数と俳句
https://sectpoclit.com/hajime-5/ 【数と俳句(一) 小滝肇】より
「私、数学きらいです。」
穏やかな店の佇まいの中、カウンターのちょっと離れた辺りから、「そうですか」としか返しようのないパンチが飛んでくる。するとその逆方向からも、「私も数学苦手です。」と参戦する声が。お店の方が、筆者が大学の建築学科の出身であると話したら、じゃあ理系なんですね、という流れから発された言葉のようだから、どうも嫌いだったり苦手だったりするのは筆者なのかも。数学にはとんだとばっちりだ。僕の事は嫌いでも、数学の事は嫌いにならないでほしいー前田敦子さんの気持ちがなんだか少しわかるような気がしてきた。
数字はつめたい。
それはそうかも知れない。昭和のサラリーマン映画では小林桂樹さんのようないかにも実直な営業マンに、金子信雄さんのようなかなり底意地の悪そうな上司が、「能書きはいいから数字あげろ、数字を!」などと罵声を浴びせるシーンなどは、頻繁に脚本に織り込まれていた記憶がある。
生身の人間にレッテルを貼るときも数字の独壇場だ。身長、年収、出身校の偏差値―宝飾品のカラット数のように、人の価値は容易に数字に置き換えられてしまう。人そのものに番号をふられる事もある。大学の学籍番号や小中の出席番号などはまだしも、マイナンバーのように国家権力に番号を与えられると、そのうち国民か囚人かわからない世の中になるような気もしてくる。「二〇〇一年宇宙の旅」は一九六〇年代の映画だが、そこで監督のキューブリックはコンピューターのハルが自らの意思を以て人間の指示に反する行動をとるという啓示に満ちた物語を展開した。幸いそうした事例は二〇二三年の今も表立っては聞えてこないが、人間があまねくコンピューターの支配下に置かれるディストピアは、SF小説から飛び出しそろそろ現実になろうとしている。
数字は愛らしい。
これはあまり賛同は得られそうにないが、素数を愛する数学マニアは多い。自然数の中で1とその数自身しか約数がないという処に、なんだか物語を感じる。家族のいないさみしがり屋かもしれない。2や3や5など、小さな素数には倍数がかなり多いのはそんな寂しさの裏返しで、外に絆を求めているように見えてしまう。そういえば3の倍数の時だけアホになります、というのがあった。世界のナベアツと名乗る方のユニークなお笑いのネタで、1から順に数をかぞえ、3の倍数になると思い切りのいい変顔をするのだが、かなりナンセンスで楽しい。こんな数字の楽しみ方があったなんて―え、そんなに楽しくない?うーん、渾身の芸も広い共感とはいかないようだ。
そんな数字だが、短歌や俳句に織り込まれることもある。古来、暦の月を表すにも一月を睦月、二月を如月というよう数字でない表現を用いたりしてきたのはなにか数字につめたさ或いは寒々しさといった「異和感」を私たちの父祖が抱いていた証かもしれない。特に俳句のように全体が短い中に数詞が置かれると、その存在感はかなり強い。まるで扱いにくい変わり者のようだ。しかし他の言葉と融和しがたいその性質は、時に得も言われぬ特異な光を放ち、句を大いに輝かせる場合がある。
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
