明日への希望・俳句とユーモア
Facebook相田 公弘さん投稿記事「笑いは最強の力」というお話です。
神様を呼び出すには電話番号がいる。それがマントラ、真言だ。
お地蔵さんのご真言は「オン カカカビサンマエイ ソワカ」サンスクリット語だと、とても分かりやすい。
「Om ha ha ha vismaye svaha」オーン ハ ハ ハ ヴィスマーイェー スヴァーハー。
ha-ha-ha・・・笑っている。笑う音が神様を呼び出す呪文になっているのだ。
お地蔵さんはある意味、最高の菩薩である。 仏教ではお地蔵さんとは地の蔵、地下に住んでいる神様だ。
浮かばれずに黄泉の国にいるすべての者のために闇の世界に住まわれて、 地獄のいちばん下のところにいる人を救ってくれる。すべてのネガティビティーや魑魅魍魎(ちみもうりょう)からも救ってくれる。日本の古神道には「笑いの行法」という技がある。
何分間も笑いつづけて健康や福を呼び込む方法だ。神道の神様というのは基本的には笑っている神様なのだ。笑いは不幸をはね飛ばす。笑って邪悪なものを外に出す。
鬼があなたにやってきたら、「ハッハッハッ!」と大きな声で笑う。これだけでなんとかなる行である。
アイブル・アイベスフェルトという動物行動学者が『プログラムされた人間』という本を著わしていて、 その中に盲目の人の笑顔の写真がいくつか掲載されている。
驚くことは、その人たちすべてが生まれつき目の不自由な人たちだということ。
彼らは人が笑っている顔を見たことはないはずなのに、他人の笑顔となんら違いがない。
彼らが盲目であるということさえ意識できない。人は学習で笑いを獲得するのではない。
ほかの動物は笑わないし、人間にいちばん近い哺乳類、サルでさえも笑わない。
笑える生物は人間だけなのだ。これは人間の本能には笑うことが組み込まれていることを意味している。
※この素晴らしき「気」の世界 清水義久 (語り)山崎佐弓 (聞き書き) 風雲舎
ものすごーく怒っているときに、嘘でもいいから笑ってみてください。怒りの感情は静まるでしょう。怒りの感情を長引かせることは、精神的にも人間関係においてもあまり良い結果を生みません。人は、生まれたての赤ちゃんの頃、「いないいないばあっ!」だけでも結構笑います(笑)おそらく、神様から「笑う」ということをプレゼントされたのが人間です。
だから「笑いは最強の力」となるのでしょう。 職場の仲間もチームメイトも家族も、笑いがないギクシャクした組織は、心の温度が低下していきます。
笑うとは、相手を承認することにもつながるのです。だから笑い合う組織は、お互いに尊重し合っているとも言え、家族に笑顔が溢れているというのは、 ただ仲がいいというのではなく、それぞれを認め合っているから自然と笑顔がこぼれるのです。
だって、嫌いな人がどんなに面白いことを言ったとしても、絶対笑わないでしょ?
