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俳句に新味を求めることは可能か?

2025.09.23 04:46

Facebook長岡 美妃さん投稿記事

関西・大阪万博の日本館に行った。

2030年までに世界中でSDGsの達成を目標にしている。それぞれの国や企業や地域や個人で取り組みをしているが、なかなか難しい。お互いに矛盾する目標であったり、そもそも目標が曖昧であったり、先進国中心の基準であったり、、、。そんな中、SDGsをやり続けている文化があった。それが日本文化である。

万博の日本館は、その日本文化を体験させてくれる。

すべてを循環で捉え、生死が生活の中に溶け込んでいる。侘び寂びに美を観る感性は、他のどんな国にもないものである。

日本の循環は完全循環を可能にする。SDGsの「誰一人取り残さない」という原則を力むことなく実現させているのは、完全循環を可能にする「間」を知っているからである。

生と死の「間」、生成と分解の「間」、マクロとミクロの「間」、、、「間」はあらゆるものを繋ぐ。分離分断に見えるものはマクロの世界の錯覚であり、すべては「間」によって繋がっている。だからこそ、完全循環を起こすことができる。

他の国のパビリオンで「間」を窺えるところはなかったが、さすが落合陽一さんのnullでは、「間」が見事に表現されていて見入ってしまいしばらくその場から動けなかった。

日本が世界に伝えなければならないのは、「間」の文化である。

世界が境界線を引かずに繋がれる道は、「間」の認識であるということ。なぜ人類はいつまでも分離分断しか起こせないのかは、「間」が分からないからということ。

存在は実在ではない。「間」こそ、実在であるということを知っている日本が、本当のSDGsの実現を見せていく時がこれからなのだ。

https://2025-japan-pavilion.go.jp/magazine/backissues/issue12/feature01/ 【めぐりめぐる言葉の意味を辿って。「循環」からひもとく日本の美意識】より

循環-あらゆる思想に通底する「めぐりめぐる」価値観

生態系、微生物のはたらき、リサイクル……、月刊日本館では、私たちの生活の周辺にある様々な循環のカタチをご紹介してきました。

しかし、大きな疑問が一つ残されていることに気付きました。この「循環」という言葉は、いつ、どのようにして生まれ、現在のような意味を持つようになったのでしょうか…… ?

最終号となる本記事では、辞書編集者の神永曉(かみなが・さとる)さんに、日本らしい価値観を表す3つの言葉の由来と変遷をお聞きしました。変わりゆく自然や気候を表現する「四季」、人の世のはかなさやうつろいゆく様子をあらわす「無常」、そして変化するモノやコトもいつかは繰り返すという意味を持つ「循環」。

ぐるぐるめぐり、繰り返す。なぜこの概念が、私たちの価値観に根付くことになったのか。言葉を巡るタイムトラベルに出発です。

四季-言葉によって自然の美しさを捉える

「四季」を抽象的に表した図。

四季は日本の文化や価値観と密接に結びついています。「四季」という言葉はどのように日本に根付いてきたのでしょうか?

神永さん

四季は文字通り春夏秋冬という四つの季節を表す言葉です。1年を季節で区分して捉える考え方は中国などの東アジア地域でも見られますが、この四季をどう感じ、どのように表現してきたかという点から日本独自の美意識を知ることができます。

四季への感性は文学作品を通じて洗練されてきました。平安時代に清少納言によって書かれた『枕草子』の冒頭、「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる」はその代表的なものでしょう。日本では古くから季節の移ろいを細やかに感じ取り、言葉にしてきたのです。

言葉によって季節への感性が育まれてきたということですね。

神永さん

そうですね。日本語は季節を表す言葉にも、実に多様な表現があります。桜の花を例に取ると、散った花びらが川面に流れる様は「花筏」、花が散って葉だけが残った様子は「葉桜」。ほかにも「初桜」(咲き始め)、「花明かり」(夜に明るく見える花)、「花がすみ」(霞のように見える花)、「名残の花」(最後に残った花)など、時間の経過による変化を繊細に捉えた、表情豊かな表現がいくつも生み出されています。これらの言葉は、単に現象を描写するだけのものではなく、四季の移ろいを捉える日本人の視点や感性が投影されたものなのです。

また、それぞれの時期の自然現象や気候の特徴を表す「二十四節気」や、季節の行事を表す「五節句(1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽)」といった考え方も季節感を豊かにしてきました。移ろいゆく季節を言葉で捉える感性は、日本の美意識の中心にあるものと言えるでしょう。

無常-はかないからこそ美しい

「無常」を抽象的に表した図。

「無常」は日本的な美意識を表す言葉として知られています。これは、もともとどのような意味を持つ言葉なのでしょうか?

神永さん

無常とはこの世のすべてが移り変わり、同じ状態にとどまらないという意味の言葉です。日本での無常の使用例は非常に古く、奈良時代の『万葉集』にすでに登場しています。巻十六の「世間の無常を詠める歌二首」では人の命のはかなさや、いつ死ぬかわからない不確かさを表現するために用いられていました。

日本文学史の中で、無常という言葉はどのような変遷を辿ってきたのでしょうか?