あまねく知られた近代俳句の祖の一句だが、初めて眼にした時はどう理解してよいか正直分からなかった。「季語が効いてますね」的なよくある評価を真っ向拒絶しているようにも見えてしまう。句がつくられた当初から現在まで議論百出、賛否が分かれるのもなんだか理解できる。しかし頭を働かせるのをやめて、ただ感覚だけを頼りに何度か読み返すと、数字がどかと中七に、しかも概数で居座った大胆な構成がなんだか愛おしくなってくる。鶏頭の本数のことしか言わないなんて、無邪気すぎるし欲がなさすぎるではないか。もしかしたら作者はきわめて無垢な気持ちになってこの句を発したのではないかーならばと筆者も懸命に普段の有り余る邪念を払って句を見つめなおすと、中七のごつごつとした「異和感」が鶏頭の花弁を角ばらせ、さながらキュービズムの静物画のような美しい景を浮かび上がらせているのが見えてくるではないか。凄い。数詞が主役を担った珍しい一例。
もう一句。
六月の女すわれる荒筵 石田波郷
有体に言えば電流が背中を走ったーこの句を最初眼にしたときの事だ。作句の状況がどうかとか作者がどんな人かとか、そんな予備知識抜きに大いに心を揺さぶられてしまった。
戦後の日本、焼け跡となった町ではこのような景はそんなに特別ではなかった事はその時代に生きていない世代でも推察可能だし、作者の実景の世界としてももちろん感情移入可能なのだが、この句にはあまねく世代に同時代性を感じさせてしまう力がある。少しばかり齢を重ねた人なら、誰でも似たような景が体験として浮かび上がるのではないか。筆者の幼少の頃、父が経営していた工場と家を火事で失い、じっと火をみつめている自分の横で母が泣き崩れた大地は、荒筵はなくともこの句の女のそれにほかならない。ボブ・ディランが「ライク・ア・ローリング・ストーン」の曲の中で登場させた、転落した女が這うように暮らした路上にも、きっとこんな荒筵のような粗末な何かが敷かれていたに違いない。筆者が学生の頃訪れた北アフリカの街の夕暮の旧市街の、絨毯を売る商店等のならぶ狭い道筋、誰とも合わせぬ遠い眼をした少女が膝をかかえて座っていた路面も、句の中の荒筵の敷かれた大地と変わる処はない。この句は時空を超えて読み手のそれぞれの体験を呼び醒まし、心を揺さぶらずにはおかない。子規の「十四五本」の句では体験できなかった、そんな即効性がある。それを可能ならしめているのは、上五の「六月」だ。風雅に「水無月」ならどうだろう。それも悪くないかもしれない。しかし「六月」の語感の持つつめたさには及ばない。それが「女」を突き放す、ディランが歌詞の中の女を突き放しているように。「七月」はどうか。海水浴の景と思う人もいるかもしれない。「四月」なら。花見を連想させてしまう可能性がある。動きようのない六月―この選択こそが、この数字の持つただならぬ気配が、言い知れぬ凄味を句に付与しているのだ。
あの北アフリカの旧市街の少女はどうなったかーもうすっかり変わってしまったろうが、またあの街を歩きたい。ディランの曲をまた聴こう、きっと曲中の「女」が微笑みかけてくれるに違いないから。
(小滝肇)
【執筆者プロフィール】 小滝肇(こたき・はじめ) 昭和三十年広島市生まれ
平成十六年俳誌「春耕」入会 春耕同人、銀漢創刊同人を経て現在無所属
平成三十年 第一句集『凡そ君と』
https://sectpoclit.com/hajime-6/ 【数と俳句(二)/小滝肇】より
「人間は多面体だ。」―とは人が他者を一面的にしか見ようとしない事への戒めとかで巷間用いられる言葉のようだが、たしかに人間は三次元に存する立体にほかならない。そして近似的には無数の極限に短い直線の織りなす面の繋がりとしての多面体に違いないので、数学的概念としてもほぼ正しい表現であり、他の自然物や生命などと同じだ。サイコロは数学では正六面体で、同じ大きさの六つの正方形から成るが人間の顔の上部にほぼ平行に並んだ二つの肉眼カメラは、サイコロにどのように光を当ててもせいぜいその三面までしか認識できず、影となる部分は光の面から推測する事でようやく脳内にその人なりのサイコロの全体像が構築される。体験の記憶が豊富であればかなり正確に、反対にそれが乏しければ間違った状態で。
