杉並区 29 (16/05/25) 旧和田堀町 (和田堀内村) 旧和田村 (4) 小名 峰/峰村、方南、荻久保
旧和田堀町 (和田堀内村) 旧和田村
旧方南町
小名 峰/峰村
- 真峰庵 (真言宗)
- 地蔵菩薩立像、観音菩薩立像
- 本堂
- 開基即山墓
- 方南峰遺跡
小名 方南
- 身代地蔵尊 (191番)
- 念仏山東運寺 (釜寺)
- 山門
- 庚申塔 (195番)、観音菩薩立像 (196番)、供養塔 (199番)
- 本堂
- 楷樹 (かいのき)
- 念仏堂道地蔵菩薩坐像 (197番)
- 地蔵菩薩像 (192番、194番、198番)、聖観音菩薩像 (193番)
- 方南神社
- 釜寺東遺跡
小名 荻久保 (小字 向方南)
- 向方南遺跡
- 谷中稲荷神社
- 玉川上水路跡
旧方南町
方南町は、1932年 (昭和7年) 東京市杉並区が発足した際に、江戸時代の三つ小名の方南、峰、荻久保が合併した行政地で、1963 ~ 1965年 (昭和38~40年) の町名改正まで存在した。
江戸時代から明治時代は、民家はまばらで、まとまった小集落は南の小名 荻久保に集中している。1923年 (大正12年) の関東大震災後、被災者の簡易住宅が建てられ、一時期人口が増えている。小名 荻久保の甲州街道の北側に住宅街が広がっている。しかし、その後は、余り発展していなかったが、1964年 (昭和39年) に環七通りと方南通りの建設、地下鉄方南駅の開業で交通が便利になり、急速に発展している。下の1965 - 1968の地図を見ると確かに住宅街がほぼ全域に広がっている。
小名 峰、方南、荻久保 訪問史跡等
小名 峰/峰村
江戸時代の小名 峰は神田川と善福寺川とに挟まれた小高い台地で、対岸からは山の峰のように見えたので、その名が生まれたと言われている。1889年 (明治22年) に堀之内村、和泉村、永福寺村と合併し、和田堀内村となり、旧小名 峰は和田堀内村 大字 和田 小字 峰となった。1926年 (大正15年) に町制施行により和田堀内村は和田堀町と改名。1932年 (昭和7年) には東京市域が拡大し、杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町が東京市に編入され、東京市杉並区が発足した。この時に小字 峰は方南と向方南の二つの小字と合併して方南町となる1963~1965年 (昭和38~40年) に町名改正がおこなわれた際に、新行政地区はそれまでの小名、小字境界線とは異なり、道路や河川などを境界線として再編された。方南町は真ん中南北に環状7号線が通っており、この道路で分断されてしまった。旧小名 峰は環状7号線と善福寺川により4分割され、方南二丁目、堀ノ内一丁目、堀ノ内二丁目、和田二丁目にまたがっている。
真峰庵 (真言宗)
旧小名 峰で現在は堀ノ内一丁目に、環七通りに面して、真言宗 の真峰庵 (しんぽあん) がある。歴代の庵主が尼僧だったので、土地の人は真峰庵を 「びく (比丘) 庵」 とも呼んでいた。東円寺を開基した和田村の村民半六が、同じく真峰庵の開基にもなり、僧即山を開山(延享4年1747年寂)に迎えて創建したと伝わっている。
山門への階段を上がった所に堂宇が置かれ、地蔵菩薩立像と舟型石塔に浮彫りされた観音菩薩立像が祀られている。 新しく造立されたものの様だ。
地蔵菩薩立像、観音菩薩立像
山門は柱は石柱だが、門はアルミサッシになっている。境内に入ると右手、本堂の脇に、先ほどの地蔵菩薩と観音像とほぼ同じものが置かれている。こちらは古いもので、1740年 (元文5年) 造立の丸彫りの地蔵菩薩立像と、1776年 (安永5年) 造立の舟型石塔に浮彫りされた観音菩薩立像になる。以前は門前の堂宇に置かれていた。どうも新しいものはこの古い石仏を模して、代わりに堂宇に置いているのではと思える。
本堂
本堂は、開山から290年経った2009年 (平成21年) に新築された近代的な建物で、小さいながらも、向拝、回廊、欄干がある。これによれば創建は1719年 (享保4年) ということになる。
