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白状

ムジカ・シンプレックス

2025.09.10 13:26

1.

 窓のすぐ外から木琴の音と小さな歌声が聞こえてきた。夜の十一時十五分。隣の部屋のテレビの音も消えている。

「帰ってくれぇ」

 がらがらと重いガラス窓を引きながら下を見る。サッシの影に隠れるようにうずくまって、玩具の木琴を指の関節でコトコト叩く男がいる。

「もうちょっと……」

「いや、帰ってくれ。もう寝るんで。明日の昼の俺のいない時間にまた来いよ」

「それじゃあ駄目なんだよう」

 男はワッと立ち上がり、窓枠にかじりついて顔を歪めた。瞼が赤く腫れていて、頬が筋状に荒れている。

「君の近くにいないと音がまとまんないんだ。家にいたってモヤモヤモヤモヤ、壁隔てでも君がいると思えば頭のここんとこがかっかして曲になるんだよ。僕だってこんな寒いところでやりたくない。君のせいだぞ。君がそんなに」

 声が高くなってきた男の口を手のひらで抑える。男の肌は確かに冷え切っていて、三月も半ばとはいえ、まだ重い外套なくしてはいられないのをしみじみと感じる。窓もあまり長く開けていたくない。ストーブをさっき切ってしまったから。

 男は星の光のように細かに震えていた。冷えた髪、耳、瞼、鼻先、頬、顎下。触れられる肌を一通り撫でて、終いに音が残るよう外耳に口付けて離した。

「持って帰って何とかしな」

 言いやると、男の目の先にちかちかと火花が散って、力無い指先が口元を指す。俺は笑って「歯磨きしたんで。お休みなさい」と言って窓を閉めた。カーテンも閉めた。電気も消した。

 しばらく不動で伺っていると、不規則な足音が玉砂利をよろめいて去っていく。

 部屋にだいぶ入り込んでしまった寒気から逃れるため、素早く布団にもぐり込んだ。まだ残っていた温もりが寝間着にじんわりしみて、胸に幸福の広がっていくのに伴い、すぐ意識があいまいになっていく。木琴の素朴な音が脳のすき間で鳴っている。かわいい、かわいい音だった。



2.

 居酒屋の喧騒の中で、最近俺ミューズやってる、という一言は、近くも遠く頭に響いた。旧友が焼き鳥に齧りついてしがんでいるのを見ながら、わざわざ串から肉を外していた手を下ろす。

「就職したって聞いたが」

「ああそっち。仕事はしてるよずっと。仕事しながらな」

 ミューズ。空転する頭に単語が回る。こいつが、よりによってこの男が、ミューズだって。自分の言ったことが分かっているのかこいつは。いや分かっているはずが無い。分かってないから、大学二年の半ばでいつの間にやら、空気が抜けるようにいなくなったんだ。

「お前みたいな詩情のないやつを誰がミューズにすんだよ」

「詩情のあるやつが俺をそうしたんだなあ」

 わはは、と字で書いたような笑い方に無性に腹が立ち、バカヤローいるってんなら連れて来いと言い放ったところ、旧友が電話をかけて三十分もしたらそいつは来た。店の格子戸を覗き込むようにして、旧友が気がついて手を差し伸べるまで一歩も中に入れないでいた。

 旧友の隣に席着いた彼は、表情に乏しく声も小さいが話してみると割合ふつうで、眼鏡店で働く傍ら趣味で楽曲製作をしており、旧友とは店員と客として出会って、何やかやの縁で今があるという。波風のない、それは大人しい人物だった。隣に座る感性の欠如した風船人間からインスピレーションを得られるような、奇特な輩にはどうも見えない。

