自分という世界
Facebook尾崎 ヒロノリさん投稿記事
おはようございます。『鏡の中の蛙』井の中の蛙は空の広さを知らず、だが……鏡の中の蛙は、自分の深さを知らない。
水面に映るのは、ただの姿か、それとも仮面か。
覗き込むほどに歪む輪郭、微笑めば微笑み返し、涙すれば、やはり涙を落とす。
けれど、鏡は語らぬ。そこに映る命が、本物かどうかさえ。本当の世界に背を向けて、自分という幻に恋をして、閉ざされた美に安らぎを求める蛙は、果たして自由か、それとも囚われ人か。飛び出す勇気があれば、鏡の向こうには本当の空があるかもしれない。
風も、雨も、夜明けの音も。まだ見ぬ真実の広がりが、待っているかもしれない……
だが、鏡の中の蛙は今日も、静かに瞬きしながら、自分という世界に、静かに溺れていく。
素敵な一日をお過ごしください。
(略)
Facebook船戸 崇史さん投稿記事 祝脱皮㊗️㊗️
7年の地中生活から〜いや〜苦しい暗い生活があったからこそ〜陽の光が見える〜❣️
きっと脱皮しないと始まらない〜
これから大空を飛んで自由と実りの時を満喫して欲しい〜‼️たった1週間だけど〜💦
人間も同じなのか〜見習うべきか〜⁉️(^◇^;)それが摂理なのかなぁ〜って思いました❣️
FacebookHiroshi Kaneiさん投稿記事 🗳️ “空気”が決める国に、未来はあるか?
この国では、「自分の頭で考える人間」が煙たがられる。
沈黙こそ正義。出る杭は打たれ、考えずに従う者が「賢い」とされる。テレビが言えば、信じる。ネットでバズれば、拡散する。「みんながやってるから」──その魔法の言葉が、個人の意思も良心も、静かに麻痺させていく。気づいていないフリをしていないか?
政治家が嘘をついても、「どうせ変わらない」と笑って流す。増税されても、汚職があっても、「まあそんなもんだ」とあきらめる。でも――選挙のたびに「白紙委任状」を出し続けた結果が、今のこの社会じゃないか?選挙は、単なるイベントじゃない。推しを決める人気投票でもない。これは、あなたの生活・権利・未来に直結する「契約の場」だ。
空気に合わせて投票するのは、国の舵取りを“多数派の幻想”に委ねるということ。
その代償は、じわじわと、静かに、私たちの暮らしをむしばんでいく。
「考えない自由」など存在しない。考えるのを放棄した瞬間、誰かに操られるだけだ。
どうか、思考停止から抜け出してほしい。
投票所に向かうことは、「私は操られない」という意思表示だ。
日本という国には、良くも悪くも「同調圧力」という見えない力がある。
周りに合わせることが礼儀、控えめであることが美徳とされ、違和感を感じても、口をつぐみ、目を伏せてしまうことが多い。けれど、その空気のまま進んでいく先に、本当に私たちが望む未来はあるのだろうか?多数派がいつも正しいとは限らない。大きな声が真実とは限らない。テレビやネットで流れてくる情報は、「考える材料」であって、「答え」ではない。
選挙は、私たち一人ひとりがこの社会の“当事者”であることを示す、数少ないチャンスだ。
誰かに決めてもらうのではなく、自分で考え、自分で選ぶ。
それは、たとえ孤独でも、自分の信じる方向へ歩むということ。
投票所に足を運ぶことは、「私は、考える力を手放さない」という静かな抵抗であり、
「私は、この国の未来を諦めていない」という意思表示だ。どうか、あなた自身の意志で投票してください。誰かの言葉ではなく、あなたの言葉で。誰かの選択ではなく、あなたの選択で。明日、参議院選挙。この国の未来を“空気”に任せるか、“自分の意志”で決めるか――
その分かれ道が、そこにある💪
Facebook加藤隆行さん投稿記事【自由と不自由に分かれ道】
自分らしく自由に生きはじめると──逆に不自由を感じることがあるかもしれません。
なぜならあなたが自由であることで周りの”不自由に生きている人たち”を刺激してしまうからです。もしアナタがこれまで、自分らしくなく、不自由に生きていたとしたら「類は友を呼ぶ」と言いますから、きっとアナタの周りも、同じように不自由に生きている人たちばかりだったはずです。
