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ZIPANG-10 TOKIO 2020 全国の姥神像行脚(その81)日本各地の姥神たち・宮城県~宮城県薬莱山~【寄稿文】廣谷知行

2025.09.21 15:35

宮城県加美町


やくらいガーデンのひまわり畑から薬莱山を望む 


薬莱山の麓、やくらい温泉薬師の湯などがある施設 


ぼのぼの館の敷地にあるキャラクターオブジェのベンチ 


宮城県の加美町は、広大な田園風景から薬莱山などの山々を望む風景が美しい、人口約2万人の町です。同町の薬莱山は観光の中心で、麓にあるやくらいガーデンでは、約15万平方メートルの広大な庭園に様々な花が咲く、多くの観光客が訪れる場所となっています。そのほかにも、日帰り温泉施設の薬師の湯、地元名産品の直売所、温水プールなどを楽しめるやくらいウォーターパーク、パークゴルフ場などがあります。


また、漫画「ぼのぼの」の作者、いがらしみきお先生の出身地でもあり、「いがらしみきお ぼのぼの館」が図書館に併設され、多数のキャラクターオブジェを楽しむことができます

前回その80で宮城県の姥神社等を紹介しましたが、同県加美町に姥神像がありますので、今回はその姥神像を紹介したいと思います。


薬莱山と薬莱神社


薬莱神社里宮


薬莱神社境内にある山門 


薬莱山は、加美富士とも呼ばれる標高553メートルの山で、薬莱神社の奥宮が頂上にあります。薬莱神社については同山の麓、上野目大宮に里宮があり、その境内には鳥居の他に町の有形文化財に指定されている山門も残されています。


山門の屋根は現在銅板葺きがかけられていますが、少し前までは茅葺のみでした。神社に山門があるのは、もともとここには大宮寺という寺があり、明治時代に薬莱神社が合祀されためです。


そのため境内には鐘撞堂もあります。この山門は、三ツ脚門・七ツ脚門と呼ばれ、柱が通常より1本足りない奇数となっています。これは、貞享元(1689)年の旱魃時、薬莱神社伝来の三輪流神楽を奉演すると、念願の雨が降ったため、その褒美として建立してもらったのですが、番所のような門に見えるのは芳しくないと、柱の1本足りない門にしたためだそうです。



同神社は山頂の奥宮が天平9(737)年、里宮が延歴23(804)年に創建されたとされ、医薬の守護神である大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を主神としています。そのため、医薬の守護や病気に霊験があるとされ、そこから薬莱山と称されたようです。



薬莱山の姥神像

 

薬莱山の登山道にある姥神像


薬莱山の山頂、薬莱神社奥宮近くの登山道沿いに姥神像があります。姥神のほか山姥や単にうばさまなどその呼び名も様々です。ここではその28で紹介しました福島県桧枝岐村の橋場のばんば様のように、ハサミが供えられてあります。橋場のばんば様は縁切りと縁結びの霊験のため、ハサミを供えていますが、薬莱山では裁縫についての霊験のためハサミを供えているようです。


薬莱山の姥神像は、登山道途中にありますので、境界-姥神型として祀られていると考えられます。



参考

ZIPANG-10 TOKIO 2020 全国の姥神像行脚(その80)日本各地の姥神たち・宮城県 ~宮城県の姥神社~  【寄稿文】廣谷知行
https://tokyo2020-10.themedia.jp/posts/57258871


ZIPANG-5 TOKIO 2020 全国の姥神像行脚(その28)~ 橋場のばんば様 (前編)~【寄稿文】 廣谷知行
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/17117483


次回に続く・・・


寄稿文
廣谷知行(ひろたに ともゆき)
姥神信仰研究家


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。

発行元責任者 鎹八咫烏(ZIPANG TOKIO 2020 編集局)



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


日本の原風景 『奧会津』

奥の地  三島町の四季に魅了され


雪が解け、いつしか花吹雪も過ぎ往き新緑の頃になると、奧会津の桐は一斉に淡い紫の花をつけて訪れる人々の眼を楽しませてくれます。


中国大陸が原産の桐※は、飛鳥時代に渡来し、北は北海道南部から南は鹿児島県に至るほぼ全国で生育されています。一時期は東南アジアやカナダからも…


中でも日本を代表する桐は、福島県の会津桐、岩手県の南部桐、岡山県から広島県東部にかけて分布する備後桐の三大桐であるといわれています。古から桐はその性質において琴や箪笥の原材料として大変重宝がられてきました。