神永さん

平安時代末期から鎌倉時代にかけては、貴族の世から武士の世へと移ろいゆき、治安の乱れも激しく、人々の不安が高まった時代。末法思想と呼ばれる現世を憂う考えが広まるなかで、文学における重要なテーマになった言葉が「無常」でした。鴨長明や兼好法師ら中世の僧侶によって書かれた隠者文学が、無常の解釈をさらに洗練させていきます。世の無常を観察し随筆を綴る過程で、彼らは世の無常を「はかないからこそ美しい」という美意識、つまり「無常観」へと昇華させたのです。『方丈記』冒頭の一節「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。」は、実によくその時代の空気を表していると思いませんか ?

はかなさに「哀しみ」ではなく「美しさ」が見出されたのですね。

神永さん

無常観は「わびさび」に代表される日本的な美意識や日本文化そのものにも影響を与えました。わびは質素で簡素な中に見出される美を指し、さびは古びた風情や冷え枯れた趣を美とする感覚のこと。これらの言葉の背景には、無常観に基づく「華やかさや完璧さよりも、不完全で移ろいゆくものの中に真実の美がある」という思想です。

茶道や禅の影響も受けながら、わびさびの美意識はさらに発展していきます。茶室の簡素な空間、枯山水の庭園、焼き物の歪みや欠けを愛でる感覚など、日本文化の様々な側面に表れていますよね。

また、日本語には「諦念(ていねん)」という言葉がありますが、これは「諦める=(見込みがないと断念する)」ではなく、「あきらめの境地に達すること」という意味を持っています。こうした言葉にも無常観からの影響が感じられますよね。時間とともに消えていくはかなさや、過去への哀しみは今日でも日本文学で繰り返し描かれる非常に重要なテーマとなっています。

循環-あらゆる思想に通底する「めぐりめぐる」価値観

「循環」を抽象的に表した図。

その上でお伺いしたいのが「循環」という言葉です。これはどのような語源を持つ言葉なのでしょうか?

神永さん

血液の流れ、生態系、リサイクルなど、いろんな分野で「循環」という言葉が使われていますが、本来的な意味は「めぐりめぐって元に戻る」こと。「循」は「従う」「付いていく」、「環」は「円形につないだ輪」を意味します。この二つが組み合わさって「玉のようにぐるぐると巡って途切れないこと」や「めぐりめぐってまた元の所へ帰ること」を表す言葉となりました。

循環は、もともと漢語からきています。唐の文学者、白居易の詩文集『白氏文集』に納められている『贈別楊穎士・盧克柔・殷堯藩』に「循環」という言葉が出てきます。これは白居易が旅の途中、楊穎士(ようえいし)・盧克柔(ろこくじゅう)・殷堯藩(いんぎょうはん)との別れに際して贈った詩。別れの悲しみが途切れず押し寄せる様を表しています。

「離憂繞心曲 宛転如循環」

訓読:(離憂(りゆう)心曲(しんきょく)をめぐり、宛転(えんてん)として循環(じゅんかん)のごとし)

訳:別れの悲しみが心の隅々までまとわりついていて、「循環」している(=ぐるぐるめぐって途切れようもない)かのようだ。

日本において「循環」という言葉が記録されている最古の文献は、平安時代に書かれた、菅原道真の漢詩文集『菅家文草』に収められている「五・賦葉落庭柯空(葉落ちて庭のえだむなしきを賦す)」。こちらも、心の動きを表すために用いられています。

「分任循環運、年如転轂衝」

訓読:分任、循環してめぐる、年(とし)は轂衝(こくしょう=車輪の軸/こしき)をまろばすがごとし

訳:分任(=役職)というものは「循環」していく(=めぐりめぐってまたもとのところに帰ってくる)、年が車輪の軸をぐるりと一回転させるようなものだ。

もともとは物理的な動きではなく、心や抽象的なものごとの動きを表す言葉だったんですね。

神永さん

そうですね。時代が下るにつれて、循環は物理的な移動や運動を表すように変化していきました。江戸時代の初期に出版された『日葡辞書』という辞書があるのですが、これは、キリスト教の宣教師の日本語習得のためにポルトガル語で説明した日本語の辞書で、これに循環に関する記載があります。当時の読み方としては「ジュンクワン」というものですね。ポルトガル語で書かれている説明を翻訳すると「天空の回転」や「血液が体の血管を通って自由に動くこと」を意味する、とあります。どのような経緯で物理的な動きを表す語になったのかは定かではないですが、江戸時代にはそのように用いられていたことは間違いないかと思います。

四季と無常という言葉にも「移り変わり」「繰り返す」という側面があったように思います。循環はもともと中国から入ってきた漢語ですが、日本の文化や価値観にも影響を与えた言葉なのでしょうか。

神永さん

日本文化においても「循環」は重要な要素です。例えば、日本庭園は流れる水や歩く人の視線が循環するように設計され、中でも回遊式庭園は、訪れた人が庭をめぐる間に様々な景色を楽しめるように工夫されています。茶道では亭主と客の間で茶碗が循環することに意味があり、同じ茶碗から茶を飲むことで心の交流が生まれるという考え方があります。