大事なポイントは、嘘でもいいから「自分から率先して笑う」ことです。
人と会うときは、笑う前提で会うのです。 「笑いは最強の力」ですから、共に働く仲間も、お客様も、業者様も、 たくさん笑顔にしていったら、間違いなく繁盛するでしょう。 よく笑ってくれる人は、それだけで愛されます。
最近愛されてないな~と感じたなら、箸が転がっただけでも笑ってみてください。
愛されますよ♪ ※魂が震える話より
Facebookさん投稿記事船木 威徳さん投稿記事【 約束のご縁をつなぐカギ 】
昨日参加した、大好きな天神社の夏祭り。
昨年も見た、おそらく日本のどこでも見られるような、日本人なら普通のお祭りだったのですが、いまになっても静かな興奮というのか、獅子舞の笛や太鼓の音、神職の方が榊の取り方を教えてくださったときの笑顔、そこに集う地元の人たちがひとつになった空気を、繰り返し想いだしていました。それにしても、楽しかった。そして、今日しみじみ感じたのは、「私の人生というのは、ほんとうにすばらしいご縁に恵まれている」ということです。
ときどき、「人生で逢うべき人には必ず出逢える」という人がいますが、私は、それは真実だと考えています。私も、大事な場面で、あるいは大切な分岐点にさしかかるときに先立って、確率で考えるならあり得ないような「出逢い」をいただいてきました。でも、だからこそ、重要だと感じるのは、「人生で逢うべき人に出逢えても、そのことに気づくかどうかは別だ」ということ。つまり『 ご縁があるからと言って、そのご縁に気づけるとは限らない 』ということなのです。
私は、いわゆる「運がいい」人というのは、「ご縁にことごとく気づける」魂を持った人なのではないかと考えています。では、どうすれば、その大切なご縁に「気づくことができる」のでしょうか?
私は、あらためて私自身の過去を思いかえしても、やはり自分の計画ではどうしようもないところで(たぶん人はこれを「偶然」だとか「たまたま」というのでしょうが)、あり得ないタイミング、場所で、そのあと私の人生を変える、あるいはギリギリのところで私を助けてくれる人に出逢っています。その数は決して多くはないのですが、でも、確かに「ご縁」のある人との最初の出逢いは鮮明に憶えているものです。
私は、私が非常に「運がいい」と感じられてなりません。
そして、それは私が努力をしたから、能力があったからではなく、いえ、むしろそうではなく、自分にはできないことが多すぎるため、必要なときに必ずと言っていいくらい教えてくれる、助けてくれる人が現われるのです。その人に出逢っていなければ、私の人生は(悪い意味で)相当違ったものになっていただろうという、ご縁のある方が、軽く30人は挙げることができます。繰り返しますが、これは私の努力の結果ではないのです。
それなのに、最近ますます、ご縁に恵まれる、すなわち運がどんどんよくなっている。
・・・そう感じられてなりません。その理由が最近分かったのです。
私にとっては、毎日毎日、自然にやっていることで、あたりまえすぎて、そもそも心がけてやっているわけではないので自分で気づかなかったのですが、今朝、ふと誰かから教えられたような感覚にとらわれました。『 笑うこと 』ただ、これだけです。これだけなのですが、私は、自然にこれを毎日複数回くりかえしているのです。
どこで?そう、私には、金次郎と銀次郎という兄弟犬がいます。
どんなに遅くに帰ろうが、私を必ず出迎えてくれて、ごはん(ご飯、みそ汁、ぬか漬け、焼き魚や煮物など)を一緒に食べます。その名を呼べばすぐに飛んでくるし、トイレにも必ずついてきます。
そして、2匹は、私が自宅に居る間、ずっと私を見つめています。
私がどんなに落ち込んでいようが、哀しみを感じていようが、お座りをして私を見つめる彼らを見ると、私もどんな時だって、笑ってしまうのです。2匹を同時になでて、それぞれと話し合うのは(2匹が私を取り合うので)大変ですが、いつも笑顔にならざるをえません。
金と銀がうちにやってきたのが5年前で、それから、たしかに大変な経験もしましたが、それ以上に、不思議によいご縁をいただいて、あらゆる災難を回避してこられました。そして、ことばに尽くせないようなすばらしいご縁のもと、新しい仕事を始めることができています。
