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1 SCENT FOR DREAM

第一章:風は、記憶の扉を叩く|1 scent for dreams

2025.09.11 06:54



風が吹いていた。


それは午後三時の静寂を優しく破るようにして、葉山家の窓辺をかすかに鳴らした。

鳴ったのは、風ではなく記憶かもしれなかった。

あるいはそれは、遠く去っていった人の気配だったのかもしれない。






類は、兄の部屋の引き出しを開けていた。

帰省は数日だけ。兄はまた、どこかへ行ってしまう。

彼が残していった部屋には、いくつもの香りがあった。




陽に焼けた紙のにおい、机の木目に沁み込んだインク、

そして——ネロリの香り。



「これはおまえにやるよ」と、兄は言った。

イギリスからの帰省中のことだった。

見慣れない細長い瓶。

小さな金属のキャップ、簡素な文字が印刷されたラベル。

そのなかに閉じ込められていたのは、まだ世界を知らない弟にとって、

世界そのもののような匂いだった。


少しだけ大人びて、少しだけ寂しくて、

そして何よりも、兄の気配がした。

その香りをつけて、類はひとりで庭に出た。

金木犀も、桜も、まだ咲かない季節だったが、

風のなかにひとつの花が咲いたような気がした。

香りというものが、記憶を内側から揺らすものだと知ったのは、

この時だった。






父は香水を嫌っていた。

「男が香りに耽るなど、腑抜けの証だ」

そう言って、兄の嗜好を疎んじた。

けれど、母の衣にふと香るジャスミンを、父は決して咎めなかった。

愛していたのか、あるいは諦めていたのか。

父の感情は、いつも硬い石のようで、触れれば冷たかった。

兄は、父に歯向かうようにして旅立った。

音楽の道に進みたいと告げた夜、父と激しく言い争った。

類はその隣の部屋で、震えながら耳をふさいでいた。

翌朝、兄はいなかった。

その代わり、机の上に香水の瓶がひとつ。

置き手紙はなかった。

香りだけが、兄の言葉だった。

「類、おまえは…」

どんな言葉を続けたかったのだろう。




類はその後も何度もその香りを手に取り、

大切な場面で少しだけ身にまとった。

小学校の卒業式。

初めての受験。

祖母の葬式。

そして、兄が帰ってこなかった春。

風が吹くたびに、類のなかで何かが目覚める。

それは誰かを思う気持ちであり、

なにかを残そうとする願いだった。

香りは、声なき祈り。

そして、沈黙のなかで語られる手紙だった。






類が初めて「自分だけの言葉」を持ちたいと願ったのは、

香りとの出会いがきっかけだったのかもしれない。

人は音楽を奏でる。

絵を描く。

詩を書く。

けれど類にとって、

「香り」はそのどれとも違う、

もっと原始的で、もっと深く静かな——表現だった。

それはきっと、

いつかまた誰かに渡すための、見えない手紙だった。