時代とともにその解釈は変化していますが、循環という言葉は日本的な価値観、美意識に通底した言葉として考えることができるでしょう。

ありがとうございました。

神永さん

日本の折々の自然の中での暮らしから生まれた「四季」への豊かなまなざし。はかなきものに美しさを見出す「無常」の美学。こうした土台のもとに、めぐりめぐって、いずれ元の場所に還っていく「循環」の価値観は根付いていたようです。そして現代では、「循環型社会」を目指して、日本だけでなく、世界中で「circular(循環)」が語られています。「循環」という言葉は、ますます新たな意味付けと進化を求められているのかもしれません。

FacebookYuichi Kaidoさん投稿記事

心底の秋

新古今和歌集と藤原良経にこだわります。

私たちの世代は、和歌は素朴な「写生」を実とする飛鳥・奈良時代の万葉集が素晴らしく、平安時代の紀貫之らの古今和歌集が、それに次ぐ、新古今和歌集は、技巧が過ぎて、和歌の本来の途に外れていると教えられました。柿本人麻呂や大伴家持は、十分技巧的だと思いますが、これが大和言葉の原点とされたのです。

これは、正岡子規の意見です。しかし、それが国の教科書にまで取り入れられ、いわば公定見解となってしまったのです。本当に罪深いことです。

私も、10年くらい前まで、この正岡子規意見を鵜呑みにし、万葉集ばかりを読んでおりました。

もちろん、万葉集はとても、素晴らしいとは思いますし、そこに、何も文句はないのです。日本における和歌文学の始まりの記念碑と言えるでしょう。中西進氏らの研究によって、万葉集にも、中国文化の強い影響がみられることがわかってきていますが。

ところが、あるとき、私は式子内親王の歌にふれるようになり、その歌集を読み、心の内に秘めた激情がほとばしり出るような、もっと言えば、切れば血が出るような歌がたくさんあることに驚き、心惹かれました。

そこから、新古今和歌集の全体を読み、藤原良経、俊成卿女、宮内卿なども、式子内親王に負けず劣らず素晴らしいと感ずるようになりました。新古今和歌集の歌の情景の切り取り方のざん新さ、研ぎ澄まされた感性に、すっかり魅せられたのです。

新古今和歌集は、明らかに、万葉集、古今和歌集に比べて、文学として発展している、もっと言えば、日本語文学の頂点と言えるのではないかと感じるようになりました。

そして、夭折した新古今の旗手といえる藤原良経に出会ったわけです。

良経の歌は、新古今和歌集に79首入撰しています。

入撰しているもの以外にもこんな歌があります。

散る花も夜を浮雲となりにけり 虚(むな)しき空を写す池水

明方の深山のはるの風さびて 心くだけと散る桜かな

寂しさや思ひよわると月見れば こころの底ぞ秋深くなる

以上三首は自撰の家集『式部史生秋篠月清集』より

さゆる夜の真木のいたやの独り寝に 心くだけと霰ふるなり

『千載集』冬より

「心くだけ」「心の底」が、目にとまりますね。

滅びゆく貴族社会の中枢で生きなければならない、そのためには普通の人生は捨てなければならない、そんな張り詰めた心=精神の極北が彼の二十歳前後で詠んだ歌の中に詠み込まれているのです。世捨て人「西行」と比べても、さらに厳しい緊張感がみなぎっていると思いませんか。

塚本邦雄氏の「新古今の惑星群」は、良経以外の歌人も取り上げていますが、圧倒的に「良経」を賞揚している本であり、さらに言えば、正岡子規の見解に挑戦し、新古今和歌集を復権させることが、日本文化の再建につながるとまで述べています。私も実は、この塚本氏の見解に賛同したいと思っています。

https://note.com/novalisnova/n/n5f157add0d96 【塚本邦雄『新古今の惑星群』】より

塚本邦雄の優れた解説者である島内景二は『新古今の惑星群』の解説を一九七〇年から刊行されていた『日本詩人選』(筑摩書房)のことから語り始めている

古典に目が向くようになって以来かつて刊行されていたこのシリーズをここ十年来古書店で求めながら読み始めているが素晴らしい

今後こうした充実したシリーズが刊行されることはおそらく望めないのではないかと思われる

(シリーズの何冊かはその後文庫化されて刊行されている)

今回主にとりあげた塚本邦雄『新古今の惑星群』はそんなシリーズのなかの一冊『藤原俊成・藤原良経』改題のうえ講談社文芸文庫として刊行されたものである

「新古今の惑星群」とは『新古今和歌集』という太陽系で惑星である歌人たちがめぐっているということ「太陽系の中心には、不動の恒星である太陽が存在する。

その太陽の引力に捉えられ、いくつもの惑星が軌道を描いて回り続け」ている

島内景二は「文学の太陽とは何か。詩歌の太陽とは何か」と問い

「「恒星としての太陽」が、時代と共に変容してきた」という

「近代日本における文学の太陽は、「自然主義」と「写生」であろう。

ところが、『新古今和歌集』の時代には、そうではなかった」

『新古今和歌集』という太陽系においては

その誕生時には「この勅撰和歌集を主導した後鳥羽院が太陽であり、藤原俊成という巨大な惑星があり、突如として光を放ち始めた藤原定家や藤原良経という新惑星が出現した。

家隆・俊成卿女・宮内卿・寂蓮・慈円というマイナーな惑星もあった。

また、西行という、惑星とは呼べない不思議な妖星も、この太陽系の内部に入り込み、人々の記憶に刻印された。」

けれども後鳥羽院が一二二一年の承久の乱で敗れ「太陽自体が脱出するという異常事態が起きた」

その後は「藤原定家が、いちはやく軌道を修正して、惑星から新たな太陽の位置に座」り

「平明・平淡を理念とする『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』という新惑星を加えて、この太陽系を変質させてしまう。」