最近では、職場にクモの小次郎も住み着いて、私の前でぴょんぴょん踊ってくれます。
仮に家に犬やねこなどのペットがいなくても、いいのです。
鏡のなかの自分に、シミやしわは増えたけれど、一番の相棒であるあなた自身に笑いかけてください。できれば声に出して笑い、独り言なら独り言を言っているあなたを笑ってください。
だれにだって与えられている「ご縁」に気づかないで通り過ぎてゆく人生なんて、勿体なさすぎます。笑えないことばかり眼にはいってしまう毎日。私だってそうです。
一緒にただ泣くしかないような哀しみを背負ってこられる患者さんたちを前に、どこで笑えばいいのでしょうか?でも、人には、ユーモアの力があります。ユーモアとは「にもかかわらず、笑うこと」です。
いま眼に映る世界のありようがどんなものであっても、私たちの持つ感情や感覚がどんなに好ましく思えないものであったとしても、にもかかわらず笑うのです。
私やあなたが1日に1回でいいから笑うなら、その笑いは、かならずどこかのだれかを笑顔にするという連鎖がはじまります。大切なご縁に気づき、そのご縁をまた育ててカギこそ「笑い」だと想えてならないのです。
※うちの犬たちはカメラを向けると一気に興奮してじっとしていないのでなかなか写真を撮れないのですが、昨年のもの(左が長男・金次郎、右は次男・銀次郎)を。
(ふなきたけのり・百姓医者 王子北口内科クリニック診療部長 2025/07/21)
https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/chuu/kokugo/document/ducu7/c01-00-008.html 【第8回 正岡子規③ ――俳句とユーモア】より
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな 正岡子規 季語:糸瓜(秋)
切れ字:かな
〇子規の絶筆三句
子規、碧梧桐、虚子と続けてきたが、最後にふたたび子規で締めくくっておきたい。
子規は明治22年(1889)5月9日の夜、初めて喀血した。慶応三年(1867)生れの子規は明治という元号とともに歳をとったから22歳だった。
翌日医者に診てもらったら肺だと言われた。医師は結核とまではいわなかったが、もし結核なら不治の病である。その夜、再び血を吐いた彼は、深夜にかけて一気に、
卯の花をめがけてきたか時鳥 卯の花の散るまで鳴くか子規
などと四五十句もホトトギスの句を作った。卯の花もホトトギス(時鳥、子規)も初夏の景物だが、「啼いて血を吐くホトトギス」(ホトトギスが鳴くときに口中の鮮紅色が見えるので昔からこういうのだそうだ)の心である。「子規」という号もこの時定まった。
明治28年の大喀血については〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉の項で書いた。29年からは結核菌が体に回って脊椎カリエスを引き起こして病臥の日が多くなった。〈いくたびも雪の深さを尋ねけり〉はそういう中で詠まれたのだった。やがてまったく起き上がれなくなり、文字どおり「病牀六尺」の日々が続いた。(「病牀六尺」は35年5月5日から新聞「日本」に連載したエッセイのタイトル。)そしてついに、明治35年9月19日午前1時ごろ息を引き取った。俳句革新、短歌革新と、病苦の中で休みなく闘い続けた生涯だった。
亡くなる前日の9月18日の昼前、仰臥したまま、紙を貼った画板の左下を自分の左手で支え、画板の上の方は妹の律に持ってもらって、墨を含ませた筆を碧梧桐から受け取って書いたのがいわゆる「絶筆三句」だった。
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな 痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひの糸瓜の水も取らざりき
〇絶筆三句の構成
