感性の道
Facebook長岡 美妃さん投稿記事
東洋は感性の道を歩み、西洋は知の道を歩んだ。
この地球にある東西2つの対称性は、各々が別のルートで山の頂点を目指した。
山の頂点とは言わずもがな、現人間の究極のゴールである「人間とは何ものなのか?」「現実とは何か?」の問いに対する答えである。
現人間の営みはすべてその一点に収斂されていく。日常の寝ること食べること歩くこと話すことに始まり、学ぶこと研究すること、また戦争ですら、すべてが究極のゴールへの道である。
東洋西洋はその道をそれぞれの得意とする方向から目指してきた。天才数学者岡潔の言葉を引用すれば、脳の構造の違いである。東洋とくに日本は直観を通して演繹的に世界を認識するのを得意とし、西洋は論理で帰納法的に世界を認識するのを得意とする。その両者にはそれぞれにメリットとデメリットがあるが、それも恐らくは東西の融合することで止揚させるための仕組みなのだろう。
東洋の直観の悟りは、人間の認識を「無」に至らせる。しかし「無」は不立文字であるために伝達が難しい。
それに比し、西洋の知はどこまでもどこまでも執拗に森羅万象の始まりの「点」を探しにいく。しかしどこまで世界を細かくしても最小単位の「点」に到達できず、決して「無」には至れない。
この両者の融合、それこそが新しい文明の扉を開ける鍵となる。そしてその鍵とは、「間」・・・日本が新しい文明を牽引していく理由は、日本は「間」の文化文明だからである。そして日本で生まれた認識技術nTechは「間」を繋ぐ。つまり東洋と西洋の弱点を繋ぎ合わせ、人間を究極の知「無知の完全性」に至らせる。
人間が究極の知に到達し得たならばどうなるのか?・・・それは認識の幅がどんどん拡張していくのである。
例えば、180°の範囲しか見えなかった世界が、270°の範囲が観えるようになる。更には360°が観えるようになる。、、、そして最終的に、全部が観えて全部が無いという認識に至る。(東洋は直観で全部が無いに至るが、西洋の知は180°から360°に至らしめる道程を精密に歩ませる。)
そうすると、比較をやめようとするのではなく、比較不可能な場所に立つ。
敵味方を分けないのではなく、分ける必要がなくなる場所に立つ。
誰の中にも同じ源を見るとき、国籍も性別も思想も、私たちを分けてきた線は幻だったとわかる。
究極の知は、人間を力むことなく愛そのものに至らせる。
Facebook森井 啓二さん投稿記事
鄙びた温泉に行ってきました。温泉は最高の泉質で、建物内に異なる源泉(緑色、白色、茶色)が三つもあり、どれも源泉かけ流し。とっても大好きな温泉です。
「雅(みやび」」とは優雅で上品なこと「鄙(ひなび)」とは質素で素朴なこと
日本人はこの「雅」と「鄙」を分け隔てることなく、双方を重んじた文化を築き上げてきました。外見上で劣っているかのように見えるものにも、素晴らしい長所を見出すことが出来るのが日本人の美意識。「雅」と「鄙」を両方とも尊重する価値観は、心の静寂と幸せに繋がります。ここは宣伝応援したいなと思いましたが、撮影許可を得てないので、名前は出せず、写真だけ。
https://note.com/kgraph_/n/nbccb3ef97eb3 【【日本美学4】鈴木大拙が教えてくれる「直感」と「無心」―日本美と現代社会をつなぐ禅の力ー】より
1. 導入
私たちが日常生活で何気なく耳にする「禅」「マインドフルネス」「ミニマリズム」といった言葉。その背景には、一瞬一瞬の現実を直観的に捉え、煩悩や雑念を取り払う“無心”の境地を追求してきた禅(Zen)の深遠な世界観が存在します。そのエッセンスを20世紀に世界へ広めた人物が、仏教学者・哲学者である鈴木大拙(D.T. Suzuki)です。彼は禅の核心を「直感」と「無心」にあるとし、この境地が日本文化の美意識にも決定的な影響を与えたと説きました。
本記事では、鈴木大拙が示した禅哲学の要点をもとに、日本の伝統文化に根づく美意識とそこに込められた“禅の知恵”を探ります。さらに、それを現代のビジネス・芸術・ライフスタイル・教育へどう応用できるのか、具体的に検討していきます。専門家が読んでも納得できる正確さを保ちつつ、一般の読者にも分かりやすい言葉を用いてまとめました。禅がもたらす“直感”と“無心”のパワーが、複雑な時代を生きる私たちの創造性や心の豊かさをどう引き出してくれるのか――その鍵をぜひご一緒に探っていきましょう。
