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彩ふ文芸部

『春へ』執筆者:へっけ

2019.02.17 12:02

 仕事から帰り、家の扉を開けると、玄関の縁にかけた柵越しに、物欲しそうに瞳を潤ませて出迎えてくれる。彼に「ハル」と名前をつけたのは、「春」に生まれたから、という訳ではなく、ただ猫の名前をインターネットで調べたら、上位に組み込んでいたから、というつまらない理由だ。他に「モモ」と「クー」という名前の猫も飼っているが、最も私になついてるのがオスのキジトラ「ハル」である。

 部屋に入って着替えていたら、いつの間にか万年床に横座りして「ちゃっちゃっと着替えて、俺の背中をさすってくれな。いつものように、顎のマッサージもセットだからな」と言わんばかりのだらけきった表情を見せている。

 しかし、その訴えに対して気怠く感じいるのが、現在の私の本音だ。飼い始めたばかりの頃なら、可愛らしいそのフォームと顔面に惹かれて、嫌と言うほど身体全体をさすっていたが、もはや10年の付き合いになってくると、中年夫婦のような倦怠期を迎えてしまう。

 着替えを終えても可愛がりもせず、夕食を取ろうとすると、愛想を尽かしたのか、足音も立てずに部屋から出ていくハル。振り返りもしない私。空気が当たり前のように存在しているように、ハルへの認識が薄まっている、危機感も持っていない。そこでふと思い出したのが、町田康氏とヒグチユウコ氏、共筆の「猫のエルは」だ。

「猫のエルは」は、現実と幻想を織り交ぜた猫が関係する全5編の短編を町田氏が紡ぎ、可愛らしい動物の絵をヒグチ氏が描いた作品だ。人間がいなくなった地球で、動物達が言語を解していたり、犬が猫に生まれ変わり元の飼い主の手に戻ったりする物語が展開されるが、その中のある短編に、人間に大変、可愛いがられることに幸せを感じて、生活を送る猫の描写があった。

 この本を読んだ私は、自らの過ちに気づき、罪悪感に打ちのめされた。玄関にただずんで、私の帰宅を迎えること、部屋までついてきて足下で座り込むこと、これらは、私に可愛がられて、幸せを感じたいというハルの思いの表れに思える。猫を飼う人間として、その思いに気づいてやれなかった。いや、薄々気づきながらも仕事の疲れや自由に時間を使いたいことを理由に、ハルをぞんざいに扱い過ぎているのではないか。ハルの安全と幸せを真摯に追求することが、飼い主としての責任ではないのか。

 少し遅めの夕食を取る前に、部屋の扉が開いた気配がする。ハルが戻ってきた。その表情を伺うと、私が相手をしてくれないことがつまらないのだろう、エジプト座り(後ろ足を畳み、おしりを地面につけて、前足のみで立つ。警戒心があるときの姿勢)に変わっていた。

 ハルの幸せと私への信頼を再び手にするために、ハルの背中や顎をこれでもかとさする。高速で何度もさする。この私の突然の行動が気味悪くもあり、鬱陶しくもあったのか、ハルはそっぽを向いて部屋からそそくさと出ていってしまった。その後にひとりで、夕食を食べ始めたが、猫に愛想を尽かされたのではないかと、物悲しくなってきた。

 一度、倦怠期を迎えると、そこから脱出するまでの道のりは遠いのかもしれない。そんな先の見えない不安を抱えながらも、ハルの幸せを考えて、今日から毎日、根気良く、一緒に過ごす時間を作って、新たな関係を築いていこうと心に決めた。物悲しさを振り切りたい。