ニューエイジをめぐる対話(1)権威主義をめぐって(1)
paratorapa:権威主義について
それでは、 まずは1)の項目から,少し私の思うところを開陳させていただきたく思います。 まず,権威主義的傾向について。特定の個人や組織の権威に対して,服従し,権威者以外に対して攻撃性,敵意をもつ傾向です。認知が硬く,ものごとを善悪,白黒,先入観としてとらえる性質が強く,偏見や差別に通じる心理的な性質も持っています。 権威主義的な傾向の強い人は,権威者とのコミュニケーションのチャネルのみが開いており,権威者の顔色だけをうかがうようになりますし,大義名分を与えられ,権威者によって正当化された場面の定義を無批判に受け入れるようになり,あたかも自らの意志ではなく,権威者の「代理人」として行動するようになり,自らの行動に対する責任を否認するようになります。(命令に忠実に従っただけであり,私には責任はない)
ここで,私は「教祖」と「グル」を分けて述べます。カルトの教祖などで「グル」を自称する人がいますが,一般の宗教的な組織(ニューエイジ系グループも含む)においては,特に霊的な結合や霊的な直感に基づく相互選択を前提とせず,とりあえず金銭やもの,サービスのやりとりに基づいて成り立っている対人関係は「グルとその伴者」の関係というよりは,普通の教祖-信者関係であると理解しています。グルは組織を大きくしようとか世俗的な動機で活動しません。物理的次元でつながっているというよりも,意識の内奥での同調が起こっているために,一方が霊的に崩壊すると,それが他方にも連鎖反応をきたして次々と精神的な破綻が飛び火します。深い心的,霊的結合に根ざした関係は,めったに見られません。
ここでは教祖と信者の関係で述べます。
大義名分や教祖,リーダーのメッセージをそのまま無批判に受け入れる状態はマインド・コントロールによっても強化されます。ここでは,外部から入ってきた知識や情報を既定の枠組み(世界観)として刷り込んでいくのであり,それを絶対的な真実であると受け入れてしまいます。 本来は,自らの信念や体験に根ざしたものではなく,外側からの働きかけによって信念体系そのものも塗り替えられているため,あたかも自分で考えているように感じます。ここは権威への服従とは異なる状態です。
集団では多かれ少なかれ,こういった形での行動,信念の同調が生じるようになります。カリスマ的なリーダーのいる集団ほど,メンバーの同調は強くなります。
実を伴わない,という意味について。これは,個人の内的体験や自発的な意志を度外視,軽視して,特定の鋳型にはめ込んでしまおうとする集団運営にあり,メンバーの完全な依存と無批判の服従の構造をもっている場合に言えるのでしょうか?ならば,メンバーの自主性と自立を促す方向の集団運営ではどうなるのだろうかと,考えるのであります。そういう集団ってありますか?
