に進行する事象のあり様を明らかにすることが主要な関心だったことを、寅彦の生涯の仕事は示しているように思われる。物理学における無時間的法則性の理念と時間的経験の価値付けの対置の問題が、寅彦が対峙した<二つの文化>の問題のより深い意味だったと考える」(小宮彰『論文集―寺田寅彦・その他』花書院 平成三〇) 「両者をともに追及して、寅彦自身にとっての「自然」を、より明らかにとらえること、より納得できる表現を与えること」(小宮彰「俳諧と物理学―寺田寅彦2つの世界―」)

参考文献 宇和川匠助『寺田寅彦の連句の世界』(古川書房 昭和五八)、榊原忠彦『寺田寅彦と連句』近代文芸社 平成一五)、『俳句講座』(改造社、昭和七年)、『寺田寅彦全集』(岩波書店 一九九六~一九九八)


https://note.com/kobachou/n/n22319bd60272 【「寅彥と俳諧」 小宮豊隆】より

小林十之助

小林十之助

2025年6月25日 14:18

 寅日子が俳諧を始めたのはいつのことだつたか、精確なことは分からない。『寅彥全集』をあけて見ると、大正十一年(一九二二)一月三十一日の日記に、「客去つて唯眺め居る炭火かな」といふ私の句に、寅日子が「麻布へ拔ける木枯の音」とつけたのがある。あるひはこれが一番早い時期のものかも知れないと思ふ。なんでもこれは寅日子が靑山の私のうちへ訪ねて來たあと、私から寅日子に書いてやつた句で、私の靑山南町のうちは谿一つ隔てて向うに麻布の三聯隊が見える位置にあつた。それだから寅日子は更に第三に自分で「氣になるは軍曹殿の鼻の疣」といふ句をつけてゐるのである。

 それより前私は、阿部次郞、安倍能成、勝峯晉風、和辻哲郎などと一緒に太田水穗が主宰する『潮音』の芭蕉研究會に出席し、俳句だけでは芭蕉は分からない、どうしても俳諧を研究する必要があるといふので、時時向島まで出かけて行つて、幸田露伴先生に俳諧實作の手ほどきをしてもらひつつあつた。寅日子のこの附句から考へると、それは大正十年ごろのことではなかつたかと思ふ。俳諧の實作の面白味を私がしきりに寅日子に述べ立てたので、寅日子が刺激され、それが先づかういふ形になつて現はれたものではないかと思ふ。

 しかし私は大正十二年の初めにドイツに向けて出發することになつた。私は沼波瓊音の『芭蕉全集』を行李の底に入れて出發したが、しかし西洋と日本との間で附句を送り合ふ氣持にもなれず、またそれほどの餘裕もなかつたと見えて、パリで「ラヂオで踊る三階の春」といふ短句を、オランダでは「風車つづきて雲に入る國」といふ短句をつくつたりしたが、それをあるひは寅日子のところへ書いて送つたかも知れない。しかしそのさきをつけてよこしてくれとは、どうも言つてやらなかつたやうである。

 それに長句を附け、また短句を附けて『新三つ物』と題したものが、大正十四年の九月の『澁柿』に載つてゐるが、これは私が日本に歸つて來てからのことで、寅日子が段段熱心に俳諧に牽かれるやうになつたのは、多分私が外遊から歸つたのちのことだつたのだらう。私は大正十三年の十月半ばに日本に歸り、翌大正十四年の四月初めには仙臺に越して行つたが、東京へはよく出て來て、出て來る度に寅日子には會つた。さうして時時俳諧をやつた。

 大正十五年の一月、二月、四月と跨つて『潮音』に寅日子と私との兩吟の『ロンド』が八つ『ディプテュホン』が一つ、『トルソ』といふ名前で一括されて出てゐるのも、多分私の上京を記念するものだつたと思ふ。もつとも附句はなかなか思ふやうには捗らないので、私が仙臺に歸つてからでも、手紙で附句のやりとりをした上で、纏めなければならない場合も屢あつた。

