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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Chopin, パリの光と影

2019.02.15 03:51

季節は1834年冬になっていた。流行なんてものはちっぽけな社会であるから、それに惑わさ

れず生きるように大都会パリで生きるショパンが貧乏で路頭に迷うことがないように父ニコ

ラから節約を厳しく忠告されていたショパンだった。しかし、

パリの上流階級のご夫人方を相手に社交界で生きる為には、ファッションは欠かすことので

きないステイタスであった。エレガントな容姿が売りのショパンは見た目が気に入られるこ

とに最大限の神経を払わなくてはならなく気の休まる暇がなかった。

パリの社交界ではファッションの移り変わりは激しく流行遅れなものが身にまとえなかった

のだ。そのための出費が作曲の下働きや令嬢相手のレッスンではおぼつかないショパンだった。

見栄のためのアパルトマンの家賃や高価な家具、いつも清潔に見せるための白いスカーフや

白手袋、流行りの革靴、そして冬になれば流行のクロックコートは必需品である。コートで

身分が解ってしまうからだ。

そして、毎度のことながら社交界に出入りするためのほろ馬車と馬の世話をさせる使用人に支払う賃金である。などなどの交際費はショパンが寝る暇を惜しんで働いても追いつかないのであった。

父ニコラもお金が底を付いてきていたため、ロスチャイルドなどの銀行からの支援を受ける

ようにとショパンに促したが、支援といえば聞こえはいいがそれは結局のところは借金でし

かないのだ。それをパトロンとはショパンは呼べないのであった。

エルスネル先生の師弟愛もショパンには本当のところ息苦しいだけであった。ショパンはパ

リにいても定職がなくワルシャワに帰ってもエルスネル先生の期待には沿えないどころか、

エルスネル先生(この時65歳ワルシャワ音楽院学長)の音楽院で職を得る誘いもないからで

ある。エルスネル先生は芸術を貫くようにショパンンを説得しようとするが、ショパンにワ

ルシャワに帰って自分の下で働くようには言ってはくれなかった。

ショパンは芸術と現実の矛盾に苛まれ、ショパンに残された道は、パリで人気取りの有名人

としてのサロンで演奏することと、パリの巨大オペラビジネス界の下僕として陰で働くこ

としかなかった。

ショパンにとっては、それ程お金にならない令嬢のレッスンはショパンの名前を社交界で維

持するためのパフォーマンスのようなものでしかなかった。

そんなショパンであったが、それでもショパンを羨ましく横目で眺める人間もいた。ワルシ

ャワ音楽院時代の頃の同級生、アント二・オルロフスキだ。

彼は、学生の頃から、ショパンの才能と容姿が羨ましく、ショパンの協奏曲やワルツの旋

律から盗作をしていたのであった。その彼が今度はパリで、ショパンの社交界での活躍

を羨ましく思い、ショパンの人気に嫉妬したのか、ショパンは令嬢や夫人やあらゆる女性

に人気であるとショパンの家族に宛てた手紙を書いている。そのくせ、自分もショパンのい

で立ちを真似しようと思っている恥知らずだったのである。それほどショパンの容姿が羨ましく見えたので

あろう。

しかし、ショパンは学生の時のオルロフスキが自分の曲を盗作したことも彼の学生時代のバ

レエ曲もウィーンでの出来事もショパンはあまり快くは思っていなかったようだ。

オルロフスキはショパンがウィーン滞在中も彼もまたウィーンに作曲家として来ていたのであった。

ショパンはパリに来てからホームシックな時期もあったが、この頃は友人マッシンスキと住

んでいたことで精神的に助かった時期だった。しかしながら、オルロフスキはショパンは

ホームシックであるとワルシャワのショパンの家族にわざわざ報告をしたのであった。


アント二・オルロフスキの1851年に出版されたポロネーズの楽譜


アント二・オルロフスキ(1811年ワルシャワ -1861年2月 11 日ルーアン)

ヴァイオリニスト、作曲家、指揮者

1820年代、エルスネル指導の下、フレデリック・ショパンと共にワルシャワ音楽院で学ぶ。

1832年ランスに亡命

1830-1831ポーランド王国ロシア支配に対する暴動で、ポーランド人の何千人も大移民が出た。アント二・オルロフスキアンソニーも亡命者のひとりと見なされた。

1835年ルーアンに移住。ルーアンの劇場指揮者となる。Hotel-de-Villeでコンサートを企画した。彼はショパンの出演の助けを求めた。1838年3月12日には、ホ短調協奏曲を、オーケストラはアント二・オルロフスキが指揮した。

作品はピアノトリオ、ポロネーズ、ロマンス、バイオリンソナタなどを書いた。

1861年2月 11 日ルーアンの記念碑的な墓地に埋葬されてた。