「言葉」はどうか。紙面の上に滲むインクや液晶画面を走る電子も物質であり、厚みや高さがゼロではないのだから、やはり数学的には立体として把握される。
だが、それだけではない。
皆さんは愛読されている本を開いたとき、こうした物体属性的な説明では理解不能な「言葉」の厚みの違いを誌上に認識された事はないだろうか。知っている物語であれば重要なキーワード、初読のそれであれば重要そうに思える言葉が他より厚くなっていて、陰翳の波のうごめく「海」のような面がページにもたらされる。時に穏やかに、時に荒々しく。それは読み手それぞれの記憶世界がもたらすもので、当然人によってまちまちなものとなる。書き手の側もまた、言葉を慎重に選択し語順に気を遣いつつ、原稿用紙などに自らの「海」を広げる。この書き手・読み手両者の「海」の様相が響き合ったとき、それは文学的「共感」とよんでよいものとなるだろう。そして俳句においては特に字数が限られているため、この共感への作業は必定慎重を極めるものとならざるを得ない。
奥は雲中千本の桜かな 伊藤伊那男
掲句、中七に置かれた「中千本」―読み手のほとんどの方は、俳句をやらない方であってもそれが吉野の桜を表現した「奥千本、上千本、中千本、下千本」という言葉を想像せずにはおかないだろう。固有名詞でもないが、景の体験の記憶のみならず吉野にまつわる歴史的背景まで心を飛ばす人もいよう。此処らはおそらく作者の想定通りだ。さらに上五に「奥は雲」とあるから、奥方向は雲に覆われていて、状態把握がしづらいのがわかる。そしてその事が、雲のかかっていない中千本の咲き具合の見事さを言わずもがなに強調して読み手に伝える。実際範囲が広く高低差もあるからか、吉野桜はその全体が同じに満開を迎える事はないようなのだが、事細かな説明は必要なく、上五中七で絢爛さは言い尽くされ、季語で結んだ下五の「桜かな」はほぼ余韻のようでもある。オーソドックスだが、「中千本」の数詞の伝える力を信じ中七に据えた大胆な構成が、ここではたしかな成功を得ている。こんな静謐な作りもまた省略の美学である俳句らしく、大いに読み手を楽しませてくれるのだ。
もう一句。
一本の姥子の宿の遅桜 富安風生
この句に登場する桜は前述の句のように荘厳にあつまって見せるわけでもなく、たった一本であることが上五に示されている。姥子の宿という固有名詞の音の響きと相俟って何やらひなびた印象を読み手に与える。さらに下五には遅桜ときた。桜という春の最も大いなる華やぎを詠んでいるのに、なんという寂寥感の追い打ちであろうか。しかし漱石の明治以降、西欧的思想が急激に押し寄せた近代以降のこの国では人間が自我と強く向き合わざるを得なくなり、知らず憶えるようになった根元的孤独感あるいは疎外感は戦争や震災を経た昭和においても変わるところはなく、それらが句に浮かんで見えているように筆者には思える。そしてその感覚は、現代人の懊悩とも響き合うーもちろん、作者は素直に景を詠んだに過ぎないかもしれないのだが。
高浜虚子が風生のこの句を鑑賞するのに繰り返し詠むよう周辺に語ったとあるので、心を空にして何度か音読してみるーHITOMOTONO UBAKONOYADONO OSOZAKURA―母音でいうとOの音が短い句の中で十回登場するが、少しもうるさくなく、むしろ調べの整えられ方の尋常でない事がわかる。一つひとつの言葉の丁寧な選択とその配置のなせる業といえる。百数十年経た今も心を打たずにはおかない。そして数詞はここでも、ごつごつと角を尖らせつつ、読み手を作者の物語へと誘う大切な役割を果たしているのだ。
数学嫌い、数字嫌いの皆さん、少しだけ好きになってもらえましたか。もしそうでないようなら、筆者の力不足ですが、次回もその次も、数と俳句の話です、すいません。
