Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

1 SCENT FOR DREAM

第四章:曖昧な光、確かな影|1 scent for dreams

2025.10.23 08:07


夢は、ある日突然、光を失う。

だがその失明は、外から見れば気づかれぬほど緩慢で、

まるで夕暮れが夜に溶けていくようだった。

類は、俳優になる夢を捨てた。

それが「夢」だったことにすら、後になって気づくほどに静かに、

その想いは手のひらから零れていった。

演技を愛していた。

だが、業界はそれとは別の顔をしていた。

表現は情熱ではなく、機会に。

才能は輝きではなく、誰かの都合に変換される。

光の中に立つには、

無数の“知らぬ誰か”に、評価されなければならなかった。

「いい役者になるより、いい役をもらえる人になれ」

と、ある演出家は言った。

類には、それが呪いのように聞こえた。



大学では政治学を学んだ。

演じることは、誰かの思考をなぞることでもあったから、

思想や制度を学ぶことに、違和感はなかった。

だが、心のどこかで、

“代わりの人生”をなぞっている感覚があった。

まるで他人の靴を履いているような、

その足元の違和感は、ずっと消えなかった。

周囲は未来を描いていた。

類だけが、未来を“演じて”いた。

「将来はどうするの?」と聞かれたとき、

口先で答える進路に、心はなかった。

だがそれでも、時間は進む。

周囲も進む。

演技のような現実の中で、

類は“ちゃんとした人間”の仮面を剥がせなくなっていた。



卒業とともに、彼はイギリスへ渡った。

兄がかつて暮らした国、そして夢を託した場所。

ランカスターの曇り空は、

日本の四季のような劇的さを欠いていたが、

その代わり、心の濁りにはよく馴染んだ。

英国の大学院で学ぶ政治思想は、

予想よりもずっと抽象的で、

ときに演劇よりもドラマチックだった。

“国家とは何か”

“自由とは何か”

“勝者とは、誰か”

それらの問いは、

かつて兄が父に放った叫びの続きのようでもあった。

ある教授は言った。

「政治とは、希望の配分である」

その言葉に、類はかすかな眩暈を覚えた。

香りもまた、希望の配分だった。

誰かの心の奥に、希望を一滴、落とすための。

演技は捨てた。

だが、何かを伝える手段を求める心は、生きていた。



ある日、ロンドンの小さな映画館で、

かつての日本の自主映画が上映されていた。

出演していたのは、かつて同じ舞台に立った仲間だった。

彼は光を纏っていた。

スクリーンのなかで、生きていた。

類はひとり、席を立てずにいた。

胸の奥に、古い香水瓶を落としたような音がした。

——もしも、あのとき、何かが違っていたなら。

けれどその“もしも”は、

過去ではなく未来へ向けられるべきだと、彼は思った。

夢の残骸は、時に未来への設計図になる。

痛みの輪郭こそが、自分の輪郭を描くのだ。

香りもまた、そうではなかったか?

見えず、形を持たぬものが、確かに存在する。

それは、人の感情も、人生も、同じではなかったか。



帰国した類は、無言のまま就職活動を始めた。

芸能事務所でもなく、政策研究所でもなく、

選んだのは——香水会社だった。

誰にも理由は話さなかった。

けれど、彼の中ではすでに確かな“接点”があった。

兄から受け取った香り、

祖母が遺した瓶、

そして、自らの“表現の欲望”。

類はようやく理解し始めていた。

演じることも、語ることも、香ることも、

みな、心のどこかに触れるための手段にすぎないのだと。

だが、それを“仕事”にするということは——

想像以上に、過酷な世界への入り口でもあった。