碧梧桐の証言では、休み休み、この順序で書いたのだそうだ。私にはこの順番がおもしろい。
いきなり、〈糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな〉
肺を病むと痰がたまる。その痰が喉に詰まって息絶えた「仏」。子規は自分をすでに死者としてながめているのだ。すべては終わった。私は死んだのだ。
「糸瓜」はただの季感を表示するだけの季語ではない。糸瓜の茎から採取する水には痰をきる薬効があるといわれていたのだそうだ。現に子規の家は小さな庭に糸瓜を栽培していた。(糸瓜の棚は今も東京根岸の子規庵にある。)つまり「糸瓜咲いて」は、散文的に意味をとれば「糸瓜が咲いたのに」という逆接、皮肉が含まれている。
ではなぜ彼は痰が詰まって死なねばならなかったのか。痰が一斗も出たからだ、糸瓜の水も間に合わなかったからだ、というのが第二句。さらに、なぜ糸瓜の水は間に合わなかったのか。一昨日の糸瓜の水を採取しなかったからだ、一昨日の夜は満月、満月の夜の糸瓜の水が最も効能があるといわれていたのに採取しそこねたのだ、というのが第三句だ。
つまり、この三句は、のっけに結末を提示し、以下、さかのぼって補足的にその原因を述べる、という構成になっているのである。私はすでに死んでしまった、なぜ死んでしまったのかといえば⋯⋯という順序だ。
思えば、子規という人は、大事な時は、いつもこういう順序で物事を述べた人だった。まず意表を突く大胆な結末(結論)の提示、次いでおもむろに原因(理由)の説明、というふうに。
たとえば芭蕉を論じた「芭蕉雑談」(明治26年)。
「余は劈頭に一断案を下さんとす。曰く、芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗と称すべき者は其何十分の一たる少数に過ぎず。否、僅かに可なる者を求むるも寥々れうれう晨星しんせいの如し〔*夜明けの星のように数が少ない〕と」
また、「歌よみに与ふる書」(明治31年)の冒頭。
「近来和歌は一向に振ひ不申まをさず候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候」そして「再び歌よみに与ふる書」(同前)の冒頭。
「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之これあり候」
「俳聖」芭蕉、和歌の典範と崇められてきた『古今集』と紀貫之、その権威を破壊する大胆な結論の提示だ。まさしく神話破壊者の高らかな言挙げ。大声一喝、読者の常識を打ち砕き、自説への注目を集める颯爽たるパフォーマンスだ。子規はこうと決めたら右顧左眄しない。単刀直入、まっすぐ核心に斬り込むのである。
子規は最後の三句でも同じスタイルを貫いていたのである。
子規は死の間際まで子規だったのだ、と思う。肉体は亡び間近でも、精神はなお衰弱していない、目前の死に屈服していないのだ、と。
〇ユーモアと客観的な見方
「痰のつまりし仏」は悲痛である。しかし、どことなくおかしみがあってユーモラスにも感じる。
そう思えば、二句目の「痰一斗」もちょっと滑稽だ。一斗は一升の十倍、約18リットル。もちろん誇張である。漢詩に長じていた子規のこと、いわゆる「白髪三千丈」(もとは李白の詩「秋浦歌」の一節。一丈は3メートル)式の誇大表現だ。だから、一面で悲痛さを強調しながらも、荒唐無稽なまでの誇張は反面で戯画化めいた効果をもたらすのだ。その効果を子規が自覚していないはずはない。
つまり、死を目前にしながら、子規は苦痛の中に埋没していないのだ。
実は子規は、明治22年の初めての喀血後に「喀血弁」という文章を書いていた。地獄の閻魔大王の前に引き出されて己が半生についてあれこれ陳弁させられる、という設定である。死を意識せずにはこんな文章は書けまい。事態は深刻だ。けれども、赤鬼青鬼や閻魔とのやり取りで進行するこれは戯文仕立てなのである。深刻さとユーモアが共存しているのだ。
さらに、死の前年である明治34年2月には「死後」という興味深いエッセイも書いていた。