この路線は中世における「古今伝授」の伝統となり「中世文化を開花させ、結実させた」が

時代を降り明治時代になって正岡子規がこの「太陽系を否定」し「『新古今和歌集』と藤原定家を太陽の位置から追放 その代わりに『万葉集』を太陽の位置に据え「写生」という太陽系を作り上げ現代にまで影響を及ぼしている

それに対して塚本邦雄は「「戦後日本文化」を再建し強化するに当たって、文化の太陽、文学の太陽、詩歌の太陽を、一挙に刷新しようとした」のだという

そのために自らが「太陽」の位置に座り文化の理念を『万葉集』から『新古今和歌集』へと引き戻し新たな太陽系を「創世」するために後鳥羽院に次ぐ「二番目の太陽だった藤原定家をも、塚本は総括する必要に迫られた」のだという

塚本邦雄には第二の太陽であった定家に関してさまざまな著作があるがその「惑星群」である

藤原俊成・藤原良経を中心として藤原家隆・俊成卿女・宮内卿・寂蓮・慈円について論じられたのが本書となっている

そのなかから俊成論のなかでの「幽玄」をめぐる視点が興味深いので最後に少しだけ

本書では俊成論に半数ほどの八章を費やしているが

その結論というのは

「「幽玄」という詩歌の理念」は「実体のない幻に過ぎなかった」というものだった

「幽玄とは作品の中にあるなにものかではなく享受者の心の翳に過ぎぬ」

故に「刻薄厳正な歴史の眼」こそがその「幻」を「幽玄」と見せているのだと

それは俊成の「幽玄」だけにかぎらず定家の「有心」・子規の「写生」・島木赤彦の「鍛練道」斎藤茂吉の「実相観入」・そして塚本自身の「幻視」もまた同様の「実体のない幻」である

しかしながら「幻」であるがゆえにこそ「歌とはなにか」が論じられ歌われなければならない

「「相容れない文学理念を持つ者同士は、互いへの不信感と憎悪をぶつけ合って激論を交わす。そのうち論敵を批判する言葉が、自分自身の文学観をも切る「諸刃の剣」であったことに気づく。

毛嫌いしていた相手の歌にも、自分が求めていた理念が含まれていることも知る。

そして、そこから、第三の新しい道が姿を現してくる。」

そうした「諸刃の剣」を経た彼方にこそ「俊成や定家の求めた「歌」があり、未来のあるべき「歌」がある」ということなのだろう

果たしてその新たな道は姿を現してくるだろうか

その道を見つけられるようにするためにもかつての「太陽」そして「惑星」を

みずからの内に見出せるようにする必要がありそうだ

ちなみに参考までに引用してあるが『新古今和歌集』の仮名序は藤原良経が書いている

■塚本邦雄『新古今の惑星群』(講談社文芸文庫 2020.12)

■佐佐木 信綱校訂『新訂 新古今和歌集』 (岩波文庫 1959/2)

■渡邉裕美子『藤原俊成』(コレクション日本歌人選063 笠間書院 2018/12)

■村尾誠一『藤原定家』(コレクション日本歌人選011 笠間書院 2011/3)

■吉野朋美『後鳥羽院』 (コレクション日本歌人選028 笠間書院 2012/3)

■小山順子『藤原良経』 (コレクション日本歌人選027 笠間書院 2012/1)

(塚本邦雄『新古今の惑星群』〜「Ⅰ藤原俊成 1幽玄考現學・あはれ幽玄」より)

「俊成は歌學上の美的理念「幽玄」の名付親であつた。釋阿を語ることはすなはち幽玄を釋くことに盡きよう。そして幽玄を解くことは王朝末期の和歌の秘奥を探ることに他ならず、ひいては「八代集」は申すに及ばず『伊勢』、『源氏』、『狭衣』を初めとする諸物語を究めねばなるまい。」

(塚本邦雄『新古今の惑星群』〜「Ⅰ藤原俊成 3架空9番歌合」より)

「作品價値判定基準などつひにいづこにも存在しない。幽玄とは作品の中にあるなにものかではなく享受者の心の翳に過ぎぬ。是も非も優も劣も勝も負も持も決めるのはただ一つ刻薄厳正な歴史の眼であたう。その眼、それこそしたたかな衆議判に他ならずこれにはいかなる陳状も通じることはない。」

(塚本邦雄『新古今の惑星群』〜島内景二「解説/冥王塚本邦雄と『新古今和歌集』、そして現代日本」より)