本堂には本尊として目が青い青目不動尊が鎮座し、両脇に脇侍の赤銅色の紺常通童子と白色に塗られた緑麗童子が控えている。階段の傍らに 「宗教法人 真峰庵設立記念」 と刻んだ石碑がある。1962年 (昭和37年)真峰庵は任意組合が管理していたが、環七通りの拡幅工事で真峰庵の境内の一部が買収され、東京都の指導で、法人格を持った宗教法人真峰庵が設立され、登記役員の管理となっている。
開基即山墓
墓地への入口辺りにもう一つユニークな形をした建物がある。資料では何なのかは記されていなかったが、葬儀場や集会場ではないかと思う。入口階段の傍に「堂塔開基即山元融和尚延享四年十一月十一日」と刻まれた開山即山和尚の墓が置かれている。真峰庵の堂が建てられたのは、この1747年 (延享4年) より前の享保から元文 (1716~40年) 頃と考えられている。
方南峰遺跡
真峰庵のすぐ南、泉南中学校の校門近くに方南峰遺跡の案内板が置かれていた。方南峰遺跡は善福寺川と神田川の合流地点部分の舌状の峯台地に広がる方南町峰遺跡群のうちの一つ。案内板のある泉南中学校の敷地内では、1950年 (昭和25年) から2002年 (平成14年) にかけて4次にわたり発掘調査が行われ、縄文時代中期 (約5,500年~4,400年前)、弥生時代後期 (約1,800年~1,700年前))、古墳時代後期 (約1,400年~1,300年前) の住居跡が62軒発見されている。弥生時代の環濠集落跡からは広口壷、台付甕、坩 (かん 丸底の小型壺)、高坏、鉢が出土している。
小名 方南
小名 方南は北は現在の都道14号線 (神田川と善福寺川合流点までは江戸時代の古道と重なっている) で小名 峰に接し、神田川を境に南の小名 荻久保と接していた。方南は、和田村の本村から見て南の方にあり、本来は南方なのだが、語呂が悪いので、方南という地名になったといわれている。1889年 (明治22年) に堀之内村、和泉村、永福寺村と合併し、和田堀内村となり、旧小名 方南は、そのまま和田堀内村 大字 和田 小字 方南となった。1926年 (大正15年) に町制施行により和田堀内村は和田堀町と改名。1932年 (昭和7年) には東京市域が拡大し、杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町が東京市に編入され、東京市杉並区が発足した。この時に小字 方南は峰と向方南の二つの小字と合併して方南町となる1963~1965年 (昭和38~40年) に町名改正がおこなわれた際に、新行政地区はそれまでの小名、小字境界線とは異なり、道路や河川などを境界線として再編された。方南町は真ん中南北に環状7号線が通っており、この道路で分断されてしまった。旧小名 方南は環状7号線で二分割され、西は和泉4丁目、東は方南二丁目となっている。
身代地蔵尊 (191番)
旧小名 方南の南、神田川に近い場所に浄土宗の念仏山東運寺が建っている。参道の前に堂宇があり、身代地蔵尊と扁額がかかっている。堂宇内には二体の丸彫り地蔵菩薩立像が置かれている。所狭しと千羽鶴やぬいぐるみが置かれ、新しい花も供えられていた。地域の人達に大切にされていることがわかる。
- 向かって右側には1744年 (延享元年) に造立された錫杖と宝珠を手にした丸彫りの地蔵菩薩立像 (191番) で別の場所からここに移されている。
- 左は造立年月日は刻まれていないのだが、昭和の 「伊豆の長八」 といわれている左官の大家の手塚忠四郎 (大臣賞受賞・勲六等) が左官の鏝でもってセメント造りの傑作で同じく錫杖と宝珠を手にした丸彫りの地蔵菩薩立像になる。台座には 「子育地蔵尊」 と刻まれている。(何度見ても、セメントで作ったとは思えない)
この後に訪れる境内にも子育地蔵尊像があり、本堂では古くから伝わる身代地蔵菩薩が安置されており、4月8日の花祭りの開帳以外の日でも身代地蔵菩薩を拝める様にと、ここに御前立 (平常公開されない秘仏の身代り) として地蔵菩薩像が置かれている。
