Heiner Müller の 部屋~生誕90年~
ベルリン新聞 2019年1月9日 ミュラー生誕90年の命日に ペトラ・コーゼ
傷の番人~~彼はその咳払いさえも信頼できる男だった。
今日で生誕90歳になっていたはずだ。
ハイナー・ミュラー:詩人で劇作家、神託にして聖像イコンルビ(1929~1995)
壁の崩壊の翌朝、劇作家ハイナー・ミュラーはアメリカへ飛んだ。NYでハイナー・ゲッベルスの公演に登場するためだ。距離が必要だった。東ベルリンの芸術家たちによって組織されたアレクサンダー広場での大規模のデモの際に、何を言うべきか分からなかった彼は、たまたま誰かに手渡された自由労働組合設立への呼びかけのチラシを読んだのだが、それは、つい1週間前のことだった。
聴衆からブーイングが巻き起こった時、ミュラーはさすが演劇人、それを制止して、自分の無尽の名台詞集から去り際の笑いを引き出す落ちの名句で、こう結んだ、「もし来週、政府が退陣したら、このデモ集会で踊ってもいいですね」。そして実際に、人々が踊っていたその時、あの時代に、おそらくは今この時代にも、ドイツ語の最も重要な劇作家である男は、空港に向かうタクシーに乗っていた。東ドイツ市民でありながら近年は海外渡航を許されていた彼にとっては、何ということではなかった。しかし繪面としては逃亡だ。生活が来て、芸術が去る。
数日後、1989年の11月第2週か、ハイナー・ミュラーはNYで、カナダ放送局からベルリンでの出来事について英語でインタビューを受けた。外国語であるという壁を毅然と使って、自分の心配をこう表現したのだ、東ドイツ人の生活では、椅子取り競争で自分の場を得るために今はお金が重要な意味を持つ、そして多分次に学ばなくてはならないのは、民主主義とは何かということだ、“Now I have to learn to breathe the air of democracy ”。
もっとましな問い
ハイナー・ミュラー:神託。殆ど訛りはないが柔らかなザクセン方言、親切で、ぶれない。質問されればいつもその答えを自在に返せる人だった。答えがない場合にさえ、おそらくもっとましな問いが返ってくる。ハイナー・ミュラー:流動的な岩壁。核心をつぶやく人、しょっちゅう咳をする人、飾らない、けど気取りの人、仮借ない、けど厳しい批判はしない。ただいつも傷はむき出し。ハイナー・ミュラー:ドイツで23年前に逝去、今日で生誕90歳。さて、どこから始めよう?
壁が崩壊した時には、彼はすでに伝説で、聖像イコンルビ(黒縁メガネ、葉巻にウイスキーグラス)だった。東側では状況の批判者、部分的には東独に忠誠をもつ執筆禁止の作家(『女移住者』『モーゼル銃』)。西側では、公立劇場のさらさら流れる河床の色とりどりの砂利石のなかに80年代初めに畏敬の念をもって落ちてきた太古の隕石。過去の方向への地平線を切り拓いた黒光りする隕石。
彼のテーマは、裏切り、兄弟殺し、慈悲のなさ。感謝や忘却のないこと。歴史の犯罪は救済を願ってはならないほど幾度も繰り返し起こること。ニーベルンゲンからプロイセン、スターリングラードと総統の防空壕を経て、東ドイツ農業生産組合LPGまで、悪意ある道化芝居を挟み込んで、どの物語にも、殆ど宿命論嗜好かというほど道徳的に最悪の可能性をもつ転換がある(小説『鋼鉄の十字架』においては、ナチスが戦争末期に「無慈悲な生」をさせまいと自分の妻と娘を撃ち殺しながら、一人で林間の空き地で拳銃を投げ捨て逃げ去る、自分の状況も「希望がない訳ではない」ことを知って)。あるいは、「これが世界の流れだ、そこから逃げたとて、世界は屠殺場なんだよ、兄弟」(『ゲルマーニア、ベルリンの死』1956/71)。
ミュラー自身は、言葉においてはドイツ古典作家につながっているとみなしている。若いころ熱心にシラー研究にはまった痕跡がある。クライストやビュヒナー、ブレヒトの響きも一貫している。軍隊的に簡潔な、音楽的に置かれた言葉が場面的にコラージュされた高度の文学化。反心理主義的、唯物的、しかし悪意の永遠性がない訳ではない。「スターリン:誰がドイツ人か/アジアの西の淵の一握りの小動物さ(…)、最後の勝利者は死だ」(『ゲルマーニア3 死者にとりつく亡霊たち』1995)。
90年代にはこういう石から彫られたような、しかしポストモダン的な言葉の吸引力が大きくなり、新しいミレニアムになると情念的なものが次第に反感を持たれるようになり、進歩否認がどこかコケットに思われるようになった。今それがまさにまた変わりつつある。形式の美が前面に出て来ている。主観的な言い方になるかもしれないが、ミュラー受容は毎年コンスタントに数十の上演があり、その影響は途切れてはいない。「ミュラーのメディアにおける生き残り」についての刊行も見事にまとめられている(『マテリアル:ミュラー』 フェアブレッヒャー出版社、2018 )。
マテリアル:社会
マテリアルとしてすべてから了解されることももちろんミュラー受容だ。しかし彼の最も重要なマテリアルは、彼が生きた社会であった。何故彼は、彼の両親が弟や家族とともに1951年に西側に移住した時も東に残ったのか。1995年にフランク・シルマッヒャーとの対話で語っている:「私は何の機能も持っていなかった。アウトサイダーで居ることができたし、それについて書くこともできた。」(”ミュラーMP3” 2011 アレクサンダー出版社)。ただ「アウトサイダー」ということは、国家保安局に存在する「IM ミュラー」一件で反駁され得る。しかしミュラー自身は、1989年10月にこうも語っている、「僕は失敗など全くしないような人たちというのは、いささか不安でね」。
ミュラー:ドイツ。彼は芸術的には東ドイツを糧・源泉に生きて来たから、その最後に関しては何もいうことはなかったし、実際に劇作家としては沈黙していた。1995年に『ゲルマーニア3』で少しだけ閃かすまでは。演出家としての仕事も芸術的には未来に向かってはいなかった(たとえマルティン・ヴトケが『アルトゥロ・ウイ』で舞台に立ち続けてはいても)。しかし彼は、権威として、傷の番人として、問題提起者としてたがわぬ用意のある人として、必要とされたのだ。1990年に東の芸術アカデミーの最後の総裁となった。1992年にはベルリーナー・アンサンブルの東西合同芸術監督の一人になり、晩年の対話・対談の数は計り知れないほどだ。
ハイナー・ミュラーが1995年12月30日に喉頭がんで逝去したとき、ベルリーナー・アンサンブルは幾日にもわたって彼の作品を上演し続けた、過去のない未来に反対するハプニング、あるいは嘆願、保証として、――確かに実際にそういうもの/過去のない未来は、おそらく現在も、ありえない。