只見川 濃霧の中を一艘の木船よ何処へ・・・


濃霧に包まれた幻想的なモノクロームの自然風景。

只見川の朝霧の中を余程熟練の船頭さんですね~糸を引くようにゆっくりゆっくりと往く木造の渡し舟であろうか?それとも川漁師の舟かな、はたまた観光船?櫓を漕いだ小さな波だけが木舟のあとからどこまでもついていく・・・


まさか木舟の材料まで「桐」ということはないと思うが…スサノオノミコトは舟は杉か楠でと適材適所を宣われていたが、滋賀県・琵琶湖の昔ながらの舟漁や、昨日解禁した岐阜県・長良川の鵜舟や今でも住民のために続けている渡し舟は、木曾五木の一つで腐りに強い槙(通称・高野槙)が使われています。


奧会津では、一体どんな材料で木舟を造っているのか興味深いですね~(ねぇ〜と言われても君〜…普通は渡し舟か?漁の舟か?観光船か?また、その歴史はとか読者はそういうところに興味を惹かれるものでは~と外野席。ソーナンスカ?)


深い緑の中の青い屋根の一軒家も気になりますね、外観の意匠はホテルかペンションまたは、別荘のような感じですが、合わせて現地で尋ねてみますので奧会津シリーズ次号でお知らせいたします。


参考

※桐

落葉の高木広葉樹 ゴマノハグサ科(scrophulariaceae)
学名:Paulownia tomentosa(Thunb).)Steud


樹は狭円柱形、樹高:8~15m、胸高直径50cm程度。 原産地は中国と言われているが牧野富太郎博士の資料ではわかっていないとなっています。あまりにも諸説が多くあって今だにはっきり決まっていない。


しかし古い時代に中国から渡来したことはまちがいないようだ。各地で栽培されてきたため、種子が飛散して自生のように見える植生があります。本州から九州までの山里に多く見られます。


欝陵島や北九州の山中に野生状態も見られ、現在では各地で栽植されています。生長が非常に早い。また栽培も容易で植えておくだけでよい。 今では中国、台湾、米国、フラジルなど、海外諸国で植裁されたものが大量に輸入され、婚礼家具にされている 開花時期:5月、初夏枝の頂きに多数の紫色の花をつけ、つぼみは前の年にでき、翌年の5月葉に先立って枝先の円錐花序に薄紫色の花が多数咲きます。


花冠は5から6センチで、花の先が唇形に五裂に分かれ頂生といって、枝の先にかたまって咲く花が、淡い匂いをかすかながらも含んでいます。樹皮は褐 灰・灰白色で平滑。葉は長柄をもち大きな広卵形(ハート形)で先がとがっていて、全面に粘りけのある短い毛が密生し、長さは20~30cm。果実は先が尖った、卵形。


よく知られている産地は福島県(会津桐)、岩手県(南部桐)、さらに新潟県、茨城県などあるが、全て同一種(ニホンギリ)の生育環境の違いによるものです。また、タイワンギリ(p.kowakamii)、アブラギリ等はニホンギリとは別種のもので、心材は淡褐色で、辺材はそれより淡色な程度で、辺材と心材の区別は不明瞭、材はくすんだ白色からうすい挽褐色、ときに紫色を帯びていることがあります。


材面の肌日はややあらい感しで、年輪の境界に大きい道菅が帯状にまばらに配列する程度なので、年輪はあまり明らかでないが、成長が遅いとかなりはっきりとしてきます。 辺材と心材の区別は不明瞭で、材はくすんだ白色からうすい挽褐色、ときに紫色を帯びていることがあり、日本産の有用材のうちで最も軽軟であって気乾比重0.2~0.4、ふつう0.3くらいです。


切削その他の加工はきわめて容易であり、狂いと割れが少なく、糊付け加工も容易、とくに酢酸ビニル樹脂接着剤による接着性がよいなど寸度安定性が特によい独特の材質をもっています。このことが種々の家具に用いられる理由のひとつで、製品になってからも作った時のままの形を保つので、始めから密閉度の高いものを作ることが出来ます。