https://sectpoclit.com/hajime-7/ 【数と俳句(三)/小滝肇】より
数詞はそれ自体に他の品詞にない異和感があって、十七文字の俳句の中ではとりわけ存在感を放つ、とは第一回の拙文にも書いた。数詞の本来の役割は、数量や順番を具体的に示す事だが、十進法における区切りの数、―すなわち一、十、百、千などはそれ自体が文脈のなかで特別な意味性を持ち、句の響きを大きく変化させる。これは第二回目にも少し書いたが、もう一寸詳しくみてみたい。
冒頭の二句は明確ではないが、ともに戦後の混乱がある程度収まり、生活に落ち着きがでて高度成長のはじまる前触れのような時代に詠まれたものと推測される。これらは同じように「百」という数詞を使ってもその響きは全く様相を異にしていて、さながら音楽でいうメジャーコードとマイナーコードのようだ。一句づつ。
ぼうたんの百の揺るるは湯のやうに 森 澄雄
牡丹は初夏、低木に花を開かせる。もともと華やかであり、美しい人のたとえに「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花」とも言われるくらいで、その麗しさを長く愛でられてきた花の代表の一角をなす事は議論を待たない。特に白牡丹は夏の光の中に陽炎のように浮き立つと、現世ならぬ世界にいるような錯覚を覚えると言われても、大袈裟とは感じない。それが群れなすように集まって咲けばなおさらだ。少し風のあって揺れ立つさまは句では湯けむりに喩えられ、心地よさは皮膚感として伝わってくる。深読みすれば戦後の混乱も落ち着き、未来が少しは見えるようになった時代のゆとりのようなものも感じられる。牡丹の美しさと湯けむりの比喩が、この句に格別の明るさを与えている。ここで用いられた数詞の「百」は、単に花の数の概数でなくたくさんあることの例えであり、第二回目に紹介した桜の句の「中千本」の「千」と同様の意味合いを持ち、広さとして眼前を満たしていることの表現にほかならないが、場の感触の表現としてもっとも適切な選択であったろう。牡丹、湯と相俟ってなんと響きの軽やかであることか。弾むようなメジャーな音を伴い実景は作者の記憶を離れ豊かなイメージとなって、読み手の前に現れてくる。
塩田に百日筋目つけ通し 沢木欣一
こちらは一読、世界観がまったく違っている。前出の句とは作句の時期はそう違わないのに、である。人間が生きてゆくには水とともに塩は必須だ。しかしながら国土の多くを山に覆われているのに、この島国には塩の山はほとんどなく、自ら補うには昔から効率の問題が大きくても海水から採取するしかなかった。
「敵に塩を送る」との諺は戦国時代、海に面さない甲斐国武田信玄が駿河国の今川氏と敵対し、塩止めと呼ばれる禁輸政策の憂き目にあった際、信玄の宿敵上杉謙信が甲斐の良民の窮地を救うべく塩を送ったという故事に由来するといわれるが、史実かは定かではない。しかし体内を一定の塩分濃度に保たねばならぬ人間にとって、塩がいかに重要かはよく伝わってくる逸話ではある。
それほどまで大切な塩はどのようにして得られているか──作者が句の題材とした能登輪島の揚浜式塩田の製法は殊に過酷で、海の汐をかけた砂に日がよくあたるように炎天下何日も何日も千歯で筋目を入れる作業が必須となる。夏の海辺の強い日差しにさらされた身体は、黒を通り越して青ざめるまでになるという。前出のぼうたんの句の世界の華やかな明るさは、こうした苛烈な労働によってその生活の源を支えられている。塩の製法が変わっても、その事実は今もってかわらない。耕す人がいなければ、波高い海に漁に打って出る人がいなければ、私たちは一日たりとも肉体を維持することすらできない。生の厳しさをその現実を、静かなマイナーコードの和音として作者はじわりと読み手の心に響かせる。「百」はここでは数量ではなく日数を表す数詞で、それがとても長い事の比喩として用いられているが、その響きはあくまでも重い──掲句を詠み返すと、1970年ベトナム戦争に疲弊し、さまざまな矛盾が露わになった頃のアメリカでリリースされたニール・ヤングの「アフター・ザ・ゴールドラッシュ」というアルバムがなぜか脳裡をよぎる。