2-1. 鈴木大拙の思想:直感と無心の禅哲学
直感の重視
鈴木大拙は「悟り」とは論理的思考ではなく、直接的・直感的に得られるものだと考えました。彼は「一瞬一瞬の現実を直観的に認識することこそ最高の智慧の行為である」と述べ【1】、頭で理屈をこねるよりも、現実の瞬間をありのままに感じ取る“直感”を重んじたのです。たとえば日常の些細な行為(手を挙げる、本を取る、窓の外の雲を見るなど)でも、説明抜きに生命の躍動を感じ取ることがZen(禅)であり、言葉や説明を超えて体験されるものだと説いています。「直感」(あるいは直観)は鈴木の禅観において核心であり、論理的分析を超えた直接体験によって真理に近づけるとしました。
無心の境地
さらに鈴木大拙は、禅修行によって得られる「無心」の境地を非常に重要視しました。無心とは文字通り「心が無い」状態ですが、何も感じないわけではありません。自己への執着や雑念が取り払われた心境を指し、禅で言う「身心脱落(しんじんだつらく)」、つまり主体と客体の二元対立を超えた“自我忘却”の状態です【2】。武道や坐禅を通じてエゴ(我執)を静めることで、この「無心」に至り、そこから悟りへ通じる――鈴木はそう説きました。無心のとき、人は物事をありのままに捉え、計算や打算なしに即座の対応が可能になります。それはまるで水がどんな器にも自在に流れ込むように、柔軟でとらわれのない心持ちと言えます。鈴木はこの「無心」が一種の創造的直観の働きでもあると捉えており、思考の媒介を経ず真実を表現できる「純粋経験」を実現すると述べています【3】。
2-2. 禅の直感・無心が日本の美意識に与えた影響
鈴木大拙によると、禅が重んじる簡素さや自己の無化(エゴの削ぎ落とし)は、日本文化のあらゆる美意識に通底しています【4】。ここでは特に「簡素さ」・「自発的な抽象表現」・「余白の美」の三点から、その影響を見ていきましょう。
簡素さと自己の無化
禅が強調する「原初的な簡素さ」と「自己の無私(エゴを捨てること)」は、日本独特の美学を形成したと鈴木は指摘します【5】。茶道における侘(わ)び茶、墨一色で描く水墨画、枯山水の庭園など、室町時代を中心に広まった禅的芸術は装飾を極限まで削ぎ落とし、静寂や質素の中に深い趣を見出しました。こうした“引き算の美学”は、世界的にも日本文化を特徴づける要素として知られています。
自発性・抽象性(「藝道」における無心)
鈴木によれば、禅がもたらす“無心”は芸術にも大きな自由を与えました【6】。たとえば書道や墨絵で、一度紙に筆を下ろしたらためらいや書き直しができません。そこでは雑念を捨てた一気呵成の筆運びが“偶然の妙”を生み出し、結果として独特の抽象的表現が生まれます。意図や計算を超えた自然発生的な筆の勢いが作品に味わいを与え、まさに**「無技巧の技巧(art of the artless)」**となるのです【7】。
「空(くう)」と余白の美
禅が重視する「空(emptiness)」は、一見“何もない”ように思われますが、実は「無限の可能性の貯蔵庫」であると鈴木は述べました【8】。この“空”の概念は日本美術における余白の美や“間(ま)”の感覚に通じます。墨絵の大きな余白に霧や空間を読み取ったり、茶室の最小限の調度に豊かな広がりを感じるのは、禅的な“空”を積極的に取り込んでいる例と言えます。こうした余白を活かす発想は、描き込みを重視する西洋絵画とは対照的で、日本独自の「余白にも意味がある」感性を育んだのです【9】。
2-3. 現代への応用:禅の美学と知恵を生かす具体策
鈴木大拙の示した禅思想と、それが基盤となってきた日本の美意識は、現代社会のさまざまな領域にも新しい価値を提供し得ます。以下、ビジネス、芸術デザイン、ライフスタイル、教育の四つの視点から具体的な応用策を探ってみましょう。
2-3-1. ビジネスにおける応用:禅的経営と思考法
• シンプルさによる革新