表面を研磨すると光沢が出て、狂い割れも少ない。燃えにくい。 日本の木の中で吸湿、 吸水性が著しく小さいことであり、また含水率の変化に伴う収縮率・膨張率の値そのものは国産材では最小であります。また熱伝導度の値が小さい。


材をはじめとしてきわめて多方面の用途があり、キリでなければならないもの、あるいはキリを随一の材料とするものが多い。 家具(箪笥など)、建具、天井板・欄間・箪笥、楽器(琴など)、彫刻、下駄、羽子板など多方面に使われ、キリ灰は研磨用、火薬、絵画材、眉ずみにします。端材を焼いた灰は懐炉灰1に、樹皮は染料に、葉は除虫に用いられています。


984年に編纂された日本最初の「医心方」という医学書の中には、桐の灰と動物の乳を混ぜて作った物は養毛の効果(毛髪が気になる人は一度試してみてはいかがでしょうか)があると書かれており、平安時代から薬として利用されてきました。


番傘とか提灯の塗料キリ油はトウゲイグサ科アブラギリから採る物で、これとは無関係です。 昔は女の子が生まれるとキリを植えて、嫁ぐ時に伐ってタンスを作りました。また炭焼がまの跡にキリを植える習慣もあったのです。和名は「切り」で木を切れば早く生長することからいいます。2年ほどで切ればその株から芽が出て生長の早いところから。 晩秋に枯葉が一枚一枚ゆっくりと落ちてくるさまは、しばしば、俳句の題材として取り上げられています。


「桐一葉 日当たりながら 落ちにけり」 高浜虚子


キリのタンスが重用されるのは、火事にあっても表面が焦げるだけで、中まで熱を通さないためといわれるが、これには諸説があります。


キリには梧の字もあてるが、これはアオギリ科のアオギリ、のことであり、桐はゴマノハグサ科のキリをさします。 大阪城の北側に多数植えられているが開花期は見事。


『ビンからキリまで』という言葉は花札から生まれたと言われていて、始めから終わりまで、最上のものから最悪のものまでを意味する言葉で『ピンからキリまで』という言葉を良く使いますが、ビンはサイコロの一の目やカルタの一の数字のこと。ピンはポルトガル語の(pinta:点)のことで、花札ではピンは一月の松の札、キリは十二月の桐の札のことで『ピンからキリまで』という言葉は一月から十二月までの呼び名が転じてできた言葉なのです。語源からすると、ピンが最悪でキリが最上ですが、現在では逆の意味で使われています。 


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-3 TOKIO 2020「日本の町 『奧会津』 奥の地  三島町の四季に魅了され・・・桐と霧の里へ」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6199543



寒鱈(かんだら)まつり

南三陸町はこんな町です

南三陸町は宮城県北東部の本吉郡に所属する小さな町です。


志津川湾をぐるっと囲む地形、町境は分水嶺となっており、南三陸に降った雨や雪解けの水のほとんどが、志津川湾に注ぎこみます。


町の基幹産業は自然の恵みを活かした養殖漁業。湾の中では牡蠣やホタテ、ワカメやホヤが養殖されています。また町には有名な観光スポットはありませんが、1つ1つの小さな地域の宝が光り輝く、そんな観光交流を目指してきました。


2011年3月11日 東日本大震災は多くのものを奪い、そして多くのことを教えてくれました。津波のあとも当たり前のように再生する自然資源。海山里の中で育まれ、郷土の中で継承されてきた人々の生業や暮らし。


この地域に普段当たり前にあったものすべてが、貴重で価値あるものだと改めて気づきました。そしてすべてを失っても力強く、未来に前進する町民の生きる姿がここにあります。


震災の教訓を伝えるプログラム、地域の元気を届けるイベント、自然のフィールドを活かしたアクティビティなどを地域一丸となって準備しています。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020~冬の味覚「寒鱈(かんだら)」~南三陸で買える味わえる「寒鱈まつり」開催!
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/31922207



※現在、2700件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。


ZIPANG-10 TOKIO 2020 (VOL-10)
https://tokyo2020-10.themedia.jp/


ZIPANG-9 TOKIO 2020 (VOL-9)
https://tokyo2020-9.themedia.jp/


ZIPANG-8 TOKIO 2020 (VOL-8)
https://tokyo2020-8.themedia.jp/


ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/


ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/


ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/


ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/


ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/


ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/


ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/