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EDICOLANTEのイタリア小さな可愛い街の旅行記とコラム

ファルファ修道院とボルゴ Abbazia Benedettina di Santa Maria di Farfa

2019.02.23 00:26

ラツィオ州 リエーティ県 ファーラ・イン・サビーナにある修道院と中世の村。巡礼者がローマへ向かう休憩地点だった。

ファルファ(Farfa)という名は近くの川の名前に由来する。


★ 古代サビーニ人とローマ遺跡

修道院は、古代ローマ時代の遺跡の上に建てられた。古代サビーニ人の農民の安息の女神、ヴァクナの神殿(Santuario della dea Vacuna)と、コンモドゥス帝の時代の邸宅があった。


★ ファルファ修道院 Abbazia di Farfa

何度も改修と拡大したため、11から12世紀のロマネスク様式、13から14世紀のゴシック様式、15世紀のルネッサンス様式、17世紀のバロック様式と、様々な時代の歴史が感じられる修道院。

歴史概要

5世紀にアリウス派による迫害のため、シリアからイタリアに来た司教サン・ロレンツォ・スィーロ(San Lorenzo Siro)により、6世紀にローマ時代の遺跡の上に建設

ロンゴバルド時代に、修道院は衰退し遺跡に。

680年にトンマーゾ・ディ・モリアーナTommaso di Moriana)により再建。トンマーゾがエルサレム滞在していたある夜、夢に聖母が現れ「私の壊された教会へ行き再建せよ!」とお告げがあったため、長旅の後、アクツィアーノ山(Acuziano)の斜面にあるへたどり着き、聖母の教会遺跡に出会った。短期間でトンマーゾは修道士に必要不可欠な施設、宿泊所、キッチン、ダイニング、図書館などを用意し、立派に再建した。

8世紀にスポレート公ファロアルド2世(Faroaldo II)の監視下へ。

ローマの玄関口として、ファルファ修道院は政治の拠点としても重要になり、775年にフランスのカール大帝は教皇派と皇帝派から独立させることを提案。

この頃には、一時期中部イタリアの広い範囲、北部ラツィオ州のサビーナ地方、アラートリやチヴィタヴェッキア、マルケ州、ウンブリア州に軍隊、城、学校、宿泊施設、薬局、港などを所有していた。

カロリング朝(Carolingio)の衰退により状況は一変。ファルファはサラセン人により襲撃され陥落。7年間占領され、盗難、放火に遭い、修道士たちは逃げ出すこととなった。

修道士たちは3つのグループに別れて行動した。ひとつはマルケ州フェルモ県のサンタ・ヴィットーリア・イン・マテナーノ(Santa Vittoria di Matenano)へ。ひとつはリエーティで殺害され、3つめは、ローマに行き、913年にバジリカの修復後ファルファに戻ることとなった。

ローマの貴族らが修道院を所有していたが、修道院長が3人になったため、彼らの間で紛争が起き、999年に、クリュニー会(Cluniacense)により再建。

ファルファの修道院への投資に、修道会はローマ教皇と対立していたアンリ4世(Enrico IV)側についた。そのため修道院をより確かな場所に引っ越しすることを考え、アクツィアーノ山(Acuziano)へ新築することにしたが完成されることはなかった。ファーラ・サビーナの近く、サン・マルティーノの遺跡(Ruderi di S.Martino)として、現在も残る。

1700年代末、ファルファはフランス軍により襲撃され、1861年にイタリア王国に。

1921年、ローマのサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂から修道士たちが移った。


修道施設入り口のルネッタ

1400年代のフレスコ画、聖母子と聖人たち、背景には修道院が描かれている。


教会外観

突出した修道院の教会ファサード。3つの入口に、3つのバラ窓。

中央入り口の装飾は、特に古い部分。ルネッタには聖母子と周囲に天使とサン・ベネデットとサンタ・スコラスティカ。

ファサード上部両側にふたつのライオン像が見られる。

中世初期キリスト教徒の石棺の彫刻が貼られている。

★ カロリング朝

1927年と1959年の現在の聖堂の床の修復時、カロリング朝時代の聖堂跡が見つかっている。

聖歌台と四角いアプス、両脇には2つの鐘楼(現在ひとつは倒壊)、聖堂内陣聖職者席、丸いアプス(新しいバジリカから飛び出している)部分。鐘楼の下は扶壁柱の外壁でカロリング様式だとわかる。鐘楼土台部分では礼拝所(Oratorio del Salvatore)も見つかっている。

それに対して、上階の3つ窓の鐘楼は後に加えられた。


教会内部

ラテン十字の教会は三廊式で、古代の神殿で使われていた大理石のイオニア式のカピテッロと円柱を使って仕切られている。1400年代の考古学について学んでいた建築家により実現。

アプスと翼廊は1500年代の建築部分で、ツッカリ兄弟の作品で、ルネッサンス時代に流行ったグロッテスク様式

翼廊の左には、修道院の創設者ロレンツォ・シーロトンマーゾ・ダ・モリエーナが描かれ、大アーチには『受胎告知』と、角柱部分はサン・ベネデットとサンタ・スコラスティカが描かれている。

カロリング朝時代のバジリカには、カール大帝から捧げられた貴重なもの、オニキス製のチボリオや、貴重な金の箱、金色の天然石、1mの長さの天然石の十字架、2つの金の十字架、14つの銀の杯、2つの王冠などがあった。


