ローマの「歴史」とラーウィーニア
『アエネーイス』におけるラーウィーニアの人物造型についてリサーチを進めているが、今日は、Crescenzo Formiculaという研究者による、'Dark Visibility: Lavinia in the Aeneid'という論文(詳細は下の【参考文献】欄を参照)を読んだ。以下は簡単な備忘録。
ラーウィーニアのことを論じるにあたり、これまで多くの研究者が、第12歌の開始部近くで描かれる彼女の「赤面」(これについては、すでに2018.12.22および2019.2.8の記事で取り上げているので、詳細についてはそれらの記事を参照されたい)にスポットライトを当ててきたわけだが、Formiculaの考察対象もこれとまったく同じである。すでに手垢にまみれたこの問題にかんし、Formiculaは、先人たちの見解に共通する要素として、ラーウィーニアの「赤面」が彼女の「心の中の不安定さ(interior restlessness)」を示す、ということに注目する(p. 90)。たとえば、「ラーウィーニアはトゥルヌスに恋をしている」とLyneは主張し、また、「ラーウィーニアは自分にたいするトゥルヌスの恋心を感じとっている」とPutnamは主張するわけだが、いずれにせよラーウィーニアの心が不安定な状態にあるのは間違いない、というわけだ。
Formiculaの議論で面白いのは、ラーウィーニアの「不安定さ」の原因を、彼女自身では絶対に自覚できない、大文字の「歴史(History)」(p. 92)の動きに求めている、という点だ。彼女は、「現在に属しているのではなく」「未来に向かって投げられている(the projection into the future)」(p. 92)存在なのだとFormiculaは主張する。ラーウィーニアが重要なのは、彼女が「未来において」ローマの建国者アエネーアースの妻となるからなのだ。この意味で、彼女は「(ローマの)歴史」を構成するきわめて重要なピースとされているわけだが、そのような彼女の運命が具体的に描かれるわけではない『アエネーイス』というテクストの内部においては、彼女は、状況が把握できないため、まごつくほかなくなる。そして心は当然「不安定」になるのである。Formiculaにいわせれば、「彼女はさしあたり[=『アエネーイス』というテクストの内部では(筆者注)]涙を流し、理解しがたいかたちで顔を赤らめるしかない」(p. 92)というわけだ。
おまけ。Formiculaは、『アエネーイス』の外側にある「歴史」の重みに苦しめられる人物としてラーウィーニアをとらえるわけだが、ここで思い出さずにいられないのは、アーシュラ・K・ル=グウィンが『ラーウィーニア』で描くラーウィーニアだ。この大作家が描くラーウィーニアは、いうならば、「時間」の概念をもたない存在で、過去・現在・未来を自由に行き来する(これこそが『ラーウィーニア』の面白さでもあり、また難しさでもある)。ル=グウィンは、ラーウィーニアを『アエネーイス』というテクストの牢獄から解放し、「歴史」全体を鳥瞰する神的存在へと変貌させているのだ。このあたり、ル=グウィンは本当に『アエネーイス』がよく読めていると思う。
【参考文献】
Crescenzo Formicula, 'Dark Visibility: Lavinia in the Aeneid', Vergilius 52 (2006), 76-95.