ニューエイジ,精神世界,新新宗教の形態はきわめて流動的で,とらえどころのなさも特徴ですが,個人の感覚を重視,尊重するのも特徴の1つだと認識しています。ただ,個人の感覚だけで行くと,バラバラになりますし,何でもありの世界になります。他方で集団の権威が強調されるようになると,ここまで述べてきたようなさまざまな弊害も出てくることになります。 何が実で何が虚となるのでしょうか?この辺を一緒に考えていただけたら幸いです。
NOBORU:権威主義的な傾向
権威主義について、詳しく分析していただき、ありがとうございます。 もしニューエイジ的な潮流が、大衆レベルにまで拡がった霊的成長への関心であるなら、 疑似宗教によく見られる権威主義に対してどのような新しい姿勢を持ち得るか、とても大切な問題になると思います。 ひとりひとりが自由に様々な新旧の行法を選んだり組み合わせたりしながら 霊的な成長へと向かうところにニューエイジ的な特徴があるでしょう。 しかしそれが霊的な成長への関心である以上、 あちこちでグルと弟子の関係が生じるのは自然のなりゆきですし、 またそうした関係が霊的成長の決定的な要因になることも多いと思います。
真に覚醒したグルに従っていくとき、 弟子がグルを絶対的に信頼して自己を投げ出していく時にこそ、 弟子の目覚めが起りやすいというのもおそらく真実なのでしょう。 むしろ、ここにおそらくグルと弟子の関係の核心があると思います。
伝統宗教の中には、グルと弟子のこうした関係にともなう危険を回避するための 幾重かのチェック機能が働くのでしょうが、 大衆化されたニューエイジ運動の中にはそれがありません。 それゆえ似非グルが、弟子の絶対的信頼を利用して可能な限りの破廉恥を繰り返す、 あるいはニューエイジ的な装いをもつカルト宗教のグルが、想像も出来ないような悪事を弟子に強いる、 などということが大変おこりやすいのではないでしょうか。
問われるのは、私たちひとりひとりが真のグルと似非グルとを見分ける力を 持てるかどうかということでしょうが、 これは内面的な問題なので非常に難しい。 もうひとつは、たとえ外面的な特徴からでも、真のグルと似非グルとを 見分ける基準を、 みんなが共通認識として持つようになること。 その基準のひとつが、実を伴わない権威主義的な傾向を 振りかざしていないかどうか、だと思うのです。
paratorapa:
「私たちひとりひとりが真のグルと似非グルとを見分ける力を てるかどうかということ」ですが、 いわゆる霊媒体質者であるならば,この辺は簡単にかぎ分ける,見分けることができます。相手が霊的に覚醒しているかどうかは,出会った瞬間,いや出会う前から衝撃波のような感覚で,全身で感じられるものだそうです。意識場同士の共鳴や衝突が彼らには体感できます。
「たとえ外面的な特徴からでも、真のグルと似非グルとを見分ける基準」ですが、 超感覚的なものがなくても,外的基準である程度見分けることが可能であろうと私も思います。ただ,そのためには「本物」がどういうものかを知っていないと混乱してしまうことも確かです。限りなく本物に見せかける偽物もいるためです。 逆に,偽物に一度でも騙されてしまった人は,過剰に猜疑心が強くなり,今度は本物を見失うという厄介なことも起こります。 相手にまだ深くコミットしていない段階では,権威主義的な構造に対して警戒心が起こりますが,巧妙に偽装された心理的操作を使えば,疑問を感じることなく,いつの間にか信者になってしまっていることもありうるのではないでしょうか。
NOBORU:支配-隷属関係
グルが本物であるかどうか、内的な判断力、超感覚的な直感力、眼力などでしっかり見分けることが出来ればよいのですが、これもなかなか難しいのではないでしょうか。
もう一つは、外的な特徴による見分けですが、これもパラトラパ雅さんのいうように「巧妙に偽装された心理的操作を使えば,疑問を感じることなく,いつの間にか信者になってしまっていることもありうる」わけす。
私は、見分けのための、もうひとつの可能性を考えて見ようと思います。それはグルと弟子の相互関係の中で、弟子自身が権威主義的な傾向に依存していないかどうかをチェックすることです。これは自分自身の心の問題なので、自分の心の状態を素直に感じとろうとする姿勢さえあれば、可能なのだと思います。
ひとつ例を挙げます。 サイババ信者の話です。
「サイババはあなたがた模範的な家族を使って、霊的ファミリーのあるべき姿ををアメリカ中に伝えようとしているんですよ」と人々に称えられ、サイババにも特別待遇を受ていた家族で、家族が一緒になってサイババの教えを体現しようと、けなげに努力して生てきた信者です。
実は、その息子がプライベート・インタビューに呼ばれる度にサイババの性的快楽の犠牲になっていた。苦悩の果てに家族はサイババと決別するのです。
「なぜあなたは自分の全てのパワーをグルに明け渡したのだとおもうか」のパンタ笛吹さんの質問に対し、息子の母・ティナの言葉。