言葉はなんと相対的なのだろう、奏でる人の意図次第でこんなにも明暗が分かれることがこの二句の「百」によく示されている。記憶によってボリュームを得た立体が言葉の本質であり、読み手や作者のそれによって大きさが変わる相対性を有するとは第二回目に書いた内容だし、そう驚いてはいられないのだが、こうして比較してみるとそれにしても、の感は否めない。
このごろ古いアルバムの曲を聴くことに妙にはまってます。前出のアルバムの中の、「Don’t Let it Bring You Down」響きます。メジャーコード進行の曲ならジョージ・ハリスンの「Here Comes The Sun」。これも響く。
え、古過ぎだって?うーん、そうかも。でも良いものは良いのだ。 なんだかバカボンのパパみたいになった。これも古いか。来週の最終回も数詞の話。
https://sectpoclit.com/hajime-8/ 【数と俳句(四)/小滝肇】より
午後三時異空間めくビアホール 今井肖子
昼ビール・・・なんという甘美な響き。夏の焼けるような暑さの日、ランチタイムの格安オプションのビールがメニュー看板にあると、どんな聖人君子でもその誘惑から免れるのは容易なことではない。しかしながら勤務に忙殺されている同僚の顔が浮かんだりして、「いかんいかん」とか言いながら、お水で耐えた経験のない人はいないのではないか。え、耐える必要ない?―おかしいなあ。とにかくまだ仕事の終わってない時間にビールを飲むのは、背徳の世界に足を踏み入れ悪魔に魂を売る行為とみなされてしまうのがこの国の常で、その罪深さは突然背後から「お前今昼ビール頼んだろ、逮捕する」とか言われても不思議のないくらいだ。ましてや冒頭の句、午後三時。昼ビールですらない。しかもビアホール、確信犯だ。よく捕まらなかったものだ。昼下がりの、日本中が働いてる時間に酒のお店を開けてる方も悪いといえば悪いが、まさかそこに入るとは。そうするとどうだろう、まばらながら客らしき人がいる。きっと昼に来た客がまだ残って喋って楽しんでるのだろう。自分の事は置いておいて、とりあえず「なんて奴らだ」と侮蔑の視線をそれらのテーブルに送る。しかしその時、同じ視線が自分にも送られていることに気が付く。店の人がこの時間帯に隅っこの方で素早く賄い食をとろうとしているが、新たな客の登場にそそくさと席を立ち、「いらっしゃいませ」と目一杯の作り笑顔で出迎える。しかし目元は笑ってはいない。「こんな時間に入ってくるんだ」みたいな、まるで「珍しいものが見れた」、と言わんばかりの目線。
「お好きな席へどうぞ」そりゃそうだろう、こんなに空いているんだから。ぶつぶつ頭の中でつぶやきながら、ど真ん中のテーブルに着く。「ここはウインナーソーセージとザワークラウトが有名なんだよ」とここに入ろうと言い出した同席者は店の人や他の客の様子に気に止めることもなく、穏やかに蘊蓄を授け始める。ここの壁や柱や装飾品は創業時の意匠そのままだとか、あそこの木製のおおきなビヤ樽はここの名物なのだとか、初代は日本でも有名なビール継ぎの名人だったとか。しかし作者の耳には少しも響いてこない。このとてつもない恥ずかしい思いからはやく逃れたい。そして何事もなかったかのように通りを涼しい顔で歩きたい。そんな思いでいっぱいなのだが、でもビールは飲みたい。うん、やはり飲みたい。がら空きでもテーブルとテーブルの間は狭い。そこをビールを片手に抱えて店の人がすいすい練り歩き、作者たちの処に辿り着く。なにするというのでもなく、惰性の乾杯をかわし、ついに背徳の飲み物を口にする。