★ カロリング朝の床

1600年代の主祭壇の損壊とともに、カロリング朝の祭壇が再現。古代の床の貴重な大理石を再利用されたことが分かるが、さらに床の下には、2つの塔の遺跡が見つかった。

ファサード裏の壁には、1561年 Henrik Van Der Broekの『最後の審判(Giudizio Universale)』のフレスコ画。

オルシーニ家の紋章がある、金色の木製格子天井は1494年。身廊壁画には使徒らが描かれた。

側廊の壁面にはオラツィオ・ジェンティレスキ(Orazio Gentileschi)作『エステルとユディトの生涯(vita di Ester e di Giuditta)』

左側廊の3つの礼拝堂にはオラツィオ・ジェンティレスキと弟子たちの作品。第1礼拝堂には聖ウルスラ(S.Orsola)2つ目は聖母子、3つめはサン・ピエトロの十字架。

アプスのゴシック様式の窓と側廊のフレスコ画は16から17世紀。聖母の生涯と、聖書の聖人。

アプスの木製聖歌台は1600年代主祭壇の4本の円柱で支えられた天蓋はカロリング朝時代のもの。

聖歌台天井はツッカリ兄弟が描いたルネッサンス様式グロッテスク模様

アプス右側の翼廊には、13世紀のサン・ロレンツォ・スィーロ、右側はファルファの聖母。作者は不明。19世紀の装飾額に顔部分だけが、はめ込まれている。

右廊の第1礼拝堂の十字架。


★ 修道院

ガイドと共に、有料で修道院内の見学も可能。

修道院入り口の中庭

中庭から修道院への入り口があり、鐘楼のカロリング朝時代の建物部分に、11世紀のローマ人の作者の壁画が見ることができる。

修道院内の見所

★ ロンゴバルド様式のキオストロ(中庭)

この修道院では一番小さく古い中庭。13世紀のロマネスク様式の二連窓がある。


★ キオストロ・グランデ ルネッサンス様式の中庭

16世紀にパウルス3世の曾孫アレッサンドロ・ファルネーゼにより造園。ここからカロリング朝のアプスの入り口が見ることができ、ローマ人と蛮族の戦いが掘られている2世紀の石棺がある。


★ 輪になったクリプタ 地下礼拝堂

(見学してない)

★ 国立図書館

インキュナブラ(incunaboli)という15世紀後半に印刷された扉のない初期刊行本や貴重な写本が所蔵。修道士たちの主要な活動の場だった。中世の時代は印刷が存在してなかったため、これらは世界で1つだけなのでとても貴重な資料である。中世の時代はヨーロッパで最も大きな図書館だった。イタリアでの印刷の歴史において初期のもの、例えば1464年のアウグスティヌス(Sant'Agostino)の『神の国"De Civitate Dei" 』等がある。ペルガメーナの写本、昔の文章と、彼らの時代の文で古代の作品を写し残し続けたお蔭で、現在の私達も読むことができる。45000冊の本が現在も所蔵。

修道士たちの書斎はスクリプトリウム(Scriptorium)と呼ばれていた。

小さな博物館には古代の遺跡、モザイク画や彫刻、エマヌエーレ・ルッツァーティ(Emanele Luzzati)のイラスト『Chronicon Pharphense』のシーン、12世紀のグレゴリオ・ダ・カティーノ(Gregorio da Catino)作、サン・ロレンツォ・スィーロがドラゴンの有害な吐息から谷を開放した伝説が書かれた『ファルファ修道院の歴史』などが展示。


★ 17世紀の修道院の食堂


★ 修道院の薬局

ガイドブックやお土産を買うことができる。



 ★ 修道院のバール


★ ファルファのボルゴ 村の雰囲気

ファルファのボルゴは昔のまま残されているかのよう。職人の工房が並び、昔ながらの工芸品が売られている。

主要道には2つの城門がある。ファルファ修道院の紋章があるモントーポリ門(Porta Montopoli)とトッフィア門(Porta Toffia)


★ フィエーレ(展示会)の開催

1122年のヴォルムス協約(Concordato di Worms)によりファルファ修道院は、教皇領の監視下となり、新たな困難にあっていた。

14世紀に、教皇庁会計院に十分の一税を払っていないところから、修道院長は聖務停止とされ追放された。こうして聖職給を受けている修道院長を決めることとなり、初めの修道院長は、ボニファティウス9世の甥のカルボーネ・トマチェッリに決まった。

オルシーニ家が修道院の管理を勤め、1496年に現在のバジリカを奉納。デッラ・ローヴェレ家、ファルネーゼ家、バルベリーニ家らの貴族の協賛で、1477年からのフィエラ(展示会)を招くために相応しいボルゴを整備した。

フィエラは、9月8日の生神女誕生祭と、3月25日の受胎告知の日の年に2回、8日間に渡り開催され、修道院でつくられた様々な品が売買され、食事を楽しんだ。

ボルゴの建物1階は工房として、2階は商人の宿泊と倉庫として使われた。町へ入る時、物資に税金をかけられ、出る時に92種の品番に分けられ商品ごとに調べる仕組みだった。

1573年、枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ(Alessandro Farnese)が設置したオステリーア近くの噴水。

中にはサンベネデット。縁の地。

アレッサンドロ・ファルネーゼが設置した噴水がもうひとつ、修道院の側のトッフィア門(Porta Toffia)の側の噴水がある。

モントーポリ門 Porta Montopoli 

トッフィア門 Porta Toffia


お気に入りレストラン

★ トラットリア ダ・ルーピ

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★ ファーラ・イン・サビーナ

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ブログ

2019.02


参考

Wikipedia

Abbazia di Farfa

Fara in Sabina