そんな中で、アナタひとりが自由になろうとしたら……総スカンを食らっても、おかしくはありませんよね。
「お前はワガママだ」「みんなに合わせろ」「オレの言うことを聞け」「みんなガマンしてるんだ」「みんなに迷惑をかけるな」──そんな言葉が、アナタを引きずり戻そうとするかもしれません。それによりそこで自由をあきらめてしまう人も、少なくありません。
でもそれでも自由に生きる歩みを続けられるかが、アナタが幸せになれるかどうかの分かれ道なのです。そして、アナタ自身だけじゃない。”周りも” 幸せになれるかどうかの分かれ道なのです。
*
アナタだって以前は、自分らしく自由に生きている人たちをみて妬ましく思っていたでしょう?「あいつはワガママだ」「みんなに合わせろ」「私の言うことを聞け」「みんなガマンしてるんだ」「みんなに迷惑をかけるな」「あんな生き方はアリエナイ!」そうやってその人を裁いていた時があったでしょう。
でも今アナタは不自由なそちら側でいるのは、何かがチガウと気がついて自由なこちら側へと行こうとしているところなのですよね?
であればアナタがその歩みを続けることがアナタが自由な姿を見せることが周りの人たちにも
自由なこちら側がある不自由なそちら側にいなくていいということに気づくためのキッカケになるからです。だからアナタは自分らしく自由に歩き続けてください。
たとえいまあちら側の人たちに妬まれても、罵られて不自由を感じていても今向いている方向があなたが向かう方向です。
だってアナタはもう人を妬んだり、罵ったりしたくないはず。
そんなことで自分を地獄のような場所に縛り付けたくないはず。
じゃあ、みんなの幸せと自由のために前を向いて歩いて行きましょう。
気がつけば自分らしく自由にいて感謝し応援しあって生きている 同じような人たちに
囲まれているはずです。そしてそこが、アナタの “こちら側” となりアナタの安住の地となります。おつかれ、そしてようこそ!(^ω^)
https://ameblo.jp/197001301co/entry-12433463219.html 【俳句をやる意義④自己再発見】より
菅原鬨也前主宰が「俳句をやる意義」として四番目に掲げた「自己再発見」という項目に関して今回は触れたいと思います。
〈俳句を作ろうとこちらの心がはたらけば、それまで見ていた空、花、鳥のすべての様相が違って見え、自分でも意識しなかった自分の「ものの見方」を知ることとなる。それはとりもなおさず「自己再発見」というべきものであり、「自分とは何ものか」という人生の大きな問いへの答えに一歩近づくことになるのだ〉
というこの見解は俳句にかかわる人々に大きな希望をもたせるものであるように思います。
〈今日はどんな俳句を詠もう、どんな出会いがあるだろうという希望のもとに目覚める朝はどんなに充実していることか〉
―胸に響く言葉です。
かつてヘレン・ケラーはサリバン先生との出会いによって「すべてのものには名前がある」という事を知りました。
散歩の途中にサリバン先生が井戸の水をヘレンの手に注ぎながら「water」と指文字で何度もヘレンの手に書いたことで、彼女は「物」と「言葉」を脳内で結びつけることができ、その日だけで三十もの単語を覚えたといいます。二歳から五年間、暗闇の世界にいたヘレンに光の差し込んだ記念すべき一日です。
「言葉の存在を最初に悟った日の夜。私は嬉しくて嬉しくて、ベッドの中で、この時初めて〝早く明日になればいい〟と思いました」
この日のヘレンの言葉と、この鬨也前主宰の一文はかすかにリンクしているようにも思います。
散歩の途中にサリバン先生から、手に水を注いでもらって「water」という単語を理解したヘレン・ケラー。
私たちが「歳時記」を手にし、今まで目にした事柄に「名称」があって、それがなおかつ「季語」だと知った時のよろこびは、このヘレンの感動に近いものがあると言ったら大げさでしょうか。
学校の周りにいたプンプン鬱陶しい小さな虫のかたまりは「まくなぎ」、
古家の納屋の片隅の謎の小さいツブツブは「優曇華」、