「サイババの名前、神の名前を唱え続けることによって、現実の苦しみから逃げ出したかったのでしょうね。誰かに頼りたかったのかもしれませんし、何かの教えに忠実に従うことによって、安心感を得たかったのかもしれんせん。でも、この経験から多くの気づきと学びがあったので、もう私はグルに頼りきるという、人生での大きな間違いを犯さないと思います。」(『裸のサイババ』)
彼女の言葉は、精神分析学者フロムのいう「自由からの逃走」の心理をよく表現していると思います。 「神の化身」に自分を明け渡すことによって得られる安心感。自由であることの不安からの逃走。つまり、権威あるものに自分を投げ出し、依存することによって、心の根元にある不安を打ち消す。
彼女は、サイババに裏切られることによって初めて、自分の内面の依存の心理に気が付いたのですが、グルと弟子との関係で、もしこのような権威-依存関係が根っこにあるなら、それは生産的な関係ではない。霊的な成長(大いなる自由)を促す関係どころか、心理的な支配-隷属関係でしかないのです。 しかも、このような権威-依存関係は相互的なものですから、グルの側にもそれを助長するか、少なくとも黙認するところがある。自分の中に、そういう支配-隷属関係に安住しようとする心理がないか、チェックしていくことは、非常に大切なことだと思います。
paratorapa:
この信者の体験談を起点に,その心理を少し分析してみましょう。 フロムの「自由からの逃走」は私も学生時代に読みました。全体主義的な風潮は権威への服従と完全依存から頭をもたげてきます。現代社会はかつてのナチス,軍国主義のような狂気に満ちた社会体制を拒絶しているように見えますが,実は社会の至る所に自己決定力,自己指導力の不足した人々が彷徨っており,ニューエイジ・精神世界もそういう人々の要求を満たす受け皿になっているように思います。
フロムの主張している逃避の社会心理は,形を変え,見えにくい状態で,われわれの心の空白,虚しさを癒してくれるような格好で逆に蔓延してきている,というのが私の見解です。
局面によってはカルト(カルト的な傾向を持つニューエイジグループも含む)による誘導もあるわけで,そうしたグループの中では信念の刷り込みをしてます(私はあるニューエイジ系グループの実態を知っています。現在は壊滅状態になっていますが)。自由であることは,自己の言動に責任を持つという意味に私は理解しています。したがって,自由であるということは個が確立していることが前提であり,個が成熟していない状態では,他者の言うことを簡単に鵜呑みにして,かえって心が束縛されてしまう可能性もあります。
私のスタンスは基本的にトランスパーソナルの視点に立っていますので,ちょっとここで紹介しておきたいと思います。トラパ学者,J.R.バティスタが「偽りの霊性」に関する考察をしていますので,詳しくは安藤治他(共編)1999「テキスト トランスパーソナル心理学/精神医学」(日本評論社)をご参照ください。(pp.254-266)
私が以前から繰り返し述べていることをバティスタは霊的防衛,攻撃的霊性という概念によって表現しています。今回は霊的防衛について検討してみます。 バティスタは1970年代以降のニューエイジ運動の出現によって,自分の心理的問題をすり替え,置き換えようとして,その考えや実践を誤用する人々が増えてきたと述べています。
1.愛情深い親切心と霊的な謙虚さの実践であると合理化されている他者や権威への絶対的服従
*これは服従の心理でいうチャネル合わせ(権威者とのチャネルだけが開いている状態),場面の再定義(大義名分化)です。
2.「神は,すべての恵みと私が必要とするすべての真の源泉である」という言葉で合理化されている,(実際には)他人に自分の世話を頼んだり,世話をしてもらうことができない状態
*困ったときに対人サポートを要請できないのは,人間関係スキルの欠如と見なすことができます。
3.禁欲的実践として合理化されている,対人的,性的な欲求を扱えないこと
*これはフラストレーションを高め,逆に攻撃性を増大させる可能性があると予測されます。(欲求不満-攻撃仮説)
4.「霊性がすべてを扱う-人生は霊的レッスンである」と合理化して,生物学的,心理的,対人的な次元の問題に直面せず,それに対処できないこと。
*これは合理化,現実否認と逃避による自我防衛に他なりません。「あるがまま」の開かれた態度とは逆の状態であります。
以上のようなマゾヒスティックな自我防衛的心性が霊的防衛の特徴となります。これは,自己超越,霊的覚醒とは逆の自己保存的な原理に立つ陰の部分であります。 ニューエイジ・精神世界の負の側面というのは,こうした合理化に適した信念,知識体系を個人や集団が共有して,いわば「傷のなめ合い」のレベルにとどまってしまうところにあるのと思うのですが,いかがなものでしょうか?
