ナポレオン3世・オスマンのパリ大改造と印象派7 印象派が描いた「近代」③
ルノワールやモネをはじめ、印象派の画家たちはサロンの制約(主題や技法は伝統的な古典主義にふさわしいものでなければならない。すなわち、主題はギリシアやローマの神話、聖書、文学作品、歴史的な大事件に関すること、技法は輪郭線を明確にすること)に背を向けて、同時代の風景や風俗を描いた。いま自分たちが見ている陽光のもとの自然、いま自分たちが体験している近代社会、いまの自分たちと同じ空気を吸っている人びとをそのまま描こうとした。しかしこの時代の社会に関心がある者は忘れてはいけない。彼らは決してあるがままの風景や風俗を描いたのではないということを。彼らの絵画は意図的に、何かを消去している。ルノワールは自身の目指す絵画をこう述べている。
「私にとって絵は、好ましく、楽しく、きれいなもの・・・そう、きれいなものでなければいけないんだ!人生には不愉快なことがたくさんある。だからこれ以上、不愉快なものをつくる必要なんかないんだ。」
そう。不愉快と感じるものは排除しているのだ。また、その不明瞭な輪郭線が現実のリアルな把握を困難にさせている。例えば、シスレー「ポール・マルリーの洪水」。1873年3月、春の雪解けで増水した上流の水がセーヌ川に一気に流れ込み、洪水を引き起こした。シスレーは、すでに洪水が終わり、落ち着きを取り戻しさざ波が立つ川、そこを小舟で移動する人々の淡々とした日常を描いた。この絵からは、自然の驚異、それがもたらす悲惨さはかけらも感じられない。自然に対する怒り、あきらめ、神への呪い、住民への同情などまるでなく、ただ気に入った水面の照り返しや静寂さだけを描いている。
19世紀のパリは急速に産業化がすすんだ。地方の労働力を集めて人口は倍増し、1840年頃には200万人を突破している。そして日常の長時間労働に追われる人々がほっと息をつくのが日曜日。気候の良い季節にはパリ西郊のセーヌ河畔(アルジャントゥイユ、アニエール、シャトーなど)はピクニックを楽しむ人々でにぎわった。モネやルノワールは、そうしたセーヌの休日風景、光に満ちた戸外で楽しむ人々を数多く描いた。それらの作品から伝わってくるのはまさに「水の幸福」。しかし、当時のパリ西郊はそのような牧歌的な場所ばかりではなかった。産業化の波は郊外に及び、目的地に着くまでに、工場の煙突や貧しい民家の立ち並ぶ田舎道を通り抜けなければならないピクニック場や水浴場にも石油やゴムの臭いが漂っていたことについて、多くの不平の声が残されている。ピサロの「ポントワーズ近郊の工場」(1873年)は当時の現実を伝えているし、モーパッサンは『野あそび』のなかでより詳細に描き出している。
「道の両側には、草の生えていない、汚くて臭い田舎が広がっていた。・・・ところどころ、草一本ない不毛の地面に、工場の高い煙突が生えている。春風が、石油やシェール油の臭いにくわえて、それよりもっと不快な臭いを運んでくる」
モネは、「印象派の揺りかご」の異名を持つ風光明媚な田舎町のアルジャントゥイユを何点も描いているが、「アルジャントゥイユの散歩道」(1872年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)にも、よく見るとゴム工場の煙突が川岸にそびえたっているのがわかる。
(ルノワール 1879「シャトーのボートを漕ぐ人」)
(モネ 1874「アルジャントゥイユの橋」)
(シスレー 1876「ポール・マルリーの洪水」)
(ピサロ 1873「ポントワーズ近郊の工場」)
(ギヨマン 1873「イヴリー河岸の日没」) ギヨマンも第一回印象派展に参加している
(モネ 1872「アルジャントゥイユの散歩道」)