身代地蔵菩薩の隣の柵の中に石柱が二つ立っていた。一つは 「釜て寺近道」 と刻まれている。元々ここにあったのかは分からないが、東運寺への道標だ。その隣の角柱は1801年 (享和元年) の年銘で 「浅草観世音千日参回向」 と刻まれて、側面には 「右大山目黒池上道」 と刻まれて道標になっていた。
念仏山東運寺(釜寺)
身代地蔵尊の前の道を渡ると、浄土宗の念仏山東運寺への参道が伸びている。1573年 (天正元年) に僧一安がこの地に念仏堂を創建し、1922年 (大正11年) に台東区入谷の東運寺を合併し、念仏山東運寺となった。
山門
参道入口には東運寺と刻まれた石の上に釜寺と刻まれた自然石が乗っている。この寺は「釜寺」 と呼ばれていた。その由来は後述。
参道を進むと、山門がある。この山門は、浅野内匠頭が切腹した芝の田村屋敷 (岩手一ノ関藩主田村右京大夫) の脇門で、釘を用いず組み合わせ式で建てられた江戸初期の武家門。明治時代末期の一時は三井総本家今井町に移築され、織田有楽斎如庵の茶室の門となっていた。1953年 (昭和28年) に三井家が浅野内匠頭の冥福を祈り供養の為に、ここ東運寺に寄進され再建された。
庚申塔 (195番)、観音菩薩立像 (196番)、供養塔 (199番)
山門から本堂へは竹藪の中の風情のある細道で行く。道沿いには句碑や石仏、石塔などが置かれて、良い趣きを感じる。
左手の竹薮の中に、三つの石仏がある。
- 庚申塔 (195番): 向かって右側には1668年 (寛文8年) 建立の庚申塔が置かれている。四ツ谷石工次郎左衛門の作で、杉並区内では唯一の笠付円柱型のもの。青面金剛と三猿が浮き彫りされている。
- 観音菩薩立像 (196番): 造立年不詳の舟型石塔に上部に種字梵字の स (サ)、ह्रीः(キリーク)、सः (サク) が刻まれて、蓮華の台座の上に立つ観世音菩薩立蔵が浮き彫りされている。
- 供養塔 (199番): 左側には1766年 (明和3年)造立の角柱で、正面に南無阿弥陀仏、側面に年銘、「願以此功徳 同發菩堤心 平等施一切 往生安楽国」 と刻まれている。
本堂
参道は左側に曲がり、石の階段が現れる。階段の上に本堂が見えている。
階段を上ると正面に本堂がある。1945年 (昭和20年) 5月25日の空襲で、本堂を含め、堂字一切を焼失したが、寺伝の仏像類はなんとか搬出して消失を免れている。現在の本堂は1953年 (昭和28年) に再建されたもので 「念仏道場」 の扁額 (左下) を掲げられている。屋根の棟に大きな釜 (右下) が載っている。この釜は戦災で焼け落ち壊れ、戦後、寄進されたもの。本堂内中央には本尊の阿弥陀如来坐像、右側に阿弥陀如来立像、左に厨子内に地蔵菩薩立像 (身代り地蔵) が置かれ祀られている。(中下)
この身代地蔵が釜寺の由来に関わっている。「釜寺身代り地蔵縁起」の説明板が置かれていた。
それによると、
本堂に安置し奉る身代り地蔵菩薩は、厨子王、安寿姫が膚身離さず持っていた守り本尊の地蔵の木像で、天正元年(一五七三)に、西国備前の一安上人がこの地蔵尊を背負い、当地に行脚し、大宮八幡の別当大宮寺に逗留した。この地蔵尊の霊験を聞き、宿者ができた。ことに方南の鈴木伊兵衛は深く帰依し、家屋敷を寺に造り替え一安上人を迎え、念仏堂に寄進した。これが釜寺の創めである。以来四百年間、武州方南釜寺の名は、近郷近在知らぬ人なく、江戸近郊名所の一つとなり、明治初年まで毎月二十三日、四日の縁日には、ボロ市が開かれ参詣人で賑わった。本堂の屋上に載せてある大釜の由来は、厨子王、安寿姫が人買いにかどわかされ、丹後由良湊の山椒大夫に売られ、毎日野良仕事や山仕事に追い立てられ、残酷な仕打ちに遭い、幾たびか殺されようとしたが、そのたびに守り本尊の地蔵尊の霊験により危難を逃れた。或る日、厨子王が熱湯沸る大釜に放り込まれた時、地蔵尊がお坊さんに姿を変え、抱き上げ助けてくれて、いずこともなく消えた。このことにちなんで、方南念仏堂の屋上に大釜を載せたと言い伝えられている。