旨い、旨すぎる。外が暑かったから尚更だ。きっと今まっとうに働いているに違いない友人たちの顔が目に浮かぶ。「すいません、みんなビールが悪いんです」と意味不明の言葉を小声で復唱する。
支払いを終え、店を出てもまだ心臓の鼓動が速いままだ。店の前を速足で離れ、そこからは努めて何事もなかったかのように、いつもよりゆっくりと歩く。それでもきょろきょろ首を動かす。「店を出るところを誰かがみてなかったか」「官憲関係者に尾行されてないか」「店の人たちは口が軽かったりしないか」「やっぱりやめておけばよかった、、、。でも美味しかったー」背徳はビールの味を五割増しにして、作者の記憶の襞に刻まれる。
以上はあくまで筆者の妄想であるので、関係各位には慈悲の心を以て許容していただきたい処だが、こんなに妄想が広がるのも上五の「午後三時」のせいなのは言うまでもない。午後二時ではまだ昼の感じが残るし、午後四時だと繁忙の夕刻に寄り過ぎている。もっとも客が来てはいけない時間はこの午後三時あたりであり、見てはいけないビアホールらしくないあからさまな閑散の世界を、客は目の当たりにすることになる。異空間とは日常的でない空間のことで、店舗デザインでは来店者の脳をオンからオフモードに切り替えるのが容易となるようそのように設計することも多い。しかし作者はそれを言っているのではなさそうだ。「らしくない」のだ。たくさんのテーブルを満たす客、その背をうねるホールスタッフ、何重奏にも聞こえてくる周囲の声・声・声、、、。「ビアホールってそうでしょ」と思ったすべてがここにはなく、本来の喧騒はすっかり閑散に置き換えられてしまっている。中七で「異空間めく」、と言ったのはそれを感じたからではないか、とまずは思う。予想を狂わせた空間はマイナスに働くと大いに居心地の悪さを伴うものだから。しかしそう単純でもない。ただ空いているだけなら客としてはラッキーというほかはない。しかし前段の妄想話に書いたように誠実無比な働き者文化の中に育った日本人としては、誰もが仕事に精を出しているであろう時間に酒を口にすることが「うしろめたい」。本人がそれほど意識しなくてもDNAがその感覚を与える。真空を走る光の速度以外、一定と言えるもののほぼ見当たらないこの世界では、空間がごく相対的なものであることを踏まえると、感覚が容易にそれを歪めてしまうのは、ムンクやダリでなくとも現代絵画にも多く示されている通りだ。「うしろめたさ」に歪められたビアホールーなんとも独創的な作者のデッサンが、ここには見て取れるではないか。
ちなみに作者は、数学に苦手意識のある方と筆者を含めた何人かで雑談してた時、私が「数学は言語のひとつと理解してるし、それ自体文学だと認識してます」とか言ったとき「数学は哲学です」とぴしゃりと仰られた猛者(失礼!)です。恐れ入りました。
以上、七月の四週に渡って書かせていただいた「数と俳句」のシリーズもこれにて校了です。お読みいただいた皆様ありがとうございました。近詠十句は今回はタイトルに合わせて拙句ながら数詞を用いた句を。(小滝肇)
【近詠10句】
薺粥空気に色のある一日 春寒の五線譜に置く四分音符 六月のシーラカンスの海の鬱
天蕎麦の天に稚鮎の二尾三尾 葛餅や愛は百円では売らぬ 七色の戦士に会うよ夏休み
手花火や大きな闇の中の二人 味玉は二つ空浮く月ひとつ 万力で締める十一月の虚
本当に一人で過ごすクリスマス