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1 SCENT FOR DREAM

第三章:目覚めゆく感性|1 scent for dreams

2025.10.09 03:15

日曜の午後、テレビの画面が淡い光を放つ。

父が眠っている隣で、類は黙ってその光を見つめていた。

画面の中には、架空の誰かがいて、

架空の街を歩き、架空の恋をしていた。

けれど、類にとってそれは、現実よりもはるかに確かなものだった。

「ぼくも、あそこに行きたい」

その言葉を誰に向けたわけでもない。

けれど、その瞬間から類の内側で、

何かが目を覚ました。

それは、演じたいという欲望ではなかった。

なりたいわけでも、見られたいわけでもない。

ただ、「何かを伝えたい」という、

原初の衝動のようなものだった。


中学に上がったころ、類は文化祭で初めて舞台に立った。

配役は主役でも脇役でもない、名もなき通行人。

けれど、たった一言の台詞のために、彼は何時間も立ち位置と呼吸を練習した。

「おまえ、そんなに真面目にやらなくてもいいんじゃない?」

クラスメイトの何気ない一言が、

類の中で奇妙な誇りに変わっていった。

「誰も見ていないところにこそ、真実は宿る」

そんな言葉を、いつしか彼は心のなかで呟くようになった。

舞台の袖に立つと、心がざわつく。

それは不安ではなく、何かを始める前の“呼吸”だった。

光の向こうにあるものへ、

まだ言葉にならないままの想いを、香りのように漂わせる。

演じるという行為は、香りに似ていた。

目に見えないものが、ふと空間を満たす。

そしてそれが誰かの心に触れたとき、

ようやく意味を持つ。


高校に入ると、類は演劇部に所属した。

家庭のなかでは“黙って勉強する子”で通っていたが、

放課後の教室では別の顔があった。

脚本を書くことにも興味を持ち始めた。

あるとき、彼は兄の手紙にあった《感性》という言葉を、

台詞の中に書き込んだ。

「感性は、傷ついた場所から花を咲かせる」

顧問の教師が言った。

「この台詞、君の実感から出た言葉だね」

それが、類にとってはじめての“承認”だった。

父は相変わらず類の内面に興味を示さなかった。

ただ成績を見て、「まあまあだな」と言うだけだった。

母もそれ以上、何かを語ることはなかった。

それでも、類のなかでは確かな“息づかい”が育っていた。

誰に知られずとも、自分の内にある“音楽”があった。

それは兄の残した音に似ていた。

鍵盤のないピアノ。

香りのしない香水。

姿を持たない舞台。

だが、たしかにそこに在るものだった。


ある夜、ふと祖母の遺したトランクを開けた。

そこには、古い8mmのフィルムと、

今では誰も使わない香水瓶があった。

埃をかぶったその瓶を、そっと開けると、

かすかにバニラとタバコの混じったような、

時の奥底から漂ってくる匂いがした。

類は涙がこぼれそうになるのをこらえながら、

その瓶をポケットに忍ばせ、

次の稽古へと向かった。

祖母も、母も、兄も。

香りを纏って生きていた。

それが一族の血であり、声だったのかもしれない。


香り。

それは、感性の記憶装置。


それを理解したとき、類の演技は変わり始めた。

演じるとは、記憶を纏うこと。

他者の人生を生きるのではなく、

自分の中の“誰か”を呼び起こすこと。

類はまだその言葉を知らなかったが、

感性が、目を覚ました瞬間だった。