身代地蔵は4月8日の花まつりのみに開帳されるので、今日は厨子は閉まっており見ることは出来ない。(実際には厨子内では無く、保管庫に安置されている)身代地蔵 (中下) を含め、本堂で保管されている仏像等の写真と説明が置かれている。
- 鉦冠薬師如来像 (左下): 入谷の東運寺に伝わった徳川将軍家にゆかりのある鎧冠難航と呼ばれる金銅製薬師如来坐像。鎌倉時代の懸仏を普通の仏像に作り直したものだそうだ。第13代将軍家定の27人兄弟は皆体が弱く、成人できたのは家定のみだったが、その家定は天璋院篤姫との結婚後も体が弱く、生母の本寿院が健康な初孫の男子出生を祈願して厨子と共に1841年 (天保12年) に寄進したと伝わっている。その願文は厨子と共に空襲で焼失し、鉦冠薬師のみが残っている。この鉦冠薬師に供えた茶で目を洗うと病目が治るという伝承があり、昭和初期まではお供えした茶を貰いにくる人があったそうだ
- 半鐘 (右下): 杉並区内に所在する梵鐘のなかでは最も古いもので、中興開山定蓮社正誉幡可和尚の時代、1689年 (元禄2年) に寄進されている。龍頭は双頭を背合せにし、その上に蓮華座をもつ宝珠を置き、笠形は饅頭形で甲盛りが高くなっている。戦争中に供出され、戦後世田谷粕谷消防団に払い下げとなっていたが、当寺の刻銘があったため返納された。
本堂脇から墓地への道が伸びており、その道の塀沿いに幾つもの石仏や石塔が置かれている。
楷樹 (かいのき)
墓地への道の途中に通用門がある。多分、墓参者が墓地への門なのだろう。門の脇に楷樹の案内板が置かれている。中国曲阜にある孔子の墓所に孔子の弟子である子貢が植えたと伝えられる楷の木 (孔子の木とも呼ばれる) の種子が孔子の子孫 (七十七世) より寄贈され、湯島聖堂で育った苗木を数株植えて、大きく生育している。
念仏堂道地蔵菩薩坐像 (197番)
墓地への道の塀沿いには幾つもの墓石が置かれている。無縁墓を並べているのだろう。その中、右端には石塔の上に丸彫の地蔵菩薩坐像 (197番) がある。台座両側に 「念仏堂道」 と彫ってあり、念仏堂時代の道標を兼ねていた。元々は甲州街道と環七通りとの交差点付近にあったものを移設している。
地蔵菩薩像 (192番、194番、198番)、聖観音菩薩像 (193番)
墓地への階段下には堂宇があり何体もの地蔵菩薩像が安置されている。一番大きい丸彫り地蔵菩薩立像 (198番) が、甲州街道沿いから移されて、この堂宇にあったが、その後、先に見た参道入口の子育地蔵堂宇内にあった二体の地蔵菩薩像と聖観音菩薩像がこちらの堂宇に 移されている。
- 地蔵菩薩立像 (192番 左下): 丸彫り錫杖と宝珠を手にした地蔵菩薩立像は1766年 (明和3年) にに江戸麻布宮村の講中によりこの寺の近くにに造立されたもの。
- 地蔵菩薩立像 (194番 中上): 造立年不詳で、頭部はかなり摩耗して原型を留めていない。子育地蔵堂宇に移設される前には、環状7号線沿いにあった。道路建設の際にこの寺に移されたのだろう。
- 聖観音菩薩立像 (193番 右上): 舟型石塔に聖観音菩薩が浮き彫りされている。これももともとは、環状7号線沿いにあったもの。
堂宇の裏側には 「子育 地蔵」 と刻まれた文字型地蔵菩薩 (右下) も置かれている。
方南神社
釜寺の山門の北隣りに方南神社がある。元々は南の和泉一丁目に置かれていたが、環状七号線の建設のため 1971年 (昭和46年) に東運寺の敷地の一部借り移設されたもの。1916年 (大正5年)建立の石鳥居をくぐると、右に1861年 (文久元年) 寄進の手水鉢 (右下)、1931年 (昭和6年) にで大山阿夫利神社、武蔵御嶽神社、榛名神社が合祀され、自然石の大山 御嶽山 榛名山 合併記念碑が置かれている。祠前には狛犬では無く、御嶽神社の守り神の一対の狼の石像が置かれていた。
釜寺東遺跡