死というものの感じ方には客観的と主観的の二種類あって、主観的の方は「自分が今死ぬる様に感じるので、甚だ恐ろしい」が、客観的の方は「自己の形態が死んでも自己の考かんがへは生き残つてゐて、其その考が自己の形態の死を客観的に見てをるのである」と始まる。主観的の方はたいていの人が体験しているだろうが、客観的の方は「其その趣」を解する人が少なかろう。「客観的の方はそれよりもよほど冷淡に自己の死といふ事を見るので、多少は悲しい果敢はかない感もあるが、或時は寧ろ滑稽に落ちて独りほゝゑむやうな事もある。」
以後、前年の夏に実践してみたという客観的な見方をつづっていくのだが、まず棺の隙間の詰物には何がよいか、おが屑はどうか樒しきみはどうか花はどうかなどと想像し、さらに、土葬の場合、火葬の場合、水葬の場合等々と続く。意識は残っているという設定なので、土葬は窮屈で感心しない、火葬は近頃の蒸焼き方式は息が詰まりそうだから勘弁してもらいたい、かといって水葬は泳げないから水をがぶがぶ飲みそうだし魚につつかれたり蛸に吸い付かれたりするのは嫌だ、いっそミイラにでもしてもらおうかと思うが浅草あたりで見世物にされるのはみっともないし⋯⋯と続くのだ。
子規のいう客観的はあくまで具体的、具象的である。「写生」の精神だといってもよい。その結果、エッセイ全体が戯文めいてきて、まさしく「滑稽に落ちて」おかしみが生じるという次第だ。ここでも子規は、死というものと向き合いながら、しかし、心のゆとりを失っていないのである。
つまり、絶筆の〈糸瓜咲いて〉は、死後の意識が「仏」になった自分を眺めているという設定において、この客観的な見方の実践にほかならないのである。
〇写生とユーモア
では、ユーモアを生みだす心の働きとはどういうものか。(以下は拙著『金子兜太 俳句を生きた表現者』で述べたことの簡略な再説である。同書では、俳句の笑いを俳諧の時代からの表現史として、イロニーやウィットなどとの区別も含めて論じておいた。参照していただければ幸いである。)
学生時代から子規の友人だった夏目漱石は、「写生文」(明治40年=1907)というエッセイで、写生文と普通の散文とは「作者の心的状態」が根本的に違うのだ、と述べて、「写生文家の人事に対する態度」は「大人が小供を視るの態度」「両親が児童に対するの態度」だと書いている。たとえば、子供は実によく泣くが、親は客観的に見てたいした問題でないことを知っているから、親の態度は「微笑を包む同情」になる。同様に、世事万端そういう態度――状況に埋没した当事者の立場を離脱した同情ある第三者の態度――で現実を見る写生文には「ゆとり」や「余裕」が生じるので「滑稽の分子を含んだ表現」になる、というのだ。
漱石は「ユーモア」という言葉を使ってはいないが、これがすぐれたユーモア論であることはまちがいない。しかも漱石は「かくのごとき態度は全く俳句から脱化して来たものである」とまとめているのだ。むろん、「写生文」は文章近代化の試みとして子規が提唱して始めたものである。
20世紀の精神分析学を樹立したフロイトも、漱石の「写生文」からほぼ20年後のエッセイ「ユーモア」(1928年)で、ユーモアは「大人が子供に対するような態度」、「子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみが、本当はたいしたものでないことを知って微笑している大人」(高橋義孝・池田紘一訳)の態度から発するのだ、と述べている。
フロイト用語では、子供が「自我」、大人が「超自我」に当る。「超自我」は子供に社会のルールや掟を躾ける支配者にして保護者たる両親(ことに父親)の権威が内面化されたもので、文化論的には一神教の「父なる神」に比定できる。
神の視点で自分を見るのだから、究極の客観視である。しかも、通常は自我に対する厳しい監視者、時には処罰者でさえある「超自我」が、めずらしくも自我への愛情や同情を示すところにユーモアは生まれるのだ。「超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から守ってやろうとする」のである。対象(この場合は自我自身)への愛はユーモアの必須の要件なのである。
