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1 SCENT FOR DREAM

第五章:均一の檻にて|1 scent for dreams

2025.11.13 04:00


朝の通勤電車は、まるで押し花のようだった。

誰もが皺一つなく畳まれ、無言のまま定位置に押し込められている。

類はそのなかで、呼吸の仕方を忘れかけていた。

学生時代に抱いた「自分は特別だ」という誇りは、

吊り革の揺れとともに、次第に色を失っていった。

香水会社——それは華やかな世界だと誰もが思っていた。

だが、実態は違った。

「ヒットを出せ」「売上を伸ばせ」「トレンドを見ろ」

感性ではなく、数字が求められた。

彼の提案する香りは、何度も却下された。

「詩的すぎる」「分かりにくい」「売れない」

その言葉のひとつひとつが、

かつて演技の現場で浴びた評価とは異なる種類の冷たさだった。

そして、彼が学んだことは——

会社とは、均一化の装置である、ということだった。



昼休みの社員食堂。

誰かが「葉山さんって、あの有名な音楽家の息子でしょ?」と囁いた。

言葉には棘はなかったが、

そこに張り付く興味と距離感に、類は目を伏せた。

「偉大な父を持つ、普通の息子」

それが、周囲の暗黙のラベルだった。

努力しても、創造しても、

それは「父親の血だろう」と処理され、

失敗すれば、「やはり二代目はダメだ」と笑われた。

その悔しさは、演技の挫折よりも深く、鈍かった。

なぜなら、それは“努力では超えられない壁”のように見えたからだ。



類は反骨心を燃やした。

誰よりも早く出社し、

誰よりも遅くまで働いた。

会議室のホワイトボードは、彼の書き込みで埋め尽くされた。

数字、成分、ブランド戦略、感性の言語化。

何かを証明したかった。

“自分”の存在を。

そんなある日、社内のプロジェクトで新作フレグランスの立ち上げが告げられた。

類は自ら立候補した。

プレゼンの資料には、こう書かれていた。

——「ネロリ、それは記憶の扉を開く鍵。」

誰も知らないその香りの意味を、類は知っていた。

兄が遺していったもの。

初めて香りという表現に出会った日。

それは、自分の原点だった。

上司はひとこと言った。

「悪くない。少し詩的すぎるが、試してみよう」

その日、類は机の下で拳を握りしめた。

やっと、“自分の言葉”が、ひとつ届いた。


だが、喜びは長くは続かなかった。

ブランド部門との衝突、社内政治、広告戦略とのズレ。

企画は何度も修正され、

最終的に“ネロリ”は“シトラス・ブロッサム”へと改名され、

類の名前はクレジットから外された。

——また、誰かのものになった。

そのとき、類は気づく。

「誇り」は、“結果”ではなく“継続する意志”によって守られるものだと。

そして、企業のなかでは、

“結果”と“評価”は、必ずしも一致しないのだということにも。



深夜の帰路。

コンビニの灯りだけが点在する道を歩きながら、

類は、ふと胸ポケットから古びたネロリの小瓶を取り出した。

キャップを外し、

そっと香りを吸い込む。

兄の声が聞こえた気がした。

「類、おまえのやり方でいい」

そう囁いたのは、香りだったのか、記憶だったのか。

類は思った。

勝つことがすべてではない。

だが、負け続ければ、何も守れない。

それが、社会という場所だった。

この檻のなかで、どう“違い”を守るか。

それが、これからの課題だった。