花見の後なんとなく気だるくなるのは「花疲れ」、
春のはじめに空気が鋭利にきらきら感じるのは「風光る」、
冬の不安感を倍増させるようなひゅうひゅうと竹垣に吹き付ける風は「虎落笛」…
それらの季語を知った時、なんとなく「憑きものが落ちた」ようなすっきりした心持になったことが忘れられません。
今でこそ、春の山を見れば「山笑ふ」、
夏秋冬の山を見ればそれぞれ「山滴る」「山粧ふ」「山眠る」と言葉を脳内で自由に変換させられるようになった自分がいますが、
これらの言葉をもし知らなかったら、身心の充実度が明らかに違っていたように思います。
四季、自然、森羅万象との出会い、めぐり逢い、感動をうまく言葉にのせられた時のよろこび。
一句を「賜った」と感じる時のよろこび。
それはまさしく自分がこの生きている世界、そして宇宙全体と「言葉」を通して交感できた証であり、そんな時俳句を詠む人たちは、自分が俳句という詩型に巡り合えた幸福を思いがけず感じるのだと思います。
そして自らが用いた「言葉」によって人はまた、それまで知り得なかった「自己」を「再発見」することにもなるのでしょう。
https://ameblo.jp/197001301co/entry-12433462288.html 【俳句をやる意義③世界観・人生観の確立】より
俳句をやる意義として鬨也前主宰が掲げた「世界観・人生観の確立」という三番目の項目について今回は触れたいと思います。
この文言は「滝」という結社を紹介する際、「俳句年鑑」を始め様々な所に掲載していますので、会員の皆さんもおなじみかと思います。
「自然をはじめとして、人の生きかたなど森羅万象との接触を深めることによって、やがては、その森羅万象に畏敬と感謝の気持ちが強まってゆく」
その結果として「世界観、人生観の確立」を目指す、
というこの言葉は、まさしく前主宰の生きた軌跡そのものであったと思われます。
亡くなる約一年半前、「童子」の辻桃子先生、安倍元気先生を迎えての「虚子座談会」の席で鬨也主宰、桃子先生の会話の中でこのようなことが語られていました。
「〝ナショナルジオグラフィック〟(National Geographic。ナショナルジオグラフィック協会製作のドキュメンタリー番組)なんてあるでしょう?」「あれは、〝人間の目から自然を見ている〟という世界だよね」
「〝人間対自然〟という視点」
「〝ネイチャー〟という概念だよね」
「我々(俳人)はそうじゃなくて、人間もその自然の一部、ひいては自分たちが自然を見ているんじゃなく、〝自然から見られている〟という意識が大切なんだね」…。
この会話中の「自然を見ているのではなく、自然から見られている」という概念は、鬨也前主宰の掲げた「世界観・人生観の確立」のひとつの到達点として受け止めて良いのではないか、と思うのです。
「我々が自然を見ているのではなく、自然から我々は見られている」。
忙しい現代生活においてはこのような認識に立ち返るのは、相当意識しないと難しい事かもしれません。
鬨也前主宰は実に様々な事に興味、関心があり、読書もさることながら、まめにテレビのドキュメンタリー番組もチェックしていました。
ちょっと思い出した出来事があります。
昭和五十年頃、「すばらしい世界旅行」という番組があったのを覚えていますか。
私は父と毎週この番組を興味深く観ていました。アマゾンの原住民の方々を取材した最後の回でした。
「彼らが一日も早くこの野蛮な生活を捨て、我々現代人に溶け込んでくれる事を願ってやまない」
ラストはこんなナレーションで締めくくられたように思います。
四十年も前の事ですから、まだこのような認識もあったのでしょう。しかし父である鬨也主宰は言うのです。
「〝ブンメイ〟と〝ブンカ〟は違うんだど、一子」。
「文明」と「文化」は違う。
その事をまだ六歳の私にとうとうと説くのです。
銛や槍で獲物を追う生活が自分たちより低いというのは間違いだ。
いくら色んなものをたくさん持っていたって、この人たちより自分が勝っているというのは違う。
小鳥と一緒に歌うことと、歌手がマイク持って歌うことに実は優劣はない。