「本書は、『藤原俊成・藤原良経』として、筑摩書房から一九七五年に刊行された『日本詩人選』の一冊である。シリーズ番号は23。

 この「日本詩人選」からは、大岡信『紀貫之』(一九七一年)。吉本隆明『源実朝』(一九七一年)、丸谷才一『後鳥羽院』(一九七三年)などの話題作・問題作が相次いで刊行され、読書界に「古典復興」が大きなうねりを起こしつつあった。古典和歌から現代文明を撃つことが可能であるどころか、閉塞した社会状況を打開する最も有効な手段であることを、「日本詩人選」は示した。」

「標題には俊成と良経の二人の名前を含んでいるが、実際には、藤原家隆・俊成卿女・宮内卿・寂蓮・慈円も含まれている。

 今般、文芸文庫に収録するに際して、『新古今の惑星群』と改題され、塚本邦雄の信念である「正字正仮名」へと表記が一新された。これによって、「日本詩人選」の圏外に脱したと言える。本書は完全な意味での「塚本邦雄の本」となり、本書から、二十一世紀の詩歌のビッグバンが開始する。

 ビッグバンにふさわしく、新しいタイトルには「惑星」という天文学用語が含まれている、塚本には『されど遊星』という歌集があるように、天文に関心が深かった。

 太陽系の中心には、不動の恒星である太陽が存在する。その太陽の引力に捉えられ、いくつもの惑星が軌道を描いて回り続ける。惑星の引力によって捉えられた衛星もある。太陽系には時折、彗星も紛れ込み、逃れでてゆく。

 文学の太陽とは何か。詩歌の太陽とは何か。重要なのは、「恒星としての太陽」が、時代と共に変容してきた事実である。

 近代日本における文学の太陽は、「自然主義」と「写生」であろう。ところが、『新古今和歌集』の時代には、そうではなかった。

 一二〇五年に成立した『新古今和歌集』という太陽系に関して言えば、この太陽系が誕生した時には、この勅撰和歌集を主導した後鳥羽院が太陽であり、藤原俊成という巨大な惑星があり、突如として光を放ち始めた藤原定家や藤原良経という新惑星が出現した。良経は、すぐに詩歌の夜空から消滅した。家隆・俊成卿女・宮内卿・寂蓮・慈円というマイナーな惑星もあった。また、西行という、惑星とは呼べない不思議な妖星も、この太陽系の内部に入り込み、人々の記憶に刻印された。

 後鳥羽院は、一二二一年の承久の乱で敗れた後、流された隠岐にあって、『新古今和歌集』を選び直した。このため、『新古今和歌集』の太陽系を、太陽自体が脱出するという異常事態が起きた。

 だが、「中世日本文化の王」たらんとした藤原定家が、いちはやく軌道を修正して、惑星から新たな太陽の位置に座った。

 『新古今和歌集』という太陽系の新たな太陽となった定家は、平明・平淡を理念とする『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』という新惑星を加えて、この太陽系を変質させてしまう。この平板化路線は、中世の「古今伝授」の伝統となって、茶道や華道や建築などの諸分野で中世文化を開花させ、結実させた。

 近代の正岡子規は、この太陽系を否定して、『新古今和歌集』と藤原定家を太陽の位置から追放した。替わって『万葉集』を太陽として、「写生」という新しい日本文化の太陽系を作り上げ、現代に至っている。

 塚本邦雄は、「戦後日本文化」を再建し強化するに当たって、文化の太陽、文学の太陽、詩歌の太陽を、一挙に刷新しようとした。それには、『万葉集』から『新古今和歌集』へと、もう一度、文化の理念を引き戻すしかない。そして、「太陽」の位置には、自らが座るしかない。最初の太陽だった後鳥羽院をしのぐ「文学理論」で、戦後日本に最もふさわしい太陽系を「創世」しようとした。二番目の太陽だった藤原定家をも、塚本は総括する必要に迫られた。」

「塚本が本書で藤原俊成を見る目は、まことに辛辣である。なぜならば、俊成は「メジャー」であり、和歌史において一時代を築いたがゆえに、現代歌人として乗り越えねばならぬ古典歌人だからである。

 和歌史・短歌史には、明らかな事実がある。それは「歌聖」と呼ばれるほどのメジャー歌人は、和歌・短歌の実作に優れているだけでなく、「歌論」と呼ばれる短歌理論書を書き残している、ということである。紀貫之、藤原公任、藤原俊成、そして藤原定家は、いずれも創作と評論を連動させて、文学の世界を拡大させ、文学の宇宙を膨張させていった。しかも、俊成の場合には「幽玄」、定家の場合のは「有心(うしん)」という、彼らが詩歌に求めた究極の目標が、歌論の核心になっている。近代でも、正岡子規の「写生」、島木赤彦の「鍛錬道」、斎藤茂吉の「実相観入」、そして塚本自身の「幻視」などがある。

