2月7日 コザで、映画『米軍が最も恐れた男〜その名は、カメジロー』を観る
沖縄市コザ地区にある映画館・シアタードーナツで、映画『米軍が最も恐れた男〜その名はカメジロー』(2017年8月公開)を観た。
監督は、かつてTBSの報道番組『NEWS 23』のキャスターを務めていた佐古忠彦氏。音楽に坂本龍一、語りは俳優の故大杉漣。
本作は、佐古氏がディレクターとして参加した2016年8月21日放映のTBSのドキュメンタリー番組、『報道の魂スペシャル「米軍が最も恐れた男~あなたはカメジローを知っていますか?〜」』に追加取材・再編集を行ったもの。
沖縄を皮切りに全国各地で上映され、高い評価を受けており、今回沖縄に一年半ぶりに凱旋上映されている。
タイトルにある「カメジロー」とは、戦後沖縄の政治家・ジャーナリスト、瀬長亀次郎のこと。
彼については、沖縄に来てから読んだ沖縄戦後史に関する本で、「占領下の沖縄で、アメリカ当局に睨まれ、那覇市長をたった11ヶ月で辞職させられた人」であることが強く印象に残っていた。
今回、コザの近くに来ていたKY夫婦は、偶然ネットでこの映画の上映を知り、本日鑑賞する運びとなった次第である。
コザ一番街にあるシアタードーナツは、小さなビルの2階にあり、入り口のオープンスペースが喫茶店になっている。
映画館というよりは「映写室」に近い広さで、テーブルとソファーが配置され、アットホームな雰囲気。ここでは沖縄に関係する作品を多く取り上げており、商業ベースに陥らない作品を、コーヒーやドーナツを食べ、くつろぎながら映画を鑑賞できる。
なぜ沖縄の人々は声を上げ続けるのか、その原点はカメジローにあった。
戦後、米軍の占領下に置かれた沖縄の現代史において、カメジローは「米軍にNOと言った『不屈』の男」として、伝説の人物として長く語り継がれている。
当時、講演すれば万を超える聴衆を魅了し、「自分たちの気持ちを代弁してくれた」と、日頃の米軍の占領政策に疑問を持ち、苦しめられてきた沖縄県民の溜飲を大いに下げた。
カメジローの闘いは、米軍基地で働く労働者の権益保護や、不当な軍用地接収に対抗する条件闘争などから始まった。
そして、「沖縄に基地があることは、即ち沖縄を戦争に巻き込むもの」という固い信念のもと、日米安保システムに対しても拒否の姿勢を貫いた。
若き日のカメジローは、貧困家庭に生まれ、戦前の沖縄農村を生きてきた、理想を忘れないひとりの秀才であった。
1907年に沖縄県島尻郡豊見城村(現・豊見城市)に生まれる。
医学を志し、旧制第七高等学校理科甲類(現・鹿児島大学)で学んでいたが、社会主義活動に加わったことを理由に放校処分となる。
2年間の兵役ののち、横浜に移り労働運動に参加。1932年に治安維持法により投獄される。横浜刑務所に2年、那覇刑務所で1年それぞれ服役。
出獄後、1936年より沖縄朝日新聞記者となり、1938年には砲兵として中国に出征する。
1944年に復員したカメジローは、羽地村助役、毎日新聞那覇支局記者を経て、1946年に「うるま新報」社長となる。今から思うと奇異に思われるが、当時の米軍から、社長就任を強く要請されたらしい。
しかし、労働者の権利を守るためには組織化が必要だとするカメジローは、沖縄人民党の創立に関わり、そのことで米軍により社長を解任される。
1950年には、人民党より沖縄群島知事選挙に立候補したが、落選している。
カメジローの名が沖縄全土に広く知られるようになったのは、このあとだ。
1952年、最高得票数で立法院議会選挙に当選する。
ところが、琉球政府宣誓式典において「米国民政府への宣誓」を拒否し、ただ一人起立しなかったことから、米軍に危険人物として睨まれるようになる。
1954年、沖縄からの退去命令が出た人民党員を匿ったという理由で「出入国管理管理令違反」で有罪とされ、那覇刑務所・宮古刑務所に2年収監される。
1956年に出所。刑務所からシャバに出た彼は、待ち構えていた沖縄県民によって盛大に迎えられた。
同年行われた那覇市長選挙で、米軍の様々な妨害にも関わらず、カメジローは見事当選する。
しかし、米軍の出資で設立された琉球銀行による那覇市への補助金打ち切りと預金凍結、水道の供給停止など、米軍は露骨すぎる手段によって、圧力に屈しない那覇市長・カメジローの市政を妨害した。
ここで、那覇市には信じられないような光景が起こった。
米軍の妨害によって財政危機に陥った那覇市を救おうと、これまで納税についてあまり積極的でなかった市民達が、自主的に納税しようと市庁舎前に長い行列を作ったのである。
皆、カメジロー個人を攻撃しようとする米軍のやり方を知り、一人ひとりが自分達なりに彼を助けようとしたのだ。このとき、那覇市の納税率は97%にまで達したという。
この光景を写す貴重な映像は、本作品のクライマックスの一つと言えるだろう。
結局、米軍は彼を市長の座から引きずり下ろすために、最終手段を用いるしかなかった。
「過去に逮捕され有罪となった者は公職から追放し、被選挙権も剥奪する」という、いわゆる「瀬長布令」を1957年に強引に発布する。
カメジローの市政は11ヶ月にして幕を閉じた。
公職追放され、被選挙権も剥奪された彼は、那覇市内で雑貨店を営むことになるが、その一方で人民党において自らの後継者の擁立し、続く市長選で彼を見事市長に当選させる。
最終的に、米軍はカメジローと市民の力に屈したのである。
そして1966年、米軍は「瀬長布令」を廃止し、彼の被選挙権は回復された。
1968年には立法院議員選挙に当選。1970年には沖縄最初の衆議院議員に当選し、以後7期を務めることになる。
1990年に国会議員を勇退。
カメジローは2001年に94歳で死去した。
稲嶺元沖縄県知事や共に闘った元沖縄人民党関係者、彼を監視する役割を負いながらその人間的魅力に惹かれていく元警察官など、多彩な顔ぶれが「自分にとってのカメジロー」、その激動の時代の空気を証言している。
当時、米軍がどのようにカメジローを評価していたかという内部文書も明らかにされている。
「米軍にNOと言った男」カメジローが米軍に対して主張したのは、本来アメリカが真っ先に遵守すべき「本当の意味での民主主義と主権在民」であった。
それこそが、米軍の圧政に屈しなかったカメジローの理論的武器だったのだ。
そして、沖縄と本土との関係について言えば、「本土復帰なしに沖縄の復興は無い」という立場から、沖縄の本土復帰を強く主張した。
もしカメジローがいなければ、沖縄の本土復帰は、もっと遅れていたかもしれない。
沖縄県民が基地問題などで「オール沖縄」の運動を主張するとき、彼らの心の中のどこかに必ず、カメジローというひとりの男の姿が映っているはずだ。