 『トルソ』といふ題は、それに費す時間の關係上、歌仙形式の三十六句で纏めるのが困難だつたので、三句で纏めたり、六句で纏めたり、十句で纏めたり、その時時の氣分次第でいろいろになつたが、結局それは歌仙の斷片にすぎないといふ意味を、洒落れて『トルソ』と名づけたままである。

 『ロンド』といふのは、發句から始めて脇·第三と十句目まで續けて行くうちに、いくらかづつ加減して、その十句目が前句に附くとともに、またうまく第一の發句に附くやうに工夫して附ける、從つて全體が環をなしてぐるぐる廻るやうにと心がけたので、『ロンド』と名づけたのである。

 例ば「夕立にあはれなりける圓太郎」といふ發句に「人待つ宵の濠端の闇」といふ脇をつけ、それに第三·第四と續けて附けて行つて、十句目に「はねしキネマの人を吐き出す」といふ句が來る。これは「あてもなく宿きき廻る小さき町」といふ前句につけた句であるとともに、それが發句の「夕立にあはれなりける圓太郎」にもつくやうになつてゐるといふ類である。

 『ディプテュホン』だの『二枚屏風』もしくは、二二折折』だのといふのも、六句と六句とが對になるやうな仕立方をしたといふことを意味するものに過ぎない。

 大正十五年七月の『澁柿』に載つた『二枚折』、九月の『二つ折』、十二月の『二枚屏風』を見ると、これらはすべて寅日子、東洋城の兩吟で、私は參加してゐない。これはあるひはこの時分から寅日子の俳諧熱が更に昂じて、私の上京まで待つてゐられず、自分の氣の向いた時に、東洋城を相手にどんどん創作を進めていきたくなつた結果なのではないかと思ふ。

 歌仙形式の方面でも、大正十五年には兩吟の形で、隨分たくさんのものが發表されてゐる。句の作りかた、自然なり人事なりの把握のしかた、把握したものを表現する表現のしかた、もしくは前句の受けとりかた、受けとつたものに應じる附け合ひ、さういふ點では寅日子はどつちかと言へば、私と肌が合ひ、東洋城とは合はないところがあつた。

 東洋城には東洋城の主張があり、趣味があり、癖があつて、それがとかく附句の上に强く現はれる。そのため三人でやる場合には、東洋城の附句に對して文句を言ふ場合が多く、文句を言はないまでも、これは困つたなと當惑して、附けあぐねる場合が多かつた。

 それだけ私は寅日子と兩吟をやりたがる傾向があつたし、恐らく寅日子にもさういふ傾向があつたことと思ふ。それでも寅日子は俳諧に熱中し出すと、そんな贅澤は言つてゐず、東洋城相手に兩吟で、しきりに俳諧に耽り始めるのである。

 もつとも寅日子と私とでは、どつちかと言へば肌合が合つてゐるだけに、二人で俳諧をやつてゐると、同じ肌合の句、同じ調子の句が續いて、全體の感じが單調になりがちだつた。そこへ東洋城が入り込んで來ると、いはば不協和音が飛び込んで來ることになるので、それだけ句面に變53化が生れ、寅日子と私とだけでやつてゐるよりも、はるかに面白い卷面にもなりうるのである。

 寅日子は初めはいろんな不平を言つてゐたが、その點で段段に悟りをひらき、好んで東洋城を相手に兩吟を試みるやうになつたのみならず、かりに東洋城がどんなに自分の氣に入らない句を作らうと、決して不平を言つたり、不愉快がつたり、辟易したりしないで、反つて自分の句の力で相手の句を包み込み、相手の句に新しい魂を入れ、卽ち自分の句を活かしつつ、同時に相手の句を活かさうといふ、丁度芭蕉が俳諧で考へてゐたらうと思はれるやうな立場に立つて、俳諧に携はらうとするのである。

 寅日子の附句は初めからうまかつたが、さういふ意味で寅日子の附句は目ざましく進歩して行つた。元來寅彥といふ人は、自分の興味を持つものに對しては、一所縣命それについて勉强するとともに、いち早くその核心をつかんでしまはなければ落ついてゐられないやうなところのあつた人だつた。