NOBORU:サド・マゾヒズム的な性格
たしかに、ニューエイジや精神世界に関心をだく私たちの中には、多かれ少なかれこうした合理化や逃避や防衛のメカニズムが隠されていて、それが巧みに商業主義に利用されたり、時にはカルト的な集団による反社会的な行動にまでつながっていくのでしょうね。
私はとくに、グルと弟子の関係や権威主義について、もう少し突っ込んで考えていきたいと思います。紹介していただいたJ.R.バティスタの考察の中のとくに次の部分です。
<1.愛情深い親切心と霊的な謙虚さの実践であると合理化されている者や権威への絶対的服従 *これは服従の心理でいうチャネル合わせ(権威者とのチャネルだけが開いている状態),場面の再定義(大義名分化)です。>
グルと弟子の真に霊的な関係や、本当の意味での宗教的な帰依と、権威主義的なものへの絶対的服従とは、一見きわめて似たところをもっており、それが問題を複雑にしているというか、様々な問題を生み出してしまう原因にもなっていると思うのです。 フロムは自由からの逃避の心理を「人間が個人的自我の独立をすてて、その個人にはかけているような力を獲得するために、かれの外がわのなにものかと、あるいはなにごとかと、自分自身を融合させようとする傾向」と説明しています。
劣等感や孤独感、個人の無力感を克服する一つの道は、個人的自己から逃れ、自分を失い、自由の重荷から逃れて、自己の外部のより大きなもの(グル、制度、神、国家など)に没入・服従し、その部分となるという、マゾヒズム的な努力です。
一方サディズム的な衝動の根は、他人を完全に支配し、無力な対象にし、その絶対的な支配者、神になることです。
サディズムとマゾヒズムは、その根底に、孤独や不安や劣等感があり、その弱さから逃れようとする衝動の裏表だとフロムは指摘します。一方にサディズムがあり、他方にマゾヒズムがあるのではなく、両者は一つの傾向の能動的な側面と受動的な側面であり、一人の人間の中でも振り子のように揺れて,表れたり隠れたりしているのです。
フロムは、サド・マゾヒズム的な性格を「権威主義的性格」と呼びかえています。権威に服従して、自分の不安を打ち消そうとする傾向は、他者を服従させて自分の強さを誇示する傾向と一体であるというのです。 そのどちらにも、真実の強さがかけているときに二義的な強さを獲得しようとする絶望的な試みだというのです。
こうした逃避のメカニズムは、パラトラパ雅さんがいうように「形を変え,見えにくい状態で,われわれの心の空白,虚しさを癒してくれるような格好で逆に蔓延してきている」と思われます。そうした傾向がが時に、カルト的なグルと弟子の関係において突出的に問題化するのだと思います。 ただし、ここには非常に微妙な問題が隠されているようにも思います。それは、霊的な成長を促す生産的なグルと弟子の関係と、権威主義的なグルと弟子の関係の違いとは何かという問題です。また、それと密接にからみますが、サド・マゾヒズム的でない、本当の意味での宗教的な帰依とは何かという問題です。
実はフロム自身が、ルターの宗教改革を彼の言う「権威主義的性格」によって分析しているのすが、私はこれに若干の疑問を感じています。本当に「権威主義的性格」の心理分析だけでルターの思想を説明できるのか。もしかしたらフロム自身が、宗教的帰依の本質的な部分をを見誤っていたのではないかという疑問です。
paratorapa:
フロムの「自由からの逃走」は、 原典の初版が1941年と,第二次大戦中に出版されていることもあり,時代を感じさせる内容ですね。
「グルと弟子の真に霊的な関係や、本当の意味での宗教的な帰依と、権威主義的なものへの絶対的服従とは、一見きわめて似たところをもっており、それが問題を複雑にしているというか、様々な問題を生み出してしまう原因にもなっている」とのことですが、 私はこの点について,いささかすっぱりと割り切った見方をしております。