「出来たから落ち着いてんだろう」

 難しく口を曲げる俺と、俯きがちな彼を双方見ながら、旧友は言った。酒をあおり、干したグラスを木槌のように叩きつけて、音に小さく身をすくませた彼を覗き込む。

「もう俺を使い切れたか」

 彼はちらりと横に視線をやったが、何も答えなかった。沈黙が流れ、空気が妙な色に変容する。気まずくなった俺は飲み物を追加しようとメニューを手にした。

 はずみで箸が転げ落ち、笑いもないままテーブルの下に屈む。そして、何と言うか、俺の間が全部悪いんじゃないかと思った。テーブルの陰で、黙りこくっている初対面の男の指が、旧友のシャツの裾を摘んでいる。小さく、しかし確実に気づかれるであろう強さで引きながら。それを旧友は全くの無視で放っているのである。体を起こすと二人横並びのまま、もう相手の顔も見ず黙々と残った串焼きに取りかかっていた。

 変に言葉少ななまま、結局追加の注文もせず退店した。旧友に別れの挨拶をされた彼はそのまま、ふらふらと雑踏に紛れて去っていった。一杯も飲んでいなかったのに覚束ない、危なっかしい足取りだ。

「大丈夫なのかよ」

「大丈夫だよ。今日は自分ちに帰るだろ」

 旧友は普段通りの笑顔で悠々と伸びをしている。

「そのうち終わるさ」

 両腕を下ろした男は、自分の使う駅に向かって歩き出す。俺は別の駅を使うのに、余りに堂々と進むので何となくついて行ってしまう。振り返りもせず、旧友は後ろの俺に話を続ける。

「受け取るのも、燃やすのも、事を成すのも彼がやる。俺はただ貰われていく資源だ。いつか気づくよ、あんなでも」

「ミューズじゃねえのか」

 同じだろ、と男は笑った。俺は何か直接的な文句をつけたかったが何も思いつかなかった。この笑い方をこいつは数年前、完成直前の課題の前でしていて、そのまま大学からいなくなったのだ。ただ笑うだけ、何も言わないまま。

 その課題作品を、俺は今でも細部まで思い出すことができる。非常に精巧で、構成がよく練られた、ひたすらに美しい制作物だった。あと一息、二息のところまで出来上がっていたのに。

「それだけじゃなかったら、どうする」

 摘まれていたシャツの裾を指差してやった。俺に見られたことさえ当然のように、旧友はにこにことしている。

「ま、それはそれで。かわいいんで」

 いつの間にか駅前まで来ていて、旧友はさっさと改札をくぐって行ってしまった。手を振ってくるあたり、俺が別方向だったこともちゃんと分かっている。

 妙なものに袖擦りあってしまった疲れが、どっと足を重くした。タクシーでも拾いたい様な気分だが、あんなもの見せられておまけに出費が嵩むのも悔しいので、えっちらおっちら歩いて戻った。久しぶりに思い出したあの作品の質感が、冬の寒さとは違う冷たさを胸に差し込んでくる。そしてそれを凌駕して、旧友ののっぺりした笑顔と、ミューズという発声の軽々しさが何度でも腸を煮えくり返らせる。何年経っても、憎ったらしい男だ。



3.

「はかどってるう」

 頭の上に平たく詰めたい物を押し付けられて、僕は心底嫌になった。下の歯を剥き出しにしながら振り仰ぐと、アルコールにふやけた彼の顔が揺れている。炭酸が沸くグラスを押し戻して、膝に乗せていた木琴を胸に抱いた。

「さよなら」

「待ちなって、帰るなよ」

 服の背中の真ん中あたりを掴まれて、ぐっと体がつんのめる。嫌だ。芯から嫌だ。いつも僕のことなんか歯牙にもかけない彼が、酒の水位が規定を超えると途端にこっちに寄ってくる。その窓枠を乗り越えようとしさえする。今すぐに、走ってでも帰りたい。帰りたい、帰りたいと頭で叫ぶのに、足はボーになって動きゃしない。僕の構成物の中で一番彼の言いなりなのが、このばかな足だ。

