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粋なカエサル

ナポレオン3世・オスマンのパリ大改造と印象派5 印象派が描いた「近代」①

2019.02.17 04:33

 印象派の画家たちは彼らの時代を描いた。それは、宗教画や神話画のようなアカデミーの要求する絵画のように、知識を総動員して「読む」絵ではなかった。誰が見てもすぐわかる絵、純粋に絵として楽しめる絵をめざした。だから、印象派のよき理解者であり、現実をありのままに描くという点では共通していたエミール・ゾラとは、多様な現実のどの局面を抽出して描くか、という点で決定的に違っていた。例えば『居酒屋』。ゾラを流行作家の地位に押し上げた代表作だ。貧困にあえぎ、卑怯で狡猾で自堕落な男たちに苦しめられ、転落の宿命をたどる薄幸の女ジェルヴェーズの一代記。『禁じられた遊び』の名将ルネ・クレマンが冷徹なリアリズムで描きフランス映画の名作とされるが、観ていてそのあまりに救いようのない暗さに胸がしめつけられる。女の哀しみとその本能がこれほど赤裸々に描かれたことはないと評される。

 ところでこのゾラ作『居酒屋』。全20巻からなるシリーズ『ルーゴン・マッカール叢書』(副題「第二帝政下における一家族の自然的、社会的な物語」)の第7巻。このシリーズは、1871年から1893年にかけて1年に1作のペースで刊行されたが、1869年に出版社に渡したこの叢書全体の構想ノートのなかで、ゾラは次のように記していた。

「クーデタから現在に至るまでの第二帝政期全体を研究する。さまざまな人物類型をつうじて現代社会を、極悪人と英雄たちを描く。事実と感情を通してひとつの時代全体を描き、その時代の習俗と事件のあらゆる細部を語る。」(ゾラ「構想ノート」)

 ゾラは理想化、観念化、抽象化を排除し、一切の虚飾を取り去って、肉体的な存在としての人間を、冷徹な観察と分析に基づいて描きつくそうとした。クールベのような、絵画を通して階級社会を糾弾するような政治的社会的主張を避け、屈託のない絵、楽しめる絵を目指した多くの印象派の画家とは当然大きな違いがあった。例えば、「印象派の父」と呼ばれたマネ(彼自身は、印象派展には一度も出品していないが)の「ナナ」。シルクハットの紳士の目の前で、下着姿のまま堂々とお出かけ用の化粧をしているナナは、その紳士に囲われた愛人、高級娼婦。彼女のような高級娼婦は、屋根裏部屋に住み、一日15時間働くような貧困生活から這い上がった勝者。しかし、彼女たちは有産階級の男たちにとってただの消耗品。その盛りは短く、大半はやがて棄てられ、また元の生活に転がり落ちてゆく。ゾラの『ナナ』のヒロイン「ナナ」も、華やかな生活にあこがれ、その美貌を武器に高級娼婦となるが、次々と男たちを破滅させたあげく、若くして天然痘で死んでしまう。

 では、マネは高級娼婦ナナをどう描いたか。化粧パフを持って、我々鑑賞者を見つめるナナの表情のなんと溌溂として幸せそうなことか。その姿態のなんと健康美に溢れていることか。そこにはやがて訪れるであろう没落の陰など微塵も感じられない。確かに、観ていて心地いい。しかし、物足りなさが残る。それは「物語」の欠如ということだろうか。

(マネ「ナナ」)

 (クールベ「石割人夫」) 第二次世界大戦中、ドレスデン爆撃で焼失

(マネ「ゾラの肖像」)