東運寺のすぐ東に方南二丁目公園があり、そこに釜寺東遺跡の案内板が置かれていた。1979年 (昭和54年) に、東運寺周辺を中心にして縄文時代後期 (約2500年前)、古墳時代後期 (約1400年前) の複合遺跡の発掘調査で、台地上に6軒、台地下に3軒の住居址が発見されている。釜寺東遺跡からは、住居址のほかにと呼ばれる古墳時代の土師器(甕、坏、椀、こしき) や玉、縄文時代後期の祭り事に使われた石棒が発見されている。
東運寺の南を流れる神田川を渡る。
小名 荻久保 (小字 向方南)
神田川は小名 方南の南の村境で、この川の南は江戸時代から明治時代にかけては小名 萩久保だった。この地域には萩が生えていた窪地だったので、この様な地名になったと考えられる。
室町時代には和泉、堀内とともに鎌倉 の円覚寺の領地だった。江戸時代に は、甲州街道の内藤新宿と下高井戸宿の間に、街道を通る旅人や、妙法寺詣りの人々の休憩する 「萩久保立場」 が置かれていた。
1889年 (明治22年) に堀之内村、和泉村、永福寺村と合併し、和田堀内村となり、旧小名 荻久保は、和田堀内村 大字 和田 小字 向方南となった。向方南とは方南から神田川の向こう側という意味で名付けられたそうだ。1926年 (大正15年) に町制施行により和田堀内村は和田堀町と改名。1932年 (昭和7年) には東京市域が拡大し、杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町が東京市に編入され、東京市杉並区が発足した。この時に小字 向方南は峰と方南の二つの小字と合併して方南町となる1963~1965年 (昭和38~40年) に町名改正がおこなわれた際に、新行政地区はそれまでの小名、小字境界線とは異なり、道路や河川などを境界線として再編された。方南町は真ん中南北に環状7号線が通っており、この道路で分断されてしまった。旧小名 向方南は環状7号線で二分割され、西は和泉一丁目と和泉四丁目、東は方南一丁目となっている。
向方南遺跡
方南小学校の低地から方南児童館の台地にかけての一帯で縄文時代後期 (約2,500年前) の遺物散布地が、1982年 (昭和57年) に発見された。向方南遺跡になる。低地部分では縄文時代後期当時の川岸と考えられる砂層から、3点の完形土器と約70,000点の土器片、石鏃・磨製石斧・打製石斧等の石器類が約20点出土し、更に縄文人が食料にしていたと考えられる葦等の植物遺存体や炭化したクルミ、トチ、シイ等の木の実類、化石化した小動物の歯や小骨片類が多量に出土している。1988年 (昭和63年) には台地部分で、完形土器5点を含む約3,000点の土器片、磨製石斧、打製石斧、石皿等の石器類および装飾品である土玉等が出土している。両地点とも住居跡は発見されていないが、台地部分では焼土が遺されていた炉穴が検出されていることから、両地点とも集落からはずれた土器捨場か、一時的なキャンプサイトの性格を有していたものと推測されている。
谷中稲荷神社
向方南遺跡の東南に無数の奉納のぼりで飾られた谷中稲荷神社がある。この地域の太々講の講中が伏見稲荷大社の分霊を勧請し創建したと伝わっている。大宮八幡宮の境外末社となっている。盗難、悪戯防止のためだろうが、狐石像が頑丈な囲いで覆われて、狐は殆ど見えない状態だった。
玉川上水路跡
旧小名 荻久保の南端地域には玉川上水跡が遊歩道、公園に整備されている。この遊歩道を東に進むと中野区になり、南は渋谷区と世田谷区に接している。
まだ日没迄は時間があるのだが、今夕も昨日に続き、夕食会がある。これで旧和田村の予定していた史跡巡りも終わったので、少し早いが、待ち合わせの新宿に向かう。
参考文献
- すぎなみの地域史 1 和田堀 平成29年度企画展 (2017 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 下巻 (1989 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)