複雑な課題に対して本質を見極め、不要な要素を削ぎ落として解決策を打ち立てる“禅的”アプローチは、製品開発やサービスのデザインにおいても有効です。アップル社の故スティーブ・ジョブズが禅に傾倒し、「焦点と簡素さこそ真の洗練」と語った逸話【10】は有名で、同社製品に見られるミニマルデザインの背景には禅の美意識が根付いていると言われています。
• 無心のリーダーシップ
経営者やチームリーダーにとって、一度心を静めて周囲を客観的に見つめ直す「無心」の習慣は、判断力やコミュニケーション力を高める鍵となります。米グーグル社などで行われているマインドフルネス研修【11】は、社員の創造性や回復力(レジリエンス)向上に成果を上げていると言います。わずか1分でも会議前に静かに呼吸を整える時間を設けるだけで、議論の質が高まる例も多く報告されています。
• 企業文化への組み込み
組織全体で“禅的”視点を共有するには、たとえばオフィス内に瞑想ルームを設けたり、定期的に「止観」(いったん立ち止まり、現在のプロジェクトを見直す)を行うタイミングを制度化したりする方法があります。これはリーン(Lean)手法と似ていますが、「効率性」だけでなく“心のゆとり”や創造的余白をもたらす効果が期待できます。人間性と生産性の両立を目指す新しい経営スタイルとして、近年注目が高まっています。
2-3-2. 芸術・デザインへの応用:Zen美学による創造性向上
• ミニマルデザインと空間美
日本発の禅的ミニマリズムや“Japandi”と呼ばれる北欧デザインとの融合スタイルは、世界的に支持を得ています【12】。侘び寂びの哲学を背景にした安藤忠雄氏や隈研吾氏の建築、あるいは無印良品の製品デザインのように、不要な装飾を省いて素材そのものの美しさを引き立てる考え方は、多くの人に“落ち着き”や“静謐”をもたらします。鈴木大拙が説いた「空の可能性」というビジョン【13】は、現代のクリエイターたちの着想源になり続けています。
• スピリチュアルな創作プロセス
禅の“無心”や“直感”は、制作そのもののプロセスを変革します。たとえばアメリカの現代音楽家ジョン・ケージは、鈴木大拙の講義に影響を受け「4分33秒」という“無音の曲”を生み出しました。書道家が大勢の観客の前で一気呵成に書を披露するライブアートも、舞台袖で瞑想し“フロー状態”に入ってから筆を下ろすことで、偶然の妙を受け入れます【14】。こうした創作姿勢は、スポーツやプログラミングなど他分野にも共通する“無心から生まれる飛躍”として注目されています。
• 鑑賞者の体験
禅的ミニマルアートの余白や静寂は、鑑賞者にも深い内省や感動の機会をもたらします。デジタル社会で情報が溢れる今だからこそ、静かな展示空間やシンプルなデザインによって、逆に強く印象づける効果が期待できます。美術教育やデザイン思考の場面でも「まず静まり、頭をリセットする」ブレインストーミング法が取り入れられ、子どもたちが大胆な発想を発揮する例が報告されています【15】。
2-3-3. ライフスタイルへの応用:心の豊かさとシンプルライフ
• マインドフルネスと心の健康
禅の代表的な実践である瞑想や呼吸法は、ストレスマネジメントやメンタルヘルスの改善策として科学的にも注目されています【16】。鈴木大拙が語る「無心」は高度な悟りの境地のように思われるかもしれませんが、実際には「何も考えない時間」を日常に少しずつ取り入れるだけでも効果を得られると言われます。アップルのジョブズも「ただ座って心を観察すれば、やがて直観が花開く」と語ったように【17】、“今・ここ”に集中する時間は幸福感や対人関係の質を高める一助となります。
• ミニマルライフと物質との関係
近年の“ミニマリスト”ブームや“こんまり流片付け術”、断捨離などに見られる「本当に大切なものだけ残す」という発想は、禅的な“引き算の美学”とつながっています。装飾を抑えた禅寺の伽藍や茶室のように、最小限のものだけがある空間はかえって精神的な安定をもたらすのです。無印良品が体現するシンプルなデザイン理念も、禅の思想を背景にした“必要最低限の豊かさ”をコンセプトに掲げています【18】。
