Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

花柘榴零れし音の留まれる 五島高資 — 場所: 下野薬師寺跡

2025.07.10 05:48

https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20150711 【花柘榴雨きらきらと地を濡らさず 大野林火】より

柘榴の花の赤は他のどの花にもない不思議な色だ。近所に、さほど大きくない柘榴の木が門のすぐ脇に植えられている家がある。今年も筒状の小さい花が、ことさら主張することなくそちこち向きつつ葉陰に咲いていたが、自ずと光って通りがかりの人の目を引いていた。その光る赤を表現したい、と思ったことは何度もあるのだが今ひとつもやもやしたまま過ごしていた時この句を知った。細かい雨の中、柘榴の花が咲いている。きらきら、は柘榴の花そのものが放つ光の色であり、雨は光を溜めて静かに花を包んでいる。その抒情を、地を濡らさず、という言い切った表現が際立たせており、作者の深く観る力に感じ入る。『季寄せ 草木花 夏』(1981・朝日新聞社)所載。(今井肖子)


http://poetsohya.blog81.fc2.com/blog-entry-1294.html 【梅雨空にくれなゐ燃ゆる花ありて風が点せる石榴と知りぬ・・・・・・・・・・・・・・木村草弥】より

    梅雨空にくれなゐ燃ゆる花ありて

        風が点(とも)せる石榴(ざくろ)と知りぬ・・・・・・・・木村草弥

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。

ザクロは3メートルほどの高さになる落葉樹で、細長い艶のある葉が対生している。梅雨の頃に赤橙色の六弁の花が咲く。肉の厚い筒型の赤い萼がある。

写真②が落花である。先に書いたように厚い筒型のガクであるのがお分かりいただける。

八重咲きや白、薄紅、紅絞りなど色々あるらしい。

中国から古くに渡来してきたもので、花卉として育てられてきたが、原産地はペルシアだという。梅雨の頃に咲く印象的な美しい花である。

ザクロと言えば、花よりも「実」が知られているが、実は徳川時代から食べるようになったという。ザクロは種が多いことから、アジアでは子孫繁栄、豊穣のシンボルとされてきた。

実を煎じた汁でうがいをすると扁桃腺炎にいいと言われる。

写真③④がザクロの実である。この中には朱色の外種皮に包まれた種がぎっしりと入っている。

種は小さく外種皮を齧るように食べるのだが、甘酸っぱい果汁を含んだものである。果皮は薬用になる。

実が熟してくると実の口が裂けて種が露出するようになる。実が熟するのは8、9月の頃である。以下、歳時記に載る石榴の花を詠んだ句を引いて終わる。花は夏の季語だが、実は秋の季語である。

 花柘榴また黒揚羽放ち居し・・・・・・・・中村汀女

 花柘榴病顔佳しと言はれをり・・・・・・・・村山古郷

 ざくろ咲き織る深窓を裏におく・・・・・・・・平畑静塔

 妻の筆ますらをぶりや花柘榴・・・・・・・・沢木欣一

 花柘榴の花の点鐘恵山寺・・・・・・・・金子兜太

 深爪を剪りし疼きや花石榴・・・・・・・・鈴木真砂女

 掃いてきて石榴の花が目の前に・・・・・・・・波多野爽波

 花石榴階洗はれて鬼子母神・・・・・・・・松崎鉄之介

 花石榴子を生さで愛づ般若面・・・・・・・・鍵和田柚子

 妻の居ぬ一日永し花石榴・・・・・・・・辻田克己

 黄檗の寺の駄犬や花ざくろ・・・・・・・・阿片瓢郎


https://robertcampbell.jp/blog/2017/10/post-51/ 【零れものをひとつひとつ 丁寧に拾っていけば】より

 刃こぼれという言葉が好きである。包丁が硬いものに当たって欠け落ちてしまうこと。むかし、近所の小料理屋で大将が若い弟子に『こぼれちまったよ」、と力無げに呟くのを耳にしたことがある。わたくしも、ときどき魚をさばく時にやらかしてしまう。角度を間違え、ガツンと太い骨に当たる。音だけ聞くと、冷たく鍛えられた刀のエッジが一瞬に液体に変わり、勢いよく四方に飛び散るイメージを抱く。ぽたぽたこぼれる、というのではなく大胆にバシャッと飛散する。

 刃こぼれの「こぼれ」は漢字で書くと「毀れ」になる。その親戚に、もう一個の「零れ」というのがあって、これはゆるい液体が電車の網棚から頭上にぽたぽた落ちてくる、というような感覚だろうか。容器の内側に収まりきらずに外にあふれてしまう。いい例は涙である。「源氏物語」の昔でも「忍ぶれど涙こぼれぬれば……」というふうに、内部に溜めておいたものが抑えきれずにぽろりと頬を伝って袖を濡らす、というのが古い文学の定番「零れもの」である(「帚木」)。単なるドリップではない。英語のドリップコーヒーが「零れコーヒー」にならないのも、日本語でいうところの「零れ」は容器の存在が前提になっていて、その容器がいっぱいにならないと「余り」が滴ってこないという条件が暗黙のうちにできているからだ。

 刃こぼれの次に好きな日本語は「零れ幸い」。辞書を引くと「その身に得る道理や資格がないのに、何かの余徳で受けることのできた利得」。「資格がないのに」とは厳しいお言葉。まさか「棚からぼた餅」が一個ドスンと頭上に落ちてくるわけでもあるまいし、むしろ予期せぬちょっとした喜びを得ることをいうのである。

 そう考えるといろんな零れものがある。ひとつひとつを丁寧に拾っていけば、日本文化の新しい風にひょっとして触れられるのかもしれない。今思い出したのは「零れ梅」という言い回し。ひらひらと散り落ちる梅の花。そこから、梅を図案化した着物の模様や、さらに白い粒に固めた味醂の搾り粕でつくったお菓子の名前。まさに「零れ梅」にふさわしい。一方、風に靡く性格からもうひとつ、幕末の、お客と逢瀬を重ねる芸妓のことを「零れ梅」とあだ名をつけたのもある。奥が深い。

 他の言語と比べ、日本語にはたくさんの語彙が取り揃っているとよく言われる。たしかに英語より多い気はする。また逆に、ひとつの言葉に途轍もなく遠く離れた場所で使われるそれぞれの意味のバラエティが豊富で、私はいつも日本語で話しながら、小旅行にでも出かけている気分になる。

 せっかくの零れものを上手く受け取りたい。上からこぼれている間に見逃さずにキャッチすることが肝心である。そもそも「容器」がいっぱいかどうかの見極めも、難しいけれど、大事なことだろう。ぽたぽたと頭上に落ちてくるものが素晴らしく豊かな場合もあるから、それを誰にどうやってお裾分けすればよいかなどについて、もう少し考えてみようかな、と思う。

「零れもの三昧」は『東京ミッドタウンスタイル』に掲載されている連載エッセイです。