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Ride in Kyushu Day 63 (16/2/19) Seinan Civil War Last Battle at Nobeoka 西南戦争 最後の戦い 延岡

2019.02.17 15:02

Nobeoka CastleRuins 延岡城跡

Seinan Civil War Last Battle at Wada-God 西南の役 和田越決戦場

Saigo Takamori Memorial Museum 西郷隆盛宿陣跡資料館

 

Nobeoka CastleRuins 延岡城跡

延岡城は江戸時代に延岡藩初代藩主高橋元種によって築かれた平山城。高橋元種は1613年に罪人を匿ったとして改易、その後は有馬氏・三浦氏・牧野氏と続き、内藤氏支配で幕末を迎えた。内藤氏の時代が長く最後まで続いたので、一般には内藤氏の城との認識が大半を占める。明治の廃城令で薬園として活用することが許可されて廃城となった。活用するということで、石垣などは壊されずに残っている。

立派な石垣があった。ある石をはずすと一気に全壊し、一度に千人の敵兵を殺すことができるという石垣で、「千人殺し」と呼ばれている。

天主台跡に鐘付き堂があり、現在も1日に6回、市民に時刻を告げている。一般の人は市民が混乱しない為に鐘と付かない様お願い板があった。時報にために鐘とか空砲をやっていたというのはよく聞くが、今でも続けているのに出くわしたのは初めて。

本丸跡にはもう桜が咲いていた。まだ所々で、一斉に咲いているようなところはないが、春が近くなって来ている。

この延岡も西南戦争の戦闘の舞台となったのだが、この延岡城はどう関わっていたのかに興味があった。普通であればここを拠点にするのだろうが、城に立て籠もっても、薩軍には無意味だろう。包囲されて籠城の意味がないし、兵力も激減し3000人程度になっているし、威力のある大砲も残っていたのかも疑問だし、兵站もそれほど残っていなかっただろう。官軍は兵力が10倍以上の35000人、武器も今では雲泥の差がある。軍艦からの艦砲射撃もできる。兵站も十分。この状況では城を拠点にしても効果が無いし、官軍が持久戦に持ち込めば、敗北は明らか。この場合は、ゲリラ戦しか無い。調べてみると、当時流行っていた錦絵には延岡城での戦いが描かれているらしいが、これは事実では無い。薩軍は延岡城を弾薬製造所として使ったそうだ。官軍の動きを見るにも使ったと思う。城の天守閣跡からは延岡の四方がはっきりと臨める。薩軍は官軍の兵の多さにどういった反応だっただろう。勝ち目の無い戦と感じていたであろうが、ここは薩軍の士気の高さで、それでも勝つ為の戦を仕掛ける。

昨日寄った美々津を官軍に突破された後、8月7日に薩軍は本営・火薬製作所・病院等を延岡から奇兵隊本営のあった熊田(北川町)に移した。ここには西郷隆盛宿陣跡資料館があり、この後訪問予定。薩軍は延岡市街地での戦いは不利になるので、決戦の場を和田越と決め、布陣をする。

山縣有朋陣頭指揮の地

8月12日に官軍は延岡攻略を開始し、8月14日には官軍別動第2旅団が先陣を切って延岡に突入。第3旅団、第4旅団、新撰旅団が門川から延岡へ突入。薩軍は延岡城下から撤退し、北部の友内山ー和田越ー長尾山の稜線に各隊を布陣。政府軍参軍・山県有朋中将は和田越から約2㎞南の樫山の小山に本営をおき、指揮を執る。政府軍と雌雄を決するべく陣を張った。写真右上は和田越の西郷隆盛の陣から山縣有朋のいる樫山。はっきりと見える。

Seinan Civil War Last Battle at Wada-God 西南の役 和田越決戦場

薩軍3000、官軍35000の戦い。布陣図だけを見ると、さすが薩軍で要所を抑え、もし兵力が官軍と互角であれば、圧倒的に薩軍有利、大砲などがあれば勝利は確実だろう。しかし兵力が乏しい。薩軍の各部隊は100人もおらず、官軍は兵を集中して、各部隊を潰せば良い。この戦いで西郷が西南戦争で初めて陣頭指揮をとった。これが、薩軍を解散する前の西南戦争としては最後の戦いになった。西郷はこの戦いを最後の決戦と思い陣頭指揮をとったのでは無いだろうか。共に戦ってきた薩軍に対して最後の責任は自分が取るという思いがあった様に思える。そして、幕末維新で戦いに明け暮れ、軍人として日本の頂点にあった自分に対して最後は軍人として戦うという思いもあったのかも知れない。