• 日常動作の禅化
瞑想や片付けに限らず、日常の些細な動作を“禅の稽古”に変えることも可能です。朝のコーヒーをゆっくり味わいながら香りや温度に集中する、一歩一歩の足裏感覚を意識しながら通勤路を歩く――こうした“小さなマインドフルネス”が心のリセットに役立ちます【19】。料理をしているとき、野菜を切る音や香りに丁寧に気づいてみるのも同様です。鈴木大拙が説いた禅の心は、ただ座禅をするだけでなく、暮らしのあらゆる瞬間に取り入れられます。
2-3-4. 教育への応用:静けさと直観を育む学び
• 教室でのマインドフルネス
アメリカの一部の学校では、毎朝数分の瞑想や「禅タングル」と呼ばれる描画法を取り入れ、子どもたちのストレスを軽減し集中力を高める試みが成功しています【20】。日本の学校でも、朝の会で1分間の黙想をする、授業前に深呼吸してから始めるなど、禅的な「調息(呼吸を整える)」の概念を応用する教師が増えています。その結果、落ち着きと集中が高まり学習効率が上がると報告されています【21】。
• 創造性と直感の育成
詰め込み教育から主体的な学びへ転換しつつある現在、禅的な直感力を育てる試みは注目に値します。たとえば美術や音楽の授業で「正解のないお題」を出し、それぞれの感性や直観で表現させる、評価を急がない――これは禅の公案に取り組むような姿勢です。静かに座る体験や茶道体験をカリキュラムに取り入れる動きもあり、子どもたちが“自分の内面と対話する時間”を通じて情緒の安定や共感力を培う効果が期待されています。【22】また、高校や大学レベルでは鈴木大拙の著作をテキストに哲学的ディスカッションを行うことで、東洋思想と自国の文化に対する理解が深まり、多角的なものの見方や倫理観の養成にもつながるでしょう。
3. まとめ
1. 鈴木大拙の禅哲学:直感と無心
• 悟りは論理ではなく、瞬間の現実を“直感”で捉えることで得られる。
• “無心”は自己や雑念の執着を離れた境地で、創造や瞬時の対応を可能にする。
2. 日本の伝統美とのつながり
• 禅の核心思想が、茶道・水墨画・枯山水などの“簡素”と“空”を重んじる日本美に深く影響を与えた。
• 自由闊達な表現や余白の美学など、禅的要素が随所に見られる。
3. 現代社会への応用
• ビジネス:シンプル思考、無心のリーダーシップ、企業文化としての禅ルームなど。
• 芸術・デザイン:ミニマルアートや空間演出、フロー状態での創作プロセス。
• ライフスタイル:マインドフルネス瞑想、ミニマリズム、日常動作の“禅化”。
• 教育:教室での呼吸法や黙想の導入、創造性を育む“正解のない問い”。
こうした禅のエッセンスと日本美の融合は、私たち一人ひとりの生活や仕事に「シンプルかつ深い豊かさ」をもたらす可能性を秘めています。今後の行動として、まずは自分の暮らしや仕事の中で「何かを削ぎ落として本質に集中する」「一瞬一瞬を直感的に味わう」など、手軽な一歩から取り入れてみることをおすすめします。
Facebook田中 宏明さん投稿記事
エゴというのはどこにでも入り込んで来ます^ ^そういう意味では怒りや憎しみや嫉妬といった負の感情というのはそれがエゴだとすぐにわかるので捉えやすいとも言えます
ではこの世界で一番捉えにくいエゴというのは何でしょうか?それは正義感です^ ^
例えば相手のためを思って自分を犠牲にしてまで尽くす人がいたとしたら誰が見てもそれは「美しい」人間の現れに見えます
もし仮にそれにケチや注釈をつけようものならまぁ、一斉に批判を受けることでしょう^ ^
確かにこの世界にはあまりにも「美しい」瞬間が少ないのも事実です
人々はいつも争いや批判を繰り返して終わることのないストレスの中を生きているように見えます だからこそたまに垣間見える自他を超えた人間の行為というのはとても貴重なものに感じます^ ^
でもこれは僕のただの個人的な感覚ですが本当に美しいものは正義感ではなく 例えばそれは戦場に咲いている一輪の花のようなものです
カオスの中にあってカオスに染まっていないその美しさのなかにエゴから遠く離れた美しさと自由を見る者に感じさせてくれます 正義の別名は分断です それが調和をもたらすことはありません
