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Komatsubara Yuris Labo

マキシム・ゴールキ劇場・亡命アンサンブルによる『ハムレットマシーン』と「ポストマイグラント演劇」の模索

2019.02.18 02:04

2018年12月21日、ベルリンのマキシム・ゴールキ劇場で亡命アンサンブルによる『ハムレットマシーン』(オリジナル:ハイナー・ミュラー、改作:アイハム・マジド・アガ、演出:セバスチャン・ニュープリンク)を最前列で見た。英語、ドイツ語、アラビア語による多言語劇。そもそもが、ハイナー・ミュラーによる高密度の「ハムレット改作」であるオリジナルを、シリア生まれ、ダマスカス演劇大学を卒業したアイハム・アジド・アガが、自らの物語をさらにそこに挿入・補足して膨らませている。ゆえに、テクストそのものが重要な意味を持ってくるわけで、ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』の作品及び演出が、ミュラー個人の作品展開においても、また世界的な演劇潮流においても、ドラマ演劇からポストドラマ演劇への分岐点に位置したことを考えれば、この作品がテクストに磁場を持ち、「ハイナー・ミュラー」というオリジナルに無邪気に帰還していく方向は、どう捉えるべきなのか。

舞台は、「さあ。ハイナー!ミュラー!コカ・コーラ!」に始まり、ドナルドダック声のハムレットが「わたしはハムレットだった」に始まる『ハムレットマシーン』の有名な【第一景家族のアルバム】のモノローグを続ける。ヨーロッパの悲劇を背負うハムレットの口上に続けて、アイハムによる、旧約聖書の世界の悲劇―カインとアベルの物語が挿入される。アベルの死骸を埋めるために掘った穴、ダマスカス―そこから人々は殺戮という穴掘りをやめなくなったという口上が続く。ダマスカスという小さな穴は、毎分ごとに広がる「中東」という巨大なホールを形成する。

【第二景女のヨーロッパ】は、女性の役者同士がコミカルな寸劇と滑稽なトリローグを展開する。「ミュラーの女性観、どう思う?」「フェミニズムになろうとしてるんじゃない?」「動脈を切った女、睡眠薬自殺の女?ガス台に首をうつぶせた女?どこがフェミニストですって?」「革命を望んでいるのよ」「なぜ女たちすべてを怒りの状況に追い込むわけ?」「オフィーリアにできることは、全部壊して血まみれで外に出て、さあわたしの時代よ、と叫ぶことよ」「それはただの破壊。新しいことをすればいいのに」「新しいことをはじめるには壊すしかないのよ」「そう男が言うの」「いえ、そう私が言ってるの」

【第三景スケルツォ】は役者たちが一斉に舞台に登場する「クレイジー・クラウン・タイムの始まり!」。オリジナルの『ハムレットマシーン』でも無礼講の狂乱シーンが想定されているが、こちらではDJアイハムによる「家族のアルバム」とばかりに、半ば本物半ばフィクションのメンバー紹介がオフィーリアとハムレットになぞられた自己紹介として軽快なリズムで読み上げられていく。

「こちらはオフィーリア。父親はアガメムノンさ。テヘランに1976年に生まれたけど、1991年に殺されてる」

「こちらはハムレット。リビアの牢獄勤務医さ。トリポリの軍事クーデターにより、アフリカ中央へと、ものすごい破壊力を備えた書類を持って亡命。そこでエリート革命とアフリカ戦争について匿名にて執筆活動。生まれは不明!」

【第四景ブダのペスト、グリーンランドをめぐる闘い】では、「わたしはハムレットではない」という例の台詞から始まり、続けてアイハムによる補足テクストが入る。

「愛しのオフィーリア。2月3日昼の12時、ダマスカスの議事堂前で私の物語は始まる。」に始まるオフィーリアへの手紙形式。「私」は予告されたデモを探して、一人広場にたちつくす。秘密警察につかまる「私」は、そのまま警察に連行され警察車両で自白を強要される。そこで『コンピューター」「秘密の場所」「スパイ」といった、求められた台詞を吐き出した「私」。「私のドラマはすでに起こった。デモ隊への最初の発砲の前に。群衆が自分たちの家の窓に立つ前に。そしてテレビをつけて戦争がどこかで起こっているかのように目撃する前に。」

「ベルリンは港街。面した血の海はダマスカスまで続いている。わたしはアレクサンダープラッツで穴を掘り始めた。ひょっとしたら墓穴になるかもしれない。しかしひょっとしたら海底をくぐり抜けるトンネルになるかもしれない。」

「最愛のオフィーリアへ、この身(マシーン)が自分のものである限り。ハムレット」

【第五景激しく待ち焦がれながら/恐ろしい甲冑をまとって/数千年紀】では、斧をかついだエレクトラ演じるタヘラ(カブールの大学で演劇学を学ぶ)が観客を真っ正面に見据えて復讐のモノローグ、そして最後の台詞「彼女がナイフを持ってお前たちの寝室を通り過ぎるとき、おまえたちは真実を知ることだろう」―をドイツ語で語り、立ち去る。この斧を抱えたタヘラは、最初のプロローグでも他のメンバーたちが楽し気な道化パフォーマンスをするなかで一人斧を担いで沈黙するという、違う空気観を醸し出してはいた。アイハムのDJ風のメンバー紹介で、オフィーリアであるタヘラは1991年に死んでいることになっている。ミュラーのオリジナルの『ハムレットマシーン』のなかでも、第五景のエレクトラの最後の台詞は再強度の「女の怒り」を表現するものだが、ミュラーが社会から抑圧された諸々の者たちのうち最も危険な人物の声として女テロリストの名台詞を選択した一方、ここでのタヘラの最後の台詞の位置づけは、マイグラントである彼ら全員の集合した声だったように感じられた。


以上がラフな劇紹介だが、この亡命アンサンブルによる『ハムレットマシーン』が、ポストマイグラント演劇として注目されたこれまでのゴールキ劇場の『コモン・グラウンド』や『The Sistuation』といった新たな彼らの状況に即して生み出された劇とは路線が異なることは確かである。それは、ポストマイグラント演劇の流れを創り出した金字塔的作品『狂った血』と、古典を素材として使用しているという点では似通っているように見えるかもしれないが、しかしハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』のテクストを扱うということは、シラーとは異なり、それを一つのイメージとして、なにがしかの文脈にのせていくことは不可能だ。飲み込まれてしまうのがオチなのである。

ゆえに、オリジナルとの対峙の仕方や距離感はこれまでとは全く異なっている。亡命アンサンブルの一人一人の存在も叫びも思想もまた、『ハムレットマシーン』の骨組みにすでにもれなく取り込まれているわけで、全体を決して構成しないテクストの、噛みあわない歯車の台数が増えたに過ぎないのである。しかし、そのことは決して意味の無いことなどではない。それどころか、機能不能となった諸々の対抗像―ハムレット/オフィーリア、理性/狂気、言葉/身体、資本主義/社会主義、そこに大文字で、ヨーロッパ/非ヨーロッパを書き加えようという挑戦とも読めるだろう。ハムレットの出だしに登場する墓堀人の墓穴は、ダマスカスという穴とアンダーグラウンドで直接的に連結しているのだから。

『ハムレットマシーン』というハイパーテクストへの亡命アンサンブルの挑戦は、そういう意味において、これまでとは異なるポストマイグラント演劇の新たな模索でもあり、同時にドイツの歴史、ヨーロッパの歴史にルートづけられたこれまでの『ハムレットマシーン』とは異なる新たな受容を展開していることは確かだろう。