8月15日朝8時に戦闘の火蓋が切られた。竜驤・日進・精輝・鳳羽・春日・孟春・浅間等 (こんなに多くの軍艦が集結していたとは驚き)の官軍軍艦が艦砲射撃を開始し、官軍各隊が薩軍の各部隊に攻撃をかける。午前中は互角の戦いを展開する。特に桐野部隊は官軍を苦しめていた。薩軍は凄い、これだけ不利な状況でここまで奮闘するとは。しかし、時間が経つにつれて、薩軍の一角一角が崩れはじめ、昼頃には薩軍各隊が総崩れとなったが、西郷は陣を引こうとはしなかった。ようやく周囲の者に担がれ和田越の北、長井村 (北川町) へ退却する。西郷は死ぬ気だったのだろうか? だから陣頭指揮をとったのか?

Saigo Takamori Memorial Museum 西郷隆盛宿陣跡資料館 (北川)

薩軍が和田越から退却してきた場所に西郷の宿陣が残っており、資料館となっている。薩軍は和田越の戦いに敗れ、この北川に退却して来た。前面は川が流れ、後方は山に囲まれている。和田越からは5kmしか離れていない。官軍が一時間で到達できる距離だ。ここが安全とはとても思えない。奇兵隊の本営があったからかもしれないが、やはり疑問が残った。資料館の説明ではここにはニニギノミコト御陵と思われるものがある。天皇家の墓に向かって、直ぐには砲撃はしないだろうとの考えからここに宿陣を置いたと言う。これはあり得る。天皇の権威は絶対であったから、単独の決断で攻めることは出来ないであろう。案の定、この地も官軍に包囲されたのだが、薩軍としては時間稼ぎが出来たわけだ。ここで西郷は薩軍を解散して、これ以降の行動は個人に任せるとした。病人や負傷兵には官軍への投降を指示した。解散時に西郷が出した命令が

『我軍の窮迫、此に至る。今日の策は、唯、一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際、諸隊にして、降らんと欲するるものは降り、死せんと欲する者は死し、士の卒となり、卒の士となる、唯、其の欲する所に任ぜよ。』

自らは、天皇より拝領した軍服や書類類をここで焼却。やはり和田越の戦いは彼にとっての最後と考えていたのだろう。

ここで何人かは自決したものもいる。16日の解散命令の後、竜口隊隊長・中津大四郎が責を負って配下に投降を命じ自刃。17日夜には飫肥隊隊長・小倉処平が自刃。自決の是非はさておき、この時代はリーダーの責任感は今より強かった。その責任を自決という形で表す。まだまだ武士道精神がのこっている

薩軍解散後、まだ抵抗しようとしている600名が残った。これはかなり多い数に思える。和田越の戦いで3000人の薩軍がどれほど残ったのかは知らないが4分の1は、西郷と共に戦う覚悟を決めている。これを西郷軍と呼んでいる。西郷軍幹部が宿陣に集まり、今後の作戦が16日と17日の2日間議論された。この600名で3万以上の官軍に戦いを挑もうとしている。会議は激論だったという。真剣にどう官軍に対抗するかを議論している。やはり凄い。可能性がないと分かった時に、考えることを放棄してしまうのが大半だ。議論すること自体が意味がないと冷ややかになってしまう人が多い現代で、この西郷軍の士気は見習うべきだ。最後まで、少しでも可能性があるならば、それにかけて最後まで死力を尽くす。男としてはこの生き方が美しいと思える。

色々な案が出たが、最後に西郷が決定したのは、後方にある可愛岳(えのたけ)を超え、官軍を突破し高千穂方面に出る。それ以降はその時もう一度考えるというものだった。可愛岳には登山道があり2時間半で登れるという。好奇心が刺激された。是非とも西郷軍が登った道を行ってみたい。延岡滞在をもう一日延ばし、明日登ることにした。