 寅日子が俳諧に興味を持ち出してからは、自分で句作するとともに、芭蕉が一座した歌仙を研究し、創作と讀書と雙方によつて動かされる自分自身の內部を精到に檢討して、そこから結論を作り上げつつ、次から次へと俳諧の核心へ迫つて行く用意を怠らなかつた。感じと感じとで不卽不離に繫がつて一步一步前進する蕉門の附合の味を、寅日子ほど微妙に捉へた上で、それがどんなに廣い適用範圍を持ちうるものであるかを、明快に闡明した者は、恐らく外にゐない。

 寅日子の『連句雜爼』は、俳諧の研究者にとつて必ず逸してはならない、第一流の研究である。これは俳諧の學者のみならず、また俳諧の實作者のみならず、あらゆる藝術に携はる者の、是非一度は眼を通さなければならない、重要な研究である。

 『連句雜爼』は、昭和六年三月から昭和六年十二月へかけて『澁柿』に連載された。これは前にも言つたやうに、俳諧の核心を把へた研究であるが、しかも一方ではこれは寅目子が、なぜ自分がこの藝術をこれほど愛好し、なぜ自分がこの藝術の制作にこれほど一所懸命になるかを、きはめて明快且つ適切に、告白し說明したものででもあつた。そこにこの研究の力と美しさとがあるのであるが、同時にこれは寅日子の決然たる「改宗」の宣言であると言つていいものである。

 これを書いてから寅日子は、更に熱心に俳諧を作り始めた。私は俳諧を面白いものであるとは思つてゐても、寅日子の精進にはついてゆけないところがあつた。のみならず私が仙臺から東京に出て來る度に、私はうまいもの屋をあさりあるくことに忙がしいので、目をきめて寅日子や東洋城と俳諧をやらうとしても、寅日子のうちでほつと一息つ寅彥と俳諧くといふやうな恰好になつてしまふので、句作に一向熱心にならず、いつでも雜談をするか晝寢をするかで、たうとう寅日子から愛想をつかされ、君とはもう一緒に排諸はやらないと宣告されてしまつた。

 それはあるひは『連句雜爼』が書かれた、昭和六年前後のことではなかつたかと思ふ。ともかく昭和六年十月の『澁柿』に出てゐる私の『短夜の旅寐なりしが別れかな』に寅日子が「蚊帳の釣手に濱の朝風」とつけた歌仙あたりを境にして、寅日子·東洋城·蓬里雨の三吟は跡を斷つてゐるし、しかもこの發句は多分昭和二三年ごろの句だつたはずだからである。

 昭和十一年十一月の『澁柿』には私の「ほのぼのと明け行く閨の牡丹哉」に寅日子が「溶けて清水と消ゆる齒磨」とつけた未完の歌仙が載つてゐるが、これも恐らく昭和四五年のころ私の作つた句であり、且つ附句の下に記した(多分寅日子の)日附によると、十句目の私の「櫟林に狹くなる道」の下には昭和六年四月十三日とあり、それから八句目の東洋城の「藪からどこへ通ふ足長」の下には、昭和七年四月十三日とある。私の「櫟林」の句から東洋城の「藪からどこへ」まで丁度一年かかつてゐるのである。

 これは外に何か理由があつたからには違ひないが、たとひ理由があつたにもせよ、八句つくるのに一年もかかるとすれば、寅日子でなくてもいいかげんしびれをきらしてしまふはずである。このことを考へると、私は未だに寅日子に惡いといふ氣がしてならない。

 それにしても寅日子の俳諧は、寅日子が『連句雜爼』に書いたことを實際に適用していつただけあつて、晩年ますます冴えたものになつたことは爭はれない。

 芭蕉が凡兆や去來のやうな弟子を持つてゐたやうに、寅日子にもしもつとたくさんの弟子なり友人なりがあつて、それそれ自分の持つてゐるものを十分に發揮しつつ、寅日子の指揮棒の下に管絃樂團を纏め上げるとしたら、きつと新しい見事な交響樂がいくつもできあがつてゐたに違ひないのである。寅日子には、われ笛吹けども汝等踊らずの嘆があつたに違ひない。