 歌とは何か。何を求めて歌人は歌わずにいられないのか。「歌を詠む」ことに自覚的であるかどうか、韻文である歌の価値を散文である歌論で表現できるかどうかが、メジャーとマイナーを分かつ。けれども。歌人の書いた「歌論」は、その歌人の「実作」を常に裏切り続ける。本書は、俊成の歌論と実作を精緻に分析しながら、詩歌の生命力の根源に迫ってゆく。」

「俊成論に八章を費やして、塚本が達したのは、「幽玄」という詩歌の理念が実体のない幻に過ぎなかったという結論である。ならば、有心も、写生も、実相観入も、幻であろう。「幻視」にあたっては、最初から幻そのものである。

 歌人塚本邦雄は、晩年、「歌」そのものをテーマとして歌うことが多かった。歌とは何かを歌い、歌論でも論じる。形而下の「言葉」を使って、形而上の「何か」を希求して歌い、かつ論じる。その彼方に、俊成や定家の求めた「歌」があり、未来のあるべき「歌」がある。」

(新古今和歌集序)

やまと歌は、むかし天地ひらけはじめて、人のしわざいまださだまらざりし時、葦原中つ國の言の葉として、稻田姬、素鵞[すが]の里よりぞ傳はりける。しかありしよりこのかた、その道さかりにおこり、そのながれいまに絕ゆることなくして、色にふけり心をのぶるなかだちとし、世を治め民を和らぐる道とせり。かかりければ、代々の帝もこれを捨てたまはず、撰びをかれたる集ども、家々のもてあそび物として、言葉の花、のこれる木のもとかたく、思の露、漏れたる草隱れもあるべからず。しかはあれども、伊勢の海淸き渚の玉は、拾ふとも盡くることなく、いづみの杣しげき宮木は、曳くとも絕ゆべからず。物みなかくの如し。歌の道またおなじかるべし。これによりて、右衞門督源朝臣通具、大藏卿藤原朝臣有家、左近中將藤原朝臣定家、前上總介藤原朝臣家隆、左近少將藤原朝臣雅經らにおほせて、昔今の時を分たず、髙き賤しき、人を嫌はず、目に見えぬ神佛の言の葉も、うばたまの夢に傳へたることまで、廣く求め、普く集めしむ。各撰び奉れるところ、夏引の絲の一筋ならず、夕べの雲のおもひ定めがたきゆゑに、綠の洞、花かうばしきあした、玉の砌、風凉しきゆふべ、難波津のながれを汲みて、澄み濁れるを定め、淺香山の跡をたづねて、深き淺きをわかてり。萬葉集に入れる歌は、これを除かず、古今よりこのかた、七代の集にいれる歌をば、これを載することなし。但、詞の園に遊び、筆の海を汲みても、空飛ぶ鳥の網を漏れ、水に住む魚の釣を脫れたるたぐひ、昔もなきにあらざれば、今もまた知らざるところなり。凡て集めたる歌、二ちぢ二十卷、名づけて新古今和歌集といふ。春霞立田の山に、初花を忍ぶより、夏は妻戀ひする神なびの時鳥、秋は風に散る葛城の紅葉、冬は白たへの富士の高嶺に雪つもる年の暮まで、みな折にふれたるなさけなるべし。しかのみならず、髙き屋に遠きを望みて、民の時を知り、末の露もとの雫によそへて人の世を悟り、玉鉾の道の邊にわかれを慕ひ、天ざかる鄙の長路に都を思ひ、髙間の山の雲居のよそなる人を戀ひ、長柄の橋の浪に朽ちぬる名を惜しみても、心うちに動き、言葉ほかにあらはれずといふ事なし。況んや住吉の神は片そぎの言の葉を殘し、傳敎大師はわがたつ杣のおもひをのべ給へり。かくの如き、知らぬ昔の人の心をもあらはし、行きて見ぬ境の外の事を知るは、ただ此の道ならし抑々昔は五たび讓りし跡をたづねて、天つ日嗣の位に備はり、今はやすみしる名をのがれて、はこやの山にすみかをしめたりといへども、すべらぎは怠る道をまもり、星の位は政をたすけし契を忘れずして、天の下しげき言わざ、雲の上のいにしへにも變らざりければ、萬の民、春日野の草の靡かぬかたなく、四方の海、秋津洲の月しづかに澄みて和歌の浦の跡を尋ね、敷島の道をもてあそびつゝ、この集を撰びて、永き世に傳へむとなり。彼の萬葉集は、歌の源なり。時移り事隔たりて今の人知る事かたし。延喜の聖の御代には、四人に勅して古今集を撰ばしめ、天曆のかしこき帝は、五人におほせて後撰集をあつめしめ給へり。その後、拾遺、後拾遺、金葉、詞華、千載等の集は、皆一人これをうけたまはれる故に、聞きもらし、見及ばざるところもあるべし。よりて、古今後撰のあとを改めず、五人の輩[ともがら]を定めて、しるし奉らしむるなり。そのうへ、みづから定め、てづからみがけることは、遠くもろこしの文の道をたづぬれば、濱千鳥跡ありといへども、我が國、やまと言の葉の始まりてのち、呉竹の世々にかかる例なんなかりける。このうち、みづからの歌を載せたること、古きたぐひはあれど、十首には過ぎざるべし。しかるを今かれこれ選べるところ、三十首にあまれり。これみな、人の目たつべき色もなく、心とどむべきふしもありがたきゆゑに、かへりていづれとわきがたければ、森の朽葉かずつもり、みぎはの藻屑かき捨てずなりぬることは、道にふけるおもひ深くして、後のあざけりを顧みざるなるべし。時に元久二年三月廿六日になんしるしをはりぬる。目をいやしみ、耳を尊ぶがあまり、いそのかみ古き跡をはづといへども、流れを汲みて源を尋ぬる故に、富の小川の絕えせぬ道を興しつれば、露霜は改まるとも松吹く風の散りうせず、春秋はめぐるとも、空ゆく月のくもりなくして、この時に逢へらむものは、これを喜び、この道を仰がむものは、今を忍ばざらめかも。

