幽霊
「多々良さんは知ってます、資料室の幽霊」
目の前の書類の内容を詰めに詰め、一息ついたところを話しかけられた。振り向くと、総務部の同僚が二人、回した椅子でひざを突き合わせている。集中していて耳に入っていなかったが、二人で話していた話題を、見計らって振ってくれたようだった。強張った肩をぐうっと上げ、下げてついた息に乗せて聞く。
「幽霊、出るの?」
「出るっていう噂、結構前からあったらしいんですよ。一番資料室を使う総務の私たちには気を遣ったのか誰も話してくれなかったんですけど」
「気を遣ったっていうか、気まずかっただけだと思いますけどねえ。私らだけ知らないで出入りしてるの、なんか騙されてたって感じ」
「まあまあ、でも、一番使ってる僕らが見てないんだから、いないんでしょ」
それはそうですけど、と言いながら、同僚の二人は不服そうだった。おそらく出るの出ないのということより、噂話ののけ者になったことに引っかかっているのだろう。自分にはその気持ちが分からないが、耳に入ってしまった以上会話が続くのならば仕事に集中するのは難しそうだった。一度パソコンに向いて開いているファイルの上書きをし、再び二人に向き直る。
「どんな噂」
聞くと、大した話じゃないんですけど、と前おいて、交互に捕捉をしながら話してくれた。内容は前置きの通り簡潔で、資料室に男の幽霊が出て、立ち尽くしてじっとこちらを見つめるのだという。廊下を歩いていたら資料室からぼうっと出てきたという話もある。背広を着ているので、この建物で働いていた、過去に死んだ誰かではないか。うちの会社で就業中に亡くなった社員はいないそうなので、入居前の出来事と思われる。
「まあ、関係ない人なら、どうしようもないよね」
そう言って机の上のマグカップを手に取るが、中は空っぽだった。自分のコメントに不満をつのらせる二人を前に、立ち上がるのも気が引ける。もう少し気が利いたことを言えばよかったなと反省していると、二人の言葉がふと途切れて、左腕にぐっと誰かの体が押し付けられた。
「何の話」
語尾を軽く伸ばした声が、自分に向かってきていた空気を引き上げてくれた。花田さん、お疲れ様です、と挨拶をした同僚が、先ほどと同じ話を隣に立った男に繰り返す。その間ずっと体重をかけられていて重い。
「幽霊ねえ」
花田は手に持っていた缶コーヒーを軽く掲げた。見上げると、反対の空いている手が肩やら頭やら頬やらにべたべたと触れてくる。
「実体あるじゃん、生きてるよ」
花田が眼鏡を頬骨で持ち上げるようなにっこりとした笑顔を作って、同僚たちはやだ、そうじゃないですよ、多々良さんじゃないことは分かってますよ、というようなことを口々に言った。言外に共有されている認識に少し胸の中が重くなる。覇気がない、いつも顔色が悪く、ぼんやりとしている、そういう自分が幽霊だとまでは言われないでも、生きていないようだと思われるのはこれまでの人生で既に経験し尽してきた。同僚たちはそれで自分をからかうことはしないけれども、花田だって陥れるつもりで言っていないけれども、その軽口にのってやるほどのサービス精神は培っていない。
「何か用事」
昼休みでもないのに、わざわざ別階の営業部から来たからには暇つぶしではないだろう。花田はああ、とひらめいたような顔になって、やっと顔から手を離してくれた。
「何年か前にさ、海外材の仕入れしたところ。最初に取り交わした契約関係の書類が見たくて」
「それこそ資料室に行けばあると思うけど」
「輸入もんだからって色々付随資料があったらしくて、ちゃんと内容知りたいんだ。似たようなことを新規のとこから要求されそうでさ。総務部課長にご教示いただきたいの」
首から下げている社員証にプリントされた課長の文字が、余計な仕事の受け皿になっていることを思った。と同時に、お願い、と両手を合わせて首を垂れるこの男がいれば、肩書がどうであっても関係ないか、とも思う。パソコンでタスクリストを呼び出して、残りの仕事の算段をつける。
「十六時すぎくらいからなら空いてる」
「オッケー。ありがとう。資料室でね」
来た時と同じ軽い口調で言い置いて、花田は滑るように去っていった。同僚のお喋りも解散していて、飲み物を取りに行こうかとマグカップを視線で探すと、机の端に缶コーヒーが置かれていた。花田が礼にと置いていったのだろうか。あまり好んで飲まないが、残していても仕方がない。口を開けて飲んでみると、じっとりとした甘みが口の隅々まで張り付いて、喉の奥にも絡みついた。
