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1 SCENT FOR DREAM

第二章:失われた午後のなかで|1 scent for dreams

2025.09.25 07:00

午後の光は、いつも斜めだった。

幼い類の世界では、光は正面から差し込んでくるものではなく、

畳をなぞるように傾き、沈黙の縁を縫っていくものだった。

その光のなかに、父がいた。

分厚い新聞の陰から顔をのぞかせることもなく、

ただ静かに、冷えたコーヒーを啜るだけの人だった。


父・葉山征爾。

彼は熊谷の旧家の出で、

敗戦で全てを失った祖の息子として、

失われた誇りを、歯を食いしばって拾い集めてきた人だった。

「勝たねば意味がない」

そう口癖のように呟く父の言葉には、

何かを信じるというよりも、何かを赦さぬ決意が滲んでいた。



父は、兄を認めなかった。

「音楽など、敗者の逃避だ」

「己の身を立てる術を持て」

兄がピアノの前に座ると、

その背に視線を刺すような沈黙を落とした。

兄・颯真は、それでも弾いた。

音のなかにだけ、彼は彼でいることができたから。

類は、廊下に座ってそれを聴いた。

鍵盤の音は、彼にとって兄の声そのものだった。

優しくて、強くて、どこか遠くを見ていた。




そして母は、そのすべてを見ていた。

言葉にせず、姿勢を変えず、

けれどたしかに、見ていた。

母・千賀は、牧歌的な家庭に育った。

母方の祖父母は、戦争を憎み、欧米への嫌悪を隠さぬ人々だった。

だが、母は欧州の建築、音楽、そして香水に密かな憧れを抱いていた。

そのズレは、結婚によって深まり、

父の価値観と、母の微かな夢は、

決して混じり合うことはなかった。

ただ母は、沈黙という衣をまとい、

家族の裂け目にそっと布を被せるように、笑った。

その笑顔は、類にとって痛々しいまでに優しかった。


ある晩、兄が父に叫んだ。

「俺は、父さんのために生きてるわけじゃない!」

その声は震えていた。怒りではなく、絶望の震えだった。

応じる父の声は、刃物のように鋭かった。

「なら出て行け。家の名を汚すな」

その翌朝、兄は本当にいなかった。

机には何も残っていなかった。

香水すらも。

それでも、類の心の奥には、

兄の香りが、音楽のように漂っていた。




季節は巡り、兄は戻らなかった。

たった一度の年賀状、音符のような文字で書かれた一言。

《類、君の感性を大切に》

それは、兄が唯一送ってきた手紙だった。

類はその日、兄の残した音と香りを胸に、

ひとりで庭に出た。

風が吹いていた。

あの時と、同じ風だった。

兄が去った午後。

父が新聞をたたんだ音が、

まるで何かを封じ込める合図のように聞こえた。

そのあと、父は二度と兄の名を口にしなかった。



類は思った。

家族とは、綻びの連なりだ。

だが、だからこそ、それを結び直そうとする行為に、

ひとの美しさが宿るのではないかと。

兄を失った午後から、

類のなかでなにかが静かに芽吹いていた。

香りという、記憶の奥から咲く花のようなものが。

それは、まだ名前も持たぬ、

とても静かな夢の芽だった。