アマゾンの人たちが自分たちより劣っている、という考えこそ劣っているのだ、という内容を真剣に語るのです。
まだ幼かった私は、あまりの父の勢いになんだか自分が叱られているようで、苦しくなったのを覚えています。亡くなる一年半前に何気なく語られた「自然に見られている」という言葉から、四十年前の「ブンメイとブンカの違い」を説くあの父の真剣なまなざしが思いがけず蘇ってきました。
生涯を通して、自然、というものに畏敬の念を抱いていた、そうありたいと願った父の、私にとって心に残るエピソードのひとつです。
https://ameblo.jp/197001301co/entry-12433459617.html 【俳句をやる意義②自己肯定感の育成】より
「俳句をやる意義」として鬨也前主宰が掲げた二つ目の項目「自己肯定感の育成」について今回は触れたいと思います。
「一句を成したという充足感を積み重ねていくことは、いい意味での自己肯定感につながり、人間形成にも大いに役立つ」
というこのことばをかみしめる時、私はこの文章の書かれた平成四年前後の事を自ずと思い出し、少々胸が苦しくなります。
若い頃は比較的元気だった父が、少しずつ身心のバランスを崩し始め、職場で倒れて入院を余儀なくされてしまったのは、平成二年の頃、私がちょうど二十歳の成人式を迎えた頃でした。
成人式当日、ひととおりの着付けの業務が終わり、閑散とする昼間の美容院に私はいました。
そこで自分で選んだレンタル衣装の青色の晴れ着を着付けてもらい、きりきりと結い上げられた日本髪の窮屈さを頭皮に感じながら、小雪のちらつく中、向かった先は成人式の会場ではなく父の入院先の病院でした。
病院の朝の時間は朝食、回診、場合によっては入浴と比較的バタバタしがちであると聞いてたので、ゆっくり面会の出来る午後の時間を選んで父に会いに行ったのです。
大部屋で他の患者さんもおられる中、着物姿で病室に入ってゆくのには少々戸惑いもありました。
私の姿に気づいた父は嬉しそうというより寂しそうなまなざしでこちらを見ました。
同室の方々を気遣ってか父は私を病院一階の喫茶室に誘いました。喫茶室へ向かうエレベーターの中でも父は無言でした。
「一子、プリン食え。あ、プリン・アラドーモふたつね」
父の言い間違えに私は吹き出し、父もこの時やっと笑顔で着物姿を眺めてくれたのですが、話をしている間中も、やはり父の目はどこか寂し気でした。
働き盛りの年齢で、病院というある意味、社会から隔絶された場所で娘の成人した姿を見るのは、やはりやりきれない思いがあったのだと思います。
この時の成人の日を詠んだ句が一句だけ残されています。
恍と病む成人の日の父たるに 鬨也
病院の喫茶室で向かい合いながら、私と父はごくとりとめのない話をしていたのですが、私は父の目の奥にある「寂しさ」だけでは表現しきれない「何か」を感じとっていました。
それはまさしく「恍と」しか表現しえないような、目の前の着物姿の私に視線はありつつ、心はどこか別の所にある、そんな状態の様な気がしました。
なぜ父がこういった状況にあるのか、何が父をそうさせるのか、考えても二十歳になったばかりの私には到底わかるはずもなく、父の精一杯のお祝いの気持ちであっただろうプリン・アラモードの、季節外れのメロンのひときれの冷たさばかりが悲しく脳内を覚醒させるのでした。
この句の収録された句集『飛沫』には
叫びたし飛雪荒涼たる川に
の激しい感情を吐露した作品が同じページに並んでいます。
ほぼ制作年代順に編集された『飛沫』はこの入院の時期を境に少しずつ作風の拡がりゆく様が見てとれます。
青春の淡い感傷、瑞々しさ、権力に代表される「力」への抵抗、一方で絶対的なものへの微かな憧れ、美しき脆さ儚さ、それらを含有した第一句集『祭前』のいわゆる「前期」の作品
大男斑雪の村に現れし
きそひ咲く谷の紅梅馬病めり
石臼に飼われゐる蟹いなびかり
等の作風を踏襲しつつも、
酢海鼠を嚙みて奈落を宜へり
いちにちの終の水脈見ゆ白絣
涙ぐむ枯蟷螂と憶ひけり
とはやくも晩年を意識したと思われる趣の作品等も登場します。『飛沫』の最終ページ付近には