もちろん漱石にも子規にもそんな一神教の神などいない。しかし、〈糸瓜咲いて〉の子規は、死者となった自分を死後の世界から見ている。究極の客観視である。この場合、「超自我」という一神教的超越者の役割を果たしているのは「自然」という観念だろう。「自然」が自己から離れて究極に引いた視点を可能にしたのだ。生死という人事上の大問題も自然の一現象として眺めるのは俳句(俳諧)の得意としたところだ。
〇運命への「反抗」としてのユーモア
フロイトは「ユーモア」で、月曜日に絞首台に引かれてゆく罪人が「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」とうそぶく場合を例に挙げていた。ドイツ語でいうガルゲンフモール(Galgenhumor)、絞首台のユーモアというやつだ。もちろん強がりである。日本語なら「引かれ者の小唄」という。だが、泣きわめかず、強がれるだけでもたいしたことなのだ。このとき、罪人の「自我」が「超自我」の位置に移行して、子供である自分自身の恐怖をなだめ、迫りくる死という運命を冗談で笑いとばそうとしている、だからユーモアには、ただのあきらめではなく、現実に対する「反抗」が含まれている、とフロイトは述べていた。
子規の絶筆三句についても同じことが言えるだろう。すでに述べたとおり、肉体は亡びかかっていても、子規の精神はちっとも衰弱していないのである。子規は、たじろぐことなく、死を見据え、精神として死に「反抗」し、恐怖をユーモアに変換しているのだ。
最後に紹介しておきたいことがある。
フロイトに学んだヴィクトル・E・フランクルという精神医学者がいた。第二次世界大戦中、アウシュヴィッツの絶滅収容所に送り込まれ、かろうじて生き延びたフランクルは、収容所内の悲惨な状況を記録し省察した『夜と霧』を出版したが、その中で、収容所にもユーモアはあった、と書いている。彼はいっしょに強制労働させられていた友人と、一日に一度でも「愉快な話」を見つけよう、と約束し実践したというのだ。
「もちろんそれはユーモアの芽のごときものに過ぎず、また数秒あるいは数分間だけのものであった。ユーモアもまた自己維持のための闘いにおける心の武器である。周知のように、ユーモアは通常の人間の生活におけるのと同じに、たとえ既述の如く数秒でも距離をとり、環境の上に自己を置くのに役立つのである。」(霜山徳爾訳)
ユーモアが人間としての尊厳と誇りを守ってくれた、というのである。
〇拙句
例によって「おほけなく」も拙句を。
短夜を腰の伸びたる仏かな (句集『天來の獨樂』)
1985年7月28日、祖母が亡くなった。日清戦争の年に生れて満90歳だった。(あとで確認したら、中上健次が描いた「オリュウノオバ」のモデル女性より三歳年下だった。)貧乏な家から貧乏な家に嫁ぎ、夫が病弱で早世したので朝から晩までわずかな田畑を這いずり回って生きた百姓女だ。乗り物に酔うので村から一歩も出たことがなく、村で生まれ村で生き村で死んだ。子守に追われて小学校にもろくろく行かず、読み書きができなかったが記憶力に秀で、昔話をいっぱい覚えていて、寝物語に聞かせてくれた。その素朴で野卑な昔話が私の「文学のふるさと」(坂口安吾)だ。晩年はすっかり腰が曲がっていたが、不思議にも亡骸の腰はまっすぐ伸びていたのである。
Jアラートさわぎ青瓢簞ぶらり (句集『をどり字』)
近所の小学校の菜園に糸瓜の棚と瓢簞の棚が並んでいる。糸瓜の方はまだ詠んだことがないので瓢簞の句を。
2017年8月29日朝6時、テレビを観ていたら、「Jアラート」(正式名称は「全国瞬時警報システム」というのだそうだ)がけたたましく鳴り、北朝鮮がミサイルを発射したから頑丈な建物や地下に隠れろと言う。初めてのことで驚いたが、本当に狙われたら警報から数分で着弾するだろうに、こんな警報に何の意味があるか、などとあれこれ思っているうちに10分も過ぎたので散歩に出たら、学校菜園にまだ青い瓢簞がいくつかぶら下がっていたのだった。なお、「青瓢簞ぶらり」には高田保の名エッセイ集のタイトル「ぶらり瓢簞」の残響がありそうだ。