「そう酔って気ままにしないでよ。僕に構う君なんか嫌いだ」

「気ままなのはお前だろ。音楽作るんでなかったら電話も出ないし何週間だって来ないんだから」

 服をぐいぐいと引っ張られて、背骨が窓枠に食い込んで痛い。ふと手が離れたと思ったら両腕が首に巻きついて、彼の声が恐ろしいほど近くなった。

「いつも帰らされてる分今日居なよ」

 声が、耳を、くびすじを、目の裏を震わせて、僕はワッと叫びそうになった。口の中で噛み潰した叫びをなんとか言葉に形成して、ピストルのように放つ。

「帰らせてるのは君じゃないか。僕はただ居させてくれたら良いのに。君を見られたら、君の音を聞けたら良いのに、君がいつも僕を追い立てるんだ」

「そうだな」

「君の近くにいてそこに君がいるって思えば僕の頭は働くんだ。僕はそれで楽しく遊べる。君は君だってだけで僕を何度も作り変えるのに」

「そうかい」

「君がそうやって酔っ払って僕に気を向けるなら、いつものことはなんなの。君は僕に関係なんかしてない、それで僕は良いのに君がおかしくしてくるんだ」

「そう、それから?」

「いつも通りにしてよ。今だけのことなんてやめて、僕を構わないのが君ならそうしていてよ。僕を許さないならずっとずっと許さないでよ。君を安心して見させてよ。僕が何してても放っといてよ。君が僕を」

 いつの間にか耳の中がごうごうと激しく鳴っていた。濁流のような言葉の嘔吐がそれでも、急にハサミでぷつんと切られたように止まる。

 君が僕を、

 そこは何もない、見たくもない。

「うるさいねえ」

 顎の下に手があてがわれて、上を向かされる。取り戻した視力で見えるのは雲多く星のない夜空と、張り出し屋根の縁。彼の首の皮膚に、外耳が押しつぶされるように密着した。人肌の感覚に身が縮こまったが、そのままずっと、ずっと彼が動きも話もしないので、段々と頭がおとなしく、静かになっていく。

 通りの向こうの方から踏切の音が、くぐもって聞こえる。時々車が、時々人が、そこらを通り過ぎて行く。どこかの家の給湯器が点いて、消えて、どく、どく、どく、どく、彼の首が拍動する。血の流れる音。皮膚の下を走り、彼の全体に命を運んで循環する、初めて聞く彼の音が、どく、どく、どく、繰り返し、繰り返し。

「覚えててよ」

 触れていた体が全て離れていって、僕は恐る恐る彼に振り向いた。視界に入った彼の笑顔はもう酒気もなくビビッドに固定されていて、反射的に目を逸らす。

「俺をあまりに知らんようだから、覚えなよ。音ならここに残りそうだし」

 耳に指を突っ込まれて今度こそ悲鳴を上げてしまった。

 木琴を取り落とす僕をワハハと笑って、彼は窓から一歩部屋へ下がった。カーテンが引かれる。電気も消える。窓は、窓は閉まらない。風にかすかに揺れる一枚の布が、境界をあわく隔てている。言葉を吐ききって、今までで一番彼を拒絶して、僕はもうすっからかんで、足が、この場を立ち去らない。

「思い出せる、今の」

 姿のない彼が問うてくる。思い出そうとしてみた。頭が溶融しそうなほど熱い。震動だけがわずかにあって、音としてはすでに揮発してしまった。

「無理……」

 情けなく湿った僕の応えに、じゃあほら、と彼の声が笑う。僕はアルミの窓枠にしがみついてぐずぐずに泣いた。

 こんなみぞおちほどの高さの窓だって越える力が僕にはない。襤褸切れのようになった僕を彼は軽々と引っ張り上げて、室内に入れるやぴしゃりと密閉した。ああいつ怒られるかと思ったと言い、真っ暗な中で僕を大きな布に引きずり込んでくるくると巻いた。僕は一部の隙もなく身動きできないまま、侵襲してくる温かさに必死で目を瞑っていた。頭の中にいくつもの粒が砂金のごとく光って痛いほど眩む。もがくように彼の音を探すとすぐに与えられた。縋りつけばより近く、より深く包まれる。二度と忘れないように、と彼は言いつけ、僕はただ一心にその音を聞き続けた。夜を通り行くあいだじゅう、それがこの世でひとつきりの時計みたいに。