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1 SCENT FOR DREAM

第七章:彼女がいた季節(前編)|1 scent for dreams

2025.12.11 04:05

彼女は、風だった。

気まぐれに現れ、思い通りに動き、

人の境界線に躊躇なく入り込む。

そして、誰のものにもならずに去っていく——

そんな、都市にしか咲かない種類の花だった。



広告塔。

トップモデル。

高級ブランドの顔。

週刊誌の見出し。

表紙を飾る女。

それが、彼女だった。

類が最初に彼女を見たのは、駅構内の巨大な広告だった。

濃紺のドレスに、赤いリップ、遠くを見つめる横顔。

「手の届かない美しさ」のテンプレートのような人だった。

まさかその数ヶ月後、同じフロアのカジュアルな社内打ち合わせで彼女と並ぶとは——

そのときの類には、想像すらできなかった。

「なんか、会社って狭いよね。香水作ってる人がこんな地味だなんて」

最初の言葉は、無邪気にして暴力的だった。

だがその軽さが、なぜか類には心地よかった。

「ねえ、るいくんって、香りで恋とかしたことある?」

「あるわけないか、そんな顔してないもん」

笑いながら、彼女は平然と距離を詰めてきた。

彼女は、目が合っても逸らさなかった。

触れるように見て、見つめるように話し、

まるでそこに境界が存在しないかのように振る舞った。




「映画いこうよ。平日の昼間、休みとって」

「カフェで香り嗅ぎっこしよう。ブラインドテストで、私が勝ったらアイスね」

「あなたの部屋、なんか犬っぽい匂いする。実家、柴犬飼ってたでしょ?」

「私の香り、覚えててくれてる?」

彼女は会うたびに言葉を投げ、ルールを崩し、予定を狂わせた。

最初は、類も困惑した。

彼女は約束を守らなかった。

ドタキャンし、急に連絡し、深夜に呼び出し、翌朝には音信不通になった。

だが、それすらも“彼女らしさ”として受け入れてしまうほどに、

類はもう、深く飲み込まれていた。

「あなたって……なんか、かわいい。自分で思ってるよりずっと」

そんなことを、彼女は夜のコンビニ帰りにぽつりと呟いた。

それは魔法のようだった。

類は、自分が“かわいい”と形容されることがある世界を知らなかった。

彼女の言葉は、世界をねじ曲げる力があった。





ある夜、酔った彼女がポツリと言った。

「ねえ、私ね……いつか全部失う気がするの」

そのときだけは、彼女の目がどこか遠かった。

類はそっと、彼女の手に触れた。

すると彼女は、子供のようにしがみついてきた。

「るいくんだけは、いなくならないで」

「……私、あなたに名前をあげたんだから」

その夜から、類にとって“るいくん”は、世界で最も尊い呼び名になった。

兄も呼ばなかった、家族すら使わなかった、唯一の響き。

それはアイデンティティだった。

彼女が彼の“存在”を名付けてくれたのだ。



だが、光はいつだって陰を孕む。

彼女は多忙だった。

表に出る仕事が増え、インタビューに、撮影に、海外のオファーに。

一方で、類は変わらず中堅企業の社員だった。

小さな机で香りの企画書を書き、

彼女のSNSに載るブランドの影で、名前も知られぬまま働いていた。

デートは減り、返信は遅れ、

それでも類は、すがるように彼女を信じ続けた。

「私ね、すごく幸せだったんだよ、ほんと。

でも、なんていうか……もうすぐ壊れそうな気がするの。

私たちのことじゃなくて、私のなかの何かが」

別れの気配は、湿った空気のようにじわじわと漂っていた。

そして、ある日。

彼女は、もう会えないと告げた。

「好きだけじゃ、生きていけないの。

私には、生活がある。現実がある。

あなたには……ないでしょ? ごめんね」

その“ごめんね”の一言で、類は全てを理解した。

彼女は、類を愛していた。

でも、“勝てない類”を愛し続けるほど、

この世界は甘くなかった。

彼女は現実を選び、類は取り残された。




その夜、類はひとり、

ネロリの香りを嗅ぎながら、

ベッドの中で名前を呼ばれた記憶を反芻した。

——るいくん。

あの響きだけは、確かに本物だった。

自分だけのものだった。

そう言える日を迎えるために。

……そう、信じていた。

だが、この幻想が砕けるのは、次章のこととなる。