本来の意味でのグル的な結合は置いておきますが,教祖や教団に対する忠誠,服従と神聖なるものに対する畏怖の念(ヌミノース)とは区別できるという考えです。 宗教的な組織の中で教祖は権威者であり,神仏意識の中継者であるかもしれませんが,権威者を崇拝するのと,森羅万象の背後に織り込まれている目には見えない超絶したもの,神聖なるものを感じ取り,畏敬の念,畏怖の念を起こすこととは質的に全く異なります。
すべての宗教体験には神聖なるものを感じること,超越的な体験,神秘体験がコアなものとして含まれています。臨死体験もその一種でしょう。こうした深い内的体験から宗教(教団)は始まりますが,組織が大きくなるにつれて,深い体験を持つ人の比率は低下し,大多数の一般信者と一握りの教化を行う人とに分かれてしまいます。深い体験を容易に得ることのできない人に対しては,教義や教祖,教団に対する服従を誓わせるようにした方が運営上能率的で,組織の拡充にも役立つというわけです。
教祖といえども生身の人間であり,神ではありません。それを神の化身,生き神であると吹聴し,崇拝の対象に祭り上げてしまうのはおかしいと思います。人格的に尊敬はできても,崇拝の対象にはなりません。あくまでも人間ですから。人が人を拝むのは本筋ではないと思います。
また,深い体験に導く役割の霊的導師にしても,必ずしも生身の人間であるとは限りません。単なる内的ビジョン以上のスピリチュアルな存在によって導かれていくケースもあります。 形骸化し,形式化した教義だけを学ぶ組織では,本質的な体験を得ることは難しいでしょうし,リーダーや教祖に依存,服従する構造からは得るものは少ないと言えます。
NOBORU:
「教祖や教団に対する忠誠,服従と神聖なるものに対する畏怖の念(ヌミノース)とは区別できる」とのことでしたが、 確かに教祖や教団という人間や組織への服従と、神聖なものへの畏怖という内面的な体験は区別できると思います。
しかしフロムは、指導者や組織や国家へのマゾヒズム的な服従だけでなく、神へのマゾヒズム的な服従もあると見ています。いや、それこそが宗教改革の精神の本質だとしているのです。 神聖なるものに対する畏怖の念(ヌミノース)の中に、フロムのいう「神」へ没入・服従の姿勢が含まれるかどうか微妙ですが、私は少なくとも、「神聖なるもの」が自我の依存の対象になることは十分にあると思うのです。
paratorapa:
うーん。これを服従,依存と見るか,大いなるものとの同一化,一体化,統合と見るかで意味が変わってくるように思います。神聖なるものは外的な森羅万象の背後に見て取ることができると述べましたが,それは同時に内なるもの=自己でもあります。内なる自己によって支えられているという感覚は,無批判的な外的権威への服従,依存とは異なっているように思うのですが。依存というよりも,むしろ(自己)信頼のような気がします。このニュアンス,伝わるでしょうか?
NOBORU:
神聖なるものへの畏怖の念が、内なる自己に支えられているのなら、そこにはもちろん外的な権威への服従というマゾヒズム的な逃避は含まれないでしょう。彼はすでに真実の自己=おおいなる命へと超え出ようとしているのですから。 しかし、もし神聖なる神や仏のイメージが、自分をそこに投げ出して依存し、服従する対象としての機能を果たしているなら、やはりそこにはマゾヒズム的な服従・逃避があるでしょう。神とのそのような関係をヌミノーゼの意味に含ませないのであれば別ですが。
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