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ヒルティ喫茶:虹息

他生では、考えることが‘語る’ことであり、精神の容姿がそのままが表れ、意思することがジェスチャーとなる

2019.02.14 14:55

死んだ後の人の容姿(霊魂同士が認識する相手の霊魂の外観)についてです。 


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人の霊が最初に霊の世界に入るとき(それは人が霊界に生き返るとすぐ起こります)、彼の顔も声の調子も、この世にいたときのものと変わりません。まだ、彼は彼の外面の状態にいて、彼の内面の状態が現れていないからです。これが死後の第一の状態です。 


ところが、やがて、彼の顔貌が全く変わります。そして、その顔貌は彼の主たる情愛と彼の肉体の内にあった彼の愛に似てきます。それは、彼がこの世にいたときの心の内面と彼の肉体の内にあった霊に一致しているのです。なぜなら、人の霊の顔は彼自体の顔とは非常に異なっているからです。彼の顔は彼の親たちに似ていますが、彼の霊の顔は彼の情愛から来るもので、彼の情動の像となっているのです。自体の内にある霊の生命が終わると、その外面は捨てられ、その内面が開かれて、それがこの情動に生起するのです。これが第二の状態です。 


 私は最近、この世から着いた人々を観ましたが、その顔と言葉とから彼らと分かりました。しかし、その後、彼らを観たときには彼らとは認めることができませんでした。善情動にいた者たちは美しい顔で現れましたが、悪情動にいた者たちは潰れたいびつな顔で現れました。人の顔そのものは彼の情動に一致するため、彼の顔はその外形そのものになるからです。 


どうして顔貌が変わるかというと、他生では誰も自分自身のものでない情動を見せかけることも彼の愛に反する様相を装うことも叶わないからです。他生においてすべてのものは考えることが‘語る’ことであり、彼らの容貌のままが表れ、意思することがジェスチャーとなる状態に入れられるのです。 


このゆえに、すべての者の顔は彼らの情動の形と像であり、だから、この世でお互いに知り合ったすべて者のは、霊の世界(死後、天界、地獄に分かれていく前の中間の世界)でお互いに知り合いますが、天界や地獄ではこのようなことはないのです。                       エマヌエル・スヴェーデンボリ『天界と地獄』457

 

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「どう考えても美人が得だと思う」

いろんな女性の口からこの言葉を聞きました。そんな本もいくつか見かけます。

でも、この顔、この体で生きているのは数十年だけ(生きている間にも凋落していく)、その後は、その体という乗り物に乗りながら形成されたうちの霊魂の姿で永遠に存在していきます。そして、その霊魂の姿は、その人の愛と知恵に相応した形状でその人の外観を与えると。


この世で美人、美男で、それに寄りかかって生きても、死んだ後に、その顔は持っていけません。残るのは、それに寄りかかって内面が手薄になった浅薄さと、数十年で消えていく虚しい物質を永遠と取り違えた虚偽と、ありもしない価値をあるかのように思い続けた愚鈍さだけです。

脱いでいく容姿は残りませんが、自分の美貌を自慢し、容貌で劣った人たちを見下げたり、貶したりした心の卑しさ、狡さは、永遠にその人の醜い外観となって霊界で衆目に触れることになります。表面上は容姿に限らず、フランクにどんな人とも交流しているようにしていながら、その実、自分の容姿での優越性にほくそ笑み、内心、劣った人たちを自分より一段価値の低い存在として認識するのが習慣になっている人に至ってはどんな霊的な体が出来上がっているのでしょう。


『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。

 しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。』

ルカ福音書16:25


 主はサムエルに仰せられた。

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。

 人が見るようには見ないからだ。

 人は外の顔かたちを見るが、主は心を見る。」

Ⅰサムエル記16:7



おやすみなさい。