豹変の寸前の眼や大焚火
といった、自らの内なる変革を予感させる句も登場します。
この入院の時、父は五十歳。角川俳句賞を四十三歳で受賞して七年。
ちょうど私自身も今、この時の父とおよそ同年代にあたり、年代特有の感慨のようなものが少しだけわかる気がします。
仕事も子育ても俳句もひたすらにやってきた。けれど自分は今、病院という場所にいる。
症状が重く、入院が長引くほど自分に自信がなくなり、自分を否定したい気持ちにもかられる。
そんな中、俳句を詠むということは一見無駄ともいえるほんの小さな行動であり、傍から見れば全く無意味なものであるように思われるでしょう。
恍と病む成人の日の父たるに
自分自身も「恍」としか表現できない状態、その中で俳句を詠む、という行為はともすれば、自分の足元を大きな力で掬おうとする何ものか(それは「恐怖」と言い換えられるかもしれない)に対する些細ではあるがそれは大きな抵抗であったといえるかもしれません。
さらに期せずして、その一句を詠む、という事の積み重ねがやがて「自己受容」を生み「自己肯定感」に繋がる、という真理にごく短期間で到達することになったのです。
誰にとっても「自分に自信がない」という事は本当にこたえることだと思います。
一句一句は人様のお役に立てるものではないけれど、その積み重ねが自分の「自信」を生み出し、その「自信」が「他者」を「受容」できる人間的大きさを生む、と考えると「俳句をやる」という「些細な行為」の「大きな可能性」を思わずにはいられません。
病気、入院、は父にとっても家族にとってもマイナスの出来事でしたが、ここでの菅原鬨也前主宰の小さくて大きな「気づき」がのちのち「滝」の発展に繋がったとすればそれは大きな収穫であったといえることでしょう。
https://ameblo.jp/197001301co/entry-12433456667.html 【俳句をやる意義①創作意欲・表現意欲の具現化】より
菅原鬨也前主宰が「滝」創刊当時「俳句をやる意義」として掲げた五つの項目。
一「創作意欲・表現意欲の具現化」
二「自己肯定感の育成」
三「世界観・人生観の確立」
四「自己の再発見」
五「表現者としての誇りの醸成」
についてこの連載の始めに順を追って考えて行きたいと思います。
初回はひとつめの「創作意欲・表現意欲の具現化」について。
人間はこの世に生まれ落ちた瞬間から、人間としての生を生きることになります。
人間が動物と大きく違う点は「文化を生み出す」というところにあるのだと思います。
小さな子供はよく自分のオリジナルの歌をうたい、即興でダンスをしたりして大人を楽しませます。
クレヨンを握って懸命に絵を描いたり、泥でなにかをこしらえたりする。それは小さな自己表現のあらわれとも言えますが、大人になり日々の暮らしに忙殺されていく中でどんどんそういった自由な表現を奪われていくのが現代人の宿命であると言えるのではないでしょうか。
人間には生理的欲求(食欲、睡眠、性など)、安全欲求(危険、脅威からの回避)、所属と愛の欲求(集団への帰属、友情や愛情)、自尊欲求(人から認められたい)、自己実現欲求(限りなき成長)の五つの基本的な欲求があるとしたマズローの論理をご存知の方も多いと思います。
俳句をやるということは、
この自尊欲求、自己実現欲求を存分に満たすことであり、
また現代社会で奪われた自由な自己表現の機会を取り戻す行為でもあり、
ご自身ひとりひとりが文化的な存在であると認識できるごく簡単な方法のひとつ、と言い換えることもできるように思います。
人間ひとりひとりには平等に一日二十四時間という時間が与えられています。
その中で仕事や雑事を終え眠る前に一枚の良い絵が見られた、
一曲良い曲が聴けた、
それだけでほんの少し幸せになれる。
人間はそんな生き物なのではないでしょうか。
もしそれが会心の一句を賜る、という瞬間であったら…。
その日は「創作意欲・表現意欲」の存分に満たされた真の意味で充実した一日になるのではないか、そんな風に思うのです。
(「滝」平成29年5月号)