いつも言っていますが 僕がもしこの世界の支配者なら どんな形であれ「分断」を創り出すことが出来ればそれで十分です
自らが手を下さずとも怖れや不安にとらわれた 民衆が勝手に争い合ってくれるからです
そうすれば 武器が売れます 薬剤が売れます 自分の自由な値段で食糧やエネルギーを
売ることが出来ます^ ^ただ民衆の一人一人が自分と調和し自分の暮らしに満足し周りにいる人たちと質素でも豊かに暮らすことを始めたなら民衆が分断に巻き込まれないようになったら
もはや支配者にはどうしようもありません^ ^
一人のただの無力な人間に戻るよりありません花が咲き誇る美しい場所で誰も戦争を始めることは出来ないのです そこではみんな歌い、踊り笑っています
そしてそれがあらゆる支配的な力を消し去る唯一の方法だと僕自身は思っています^ ^
この星に住む人々が自らの内側の光と共にあれますように僕が瞑想を始める前にいつも唱える小さな祈りです😊では皆さまも素敵な夏の一日を✨ワハハ🌈らぶ💓
いつだか何かのショート動画でもうお亡くなりになったスパルタスクールで有名な人がこう言っておられたのを聞きました「叱られなかった子はどうしようもないんだよ」「どうしてですか?」「当たり前だ!その子たちには罪の意識が全くないんだよ!」それを聞いた時
思わず吹き出してしまいましたそうかー、本気でそう信じている大人がいて影響力を持つことがあるんだなぁと^ ^僕自身の感覚で言えばその子たちは「叱られなかった」のではなく
「愛されていなかった」のではないでしょうか?
人と365日一緒にいるという事はそれはつまり喜怒哀楽を共にするということです^ ^
そのどれが欠けても人は健全に育つことは無いように思います
僕は普段息子を怒鳴ることはありませんが 彼が誰かを傷つけたり雑に扱ったと感じた時だけは 真剣に彼と向き合います^ ^「今みたいな感じは父ちゃんはいややねん」そんな時は
一切の遠慮なく怒るというより真剣に伝えます^ ^ただ普段の父ちゃんではない父ちゃんに動揺しますわな^ ^だから、その後は何も言わないし僕を叩こうが反抗しようが 息子の好きなようにすればいいと思って 何も言わずに動揺している彼と共にいるようにしています
それは別に「息子のため」ではなく自分のためにただ自分の想いを真剣に伝えるだけです
それで伝わらなければそれでいいし何かを感じたならそれはそれでいい^ ^
ただ、一つの命として対等に向き合う事が僕にとっての彼への最大の敬意であり 何よりも自分への敬意だと思っています 子どもを叱れない親御さんというのは 叱らないことがいいと思って いるのではなく 実は深いところで本当の関わりを避けている のかもしれません
逆に何から何まで 叱ったり注意する 親御さんも同じです
威圧的に 抑圧することで 子どもとの面倒な関わりを さける事が出来るかもしれません
でもね^ ^ その根っこにあるのは本当は自分自身との関係性なんです
小さな頃を 思い出してみてください あなたが好きだった大人はどんな人でしたか?
それはきっと あなたと一緒の時間を 共にしてくれた人ではないですか?^ ^
遊ぶにしろ 叱るにしろ ボーっとするにしろ あなたがご機嫌な時も 不機嫌な時も
あなたという「存在」としっかりと共にいてくれた人ではなかったでしょうか?
それが僕にとっての「愛」です あなたは今あなた自身としっかりと共にいてあげていますか?^ ^明日の事や やるべきこと こうあるべき自分 とずっと一緒にいて 今のあなたを
今の気持ちを 忘れていませんか?^ ^
あなたがあなた自身に しっかりと寄り添って あげることが出来たら 目の前の相手に
対しても同じようにいられます 子どもであれ パートナーであれ友人であれ
全てはあなたの「今」の気持ちを教えてくれる大切な写し鏡だからです
教育という言葉は 少し冷たく感じますなぜなら人はあらゆる命と共に学び成長して行くからですだからこれからは何のヒネリも無く恐縮ですが「共育」と呼びたい^ ^
そんな愛を生きていきましょう😊もう少しだけ自分に優しく生きましょうそれが全ての
起点なのですから^ ^ワハハ🌈らぶ💓