https://seitokushodou.localinfo.jp/posts/7159655/ 【長谷川櫂「間の文化」と書表現の「間」】より

 中学校三年生「現代の国語3」(三省堂の教科書)に長谷川櫂(俳人)さんの「間の文化」の単元があります。

 これは俳人の長谷川櫂さんの『和の思想』という著書の中の第四章「間の文化」という一章です。この評論の学習では「間」を観点にして,我が国の文化の特徴を西洋との対比によって論じる文章を読むことをとおして,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会 の平和と発展に寄与する態度を養うことをねらいとしています。(三省堂 編集趣意書より)

 この単元での論旨の紹介と、日本の文化における「間」や、我が国の文字文化である書道の表現における「間」について、整理・考察したいと思います。

1 長谷川櫂氏 『和の思想』 第四章「間の文化」(中公新書)の論旨

あらすじ

 和食、和服、和室…、「和」はいろいろな言葉に添えられて日本的という意味を付け加えているにすぎないようにみえます。だが本来、和とは、異質のものを調和させ、新たに創造する力を指します。倭の時代から人々は外来の文物を喜んで迎え、選択・改良を繰り返してきました。漢字という中国文化との出会いを経て仮名を生み出したように。和はどのように生まれ、日本の人々の生きる力となったのか。豊富な事例から和の原型に迫っています。

 第四章「間の文化」では、著者は草月流の花道家に「生け花とフラワーアレンジメントはどう違うのですか」と尋ねてみたそうです。すると、「フラワーアレンジメントは花によって空間を埋めようとするのですが、生け花は花によって空間を生かそうとするのです」という明快な答えが返ってきました。そのとき、著者は「この答えは生け花とフラワーアレンジメントの違いをいいえているだけでなく、日本の文化と西洋の文化の違いにも触れているのではないか」と思ったといいます。

 そして、著者は「間」の文化というものに気づき、次のように述べています。

 「生け花は花を生かすと書くのだから花を生かすのはいうまでもないが、『フラワーアレンジメントとどこが違うのか』という私の疑問に対する『花によって空間を生かす』という即答は花を生かすことによって空間を生かし、その花によって生かされた空間が今度は逆に花を生かすということなのだろう。このように日本の生け花では空間は花によって生かすべきものであって、フラワーアレンジメントのように花で埋め尽くすものではない。花とそのまわりの空間は敵対するものではなく、互いに引き立てあうものとしてある。その花の生けられる空間とはいうまでもなく私たちが呼吸をし、生活をしている空間である。それはそのまま、間といいかえていいものなのだ」

 さらに著者は、「間」の文化について以下のように述べます。

 「こうして日本人は生活や文化のあらゆる分野で間を使いこなしながら暮らしている。それを上手に使えば『間に合う』『間がいい』ということになり、逆に使い方を誤れば『間違い』、間に締まりがなければ『間延び』、間を読めなければ『間抜け』になってしまう。間の使い方はこの国のもっとも基本的な掟であって、日本文化はまさに間の文化ということができるだろう」

 日本画と西洋絵画を比べた場合、余白や沈黙というものに対する日本と西洋の考え方の違いが横たわっているとして、著者は次のように述べます。

 「西洋絵画の場合、絵は絵である以上、絵の具で埋め尽くされていなくてはならない。なまじ余白などあれば、それは未完成の絵とみなされてしまう。芸術家は全能の神のように絵を創造するのだから、その手の及ばない余白など決しであってはならない。『松林図屏風』で等伯が描いた松の間のいきいきとした余白などはじめからありえないのだ。

 西洋音楽の場合も同じで、それが音楽であるためには音で埋め尽くされていなくてはならない。沈黙など決してあってはならない。おそらくバッハもモーツアルトもそう考えていたにちがいない」

2 日本語の「間」について

 長谷川櫂さんの『和の思想』 第四章「間の文化」を読み、日本語の「間」ということばにはいくつか意味があることを再認識しました。

「間」には、①物的空間、②時間的空間、③心理的空間がありますが、物的空間の最たるものは建物の間取りとしての、茶の間、床の間、客の間、空き間などというときの「間」などがあります。

(1)物的空間としての「空間的な間」

 物的空間としての「空間的な間」とは「物と物のあいだの何もない空間」のことで、西洋の家屋は個室で組み立てられ密閉されていて、個人主義が生まれてきた背景がよくわかります。