十六時に資料室のドアを開けると、もう目当ての書類を揃えた花田が簡易机の前に立っていた。挨拶代わりにひょいと眉を上げる花田にコーヒーのお礼を言うと、好きじゃなかっただろ、と笑顔で言われる。ならどうして渡したんだと思うのを口には出さず、書類の一つ一つを検めて、当時の記憶とメールの履歴から内容の必要性と根拠を解説していく。たまたま補佐で参加していた案件でよかった。花田はまじめに、真顔さえどこか軽妙な雰囲気があるのでどこまでか分からないが、まじめそうに自分の説明を聞き、持ち込んでいた付箋紙にメモをして適宜貼り付けていった。
何個かの質問と答えをやり取りして、あとは資料をコピーするのみとなった。資料室に置かれたコピー機は古い型で読み取りも印刷もやや遅く、契約書のページ数から少し持て余すほどの時間がかかることがうかがえた。自分の机に戻ろうかとも思ったが、どうせ定時まで何時間もあるじゃなし、休憩がてら花田に付き合って残ることにした。コピー機の蓋を上げ下げしながら、花田は置いていかれなかったのに気をよくしたのか、ふふ、と短く笑って、それから静かになった。
順番待ちをする資料の一つを手に取って、書かれている文面を目でなぞる。体裁のしかつめらしい書類はそれだけで目がすべってしまう。書類関係を丸投げしてくる他部署の人間には文句の一つも言いたくなるが、丸投げしたくなる気持ちもまあ分かる。そんなことを考えていると、隣に立つ花田の靴がずれて、自分の靴にぴたりとくっついた。重心も片寄せられ、足から腰までが触れてくる。
花田は静かなままだった。
だから、横を向いてその顔を確認しただけで、何も言葉をかけなかった。
蛍光灯に白々しく照らされた、脱力した肌の色が、瞼に残る。
花田が総務部にやってくるときも、社内の別の場所で見かけるときも、たまたま駅からの道で会った時も、こんなにも虚ろで、空っぽな顔をしていることはない。いつだって大抵笑顔で、腹を立てても疲れていても、何か失敗した時も、どこか人を笑わせにかかるような軽い表情をしている。口数も常に人より多い。花田さんがいると何となく空気が明るいですよね、との同僚の評は、どこに行っても同じものを聞く。
二人でいると、時々、花田は人間でいるのをやめてしまう。
奇行をするのではない、ただ表情とか、言葉とか、情動的な動きを放棄して、そこにあるだけのものになる。一番最初は何か発作かと思って問いただした。戻りかけた花田が、空の花瓶に残った水滴のような薄い笑顔で、楽なの、ゆるして、と言った。許した。
別に普段の振る舞いが無理をしているのではないという。無理と我慢のしわ寄せではなくて、例えば月に一度少し高級な店で飲み食いするとか、少し遠出をしていい景色を見るとか、そういうような息抜きとして空っぽになることが必要なのだと。
家でもそうなの、と聞いたら、家でやると止め時がなくて、そのまま何にもできなくなりそうだからしない、と答えた。多々良が近くにいると、安心して出せる。とも言った。おねがい、ゆるして、と言った。許した。
許すというほどのことでもない。隙間を縫うような時間で空っぽになられたとて、自分になんの困りごともない。簡易机に腰掛け、熱くもない花田の体温を移されながら、ただじっとコピーが終わるのを待っているだけ。あるとすれば、と扉に目を向けると、ちょうどその時外側から開かれた。
顔を出したのは営業部の花田とは違う課の社員だった。部下を探しているようだが、見ていない、と率先して答えると、横で花田がくるりと振り向いて、さっき部長に引っ張られてたから、部長の予定表で分かるかもです、と笑顔で言ってあげた。社員は困ったなと言いながら、お礼を言って扉を閉めた。
「もうすぐ終わる。多々良ありがとね」
そのありがとうは、仕事の手伝いをしたことへの感謝だろうと受け取れた。
資料を棚に戻すのを手伝い、一掴みの紙束を掴んだ花田と忘れ物がないか見回して、資料室を出る。
「幽霊って」
そのまま総務部へ戻る自分と、階段へ向かう花田とで道別れになる寸前、花田は言った。
「俺かな」
「どうだろうね」
空っぽになっているときの花田を、例えば夜遅くの残業中、薄暗いオフィスなんかで見たときには、幽霊かと見紛うこともあるかもしれない。しかしすべては単なる噂だ。元を辿ったってアシがあるとも思えない。各々の仕事に戻り、自分は定時で帰った。
翌日の昼休みにも、花田は総務部へ来た。今度は何の用事もなく、ただ世間話をしにだ。弁当を広げる同僚たちに、昨日資料室行ったよ、とわざわざ話を振っている。見ましたか、と、七不思議にでも触れるように笑いを含んで同僚が聞く。
「見てない。もうさ、誰かに取り憑いて、出てったんじゃない」
両肩に手が乗せられて、頭の上に顎が乗っかる感触がした。丁度飲み物を飲もうとしていたところだったので、危ない、と咎めると、いひひとお化けのように花田は笑った。まだなにか明るく話をする声を、食後の眠気の遠くに聞き流していると、肩を掴む手の、指先にほんの少しだけ力が入って、すぐに緩んだ。ため息が出た。いちいち答えない。どうせ、許している。