 一方、日本の住居と言えば壁が少ないのが特徴で、壁の代わりに襖だとか障子で仕切ります。日本の住居は、「夏をむねとすべし」が基本で、襖や障子は取り外せば広い空間となり風通しがよくなるようになっていました。

 日本の家は、床と柱と屋根でできていて、建具で仕切ります。建具は季節とともに入れたり外したりできますし、住人の必要に応じて分けたり大広間にしたりと、昔から自分たちの家の中の空間を自由自在につないだり仕切ったりして暮らしてきました。

 日本の夏は毎年猛暑の連続で、いまはエアコンがありますから、現代の日本の生活でっはむしろ壁で囲まれた部屋が多くなっています。時代がかわると、生活習慣、文化まで変わるという典型のようになってきました。     

(2)「時間的空間」の「間」

次に「時間的な間」があります。

 これは「何もない時間」のことです。芝居や音楽では音のしない沈黙の時間のことを間といいます。

 西洋のクラシック音楽はさまざまな音によってうめつくされていますが、それにひきかえ、日本古来の音曲は、音の絶え間というものがいたるところにあります。

 西洋の交響曲も、四重曲も、音が絶え間なくつながっています。とくにオーケストラ演奏ともなると音がにぎにぎしいですが、日本の音曲には「間」があります。

 太鼓、鼓、琴、三味線、いずれも弦こすって音を出すのではなく、叩いたり、はじいたりして音を出すから、「間」が生じます。舞踊にしてもしかり。西洋のバレエと日本舞踊では「間」が歴然として異なります。

(3)「心理的な間」

 空間的、時間的な間の他にも、人や物事とのあいだにとる「心理的な間」というものがあります。誰でも長短さまざまな心理的距離をとることによって、はじめて日々の暮らしを円滑に運ぶことができると述べられています。

 長谷川櫂さんの「間の文化」では、日本人は生活や芸術や人間関係のあらゆる分野で間を使いこなしながら暮らしており、「間」の使い方はこの国の最も基本的な「掟」であって、日本文化はまさに「間の文化」といえる、と述べています。

また長谷川櫂さんは、日本の家と西洋の家、日本の音曲とモーツァルトの音楽などを対比しつつ日本の間の文化について論じています。

間に合う。間ちがい。間延び。間抜け。・・・・・

「間」を使った日本語は数多く、「間」を理解しない者は蔑まれる…………

長谷川櫂さんの「間の文化」という評論は、実に論理明解な日本文化論です。

伝統的な日本の芸術、日本の文化にあるものは、「間の文化」であると論を整理しています。

2 書道における「間」について

 ここで書道における「間」について考えたいと思います。

 書道の学習における「間」とは、「間架結構法(かんかけっこうほう)」と「余白」の二点と考えます。

 この二つは書の美を構成する重要な要素であり、その意味では長谷川櫂さんの「間の文化」という評論の内容も書に表現に合致しています。

(1)間架結構法(かんかけっこうほう)

 間架結構法(かんかけっこうほう)とは、用筆の一種で、点画の開け方と点画の組み合わせ方を考えて書くこと。間架が点画と点画の間隔の取り方、結構が字形をまとめることを意味します。

(2)余白の美

 余白の美とは文字の中にある空間、文字と文字との間に存在する空間、行と行との行間などをさします。

書は『 線質 』とともに『 余白の美 』だとされます。

書芸術は基本的には、白黒、そして落款印の朱の3色でしか構成されていないため、余白が如何に重要かは、そこからも分かります。

(3)書の表現における「間」

 「間」は書道では最も重要な役目をしています。

 瞬間芸術、時間芸術、と言われる分野、つまり書や音楽と云った、時間の流れの中で制作、或いは演奏される物に於ては、間は作品の命運を掛けています。

 音楽で言えば音と音の間、そして音の高低が命です。

 書で言えば文字と文字の間、一つの線から、次の線へ移る空間、つまり目に見えないが連動した筆脈の事、そして音の高低が、線の抑揚が書の生命でもあります。

 これらを考えると、如何に見えない部分が重要な役目をしているかが分かります。

 作品制作に於て、ただ紙面上に書くと云う行為だけでなく、書かない部分の余白、空間を如何に活かすかが作品の決め手になります。

 清々しく生かした「間」の取り方は高潔な品格を生み出し、余白の広がりは軽快な筆捌きから生じる穀然とした線質の表情を作り、襟を正させることを感じることもあります。

 したがって、書の学習では、書く時の態度に加え、筆の動き方や時間の流れや「間」を意識した書き振りが美しい動きのある書を生み出す要素であり、その意味からも正しい姿を崩さず足を踏み外さない表現により生み出される書の「間」の絶妙さは単なる技法の芸術でなく、 心の芸術であるといえると思います。

 高等学校教科書で紹介されている以下の作品では、筆の動き方や時間の流れや「間」を意識した書き振り、余白、作者の意図などを鑑賞していきます。

手島右卿の代表作として知られる「崩壊」 1957年

一般財団法人 光ミュージアム

〒506-0051 岐阜県高山市中山町175

HIKARU MUSEUM 手島右卿記念室 展示作品より