ひとつなぎ
映画『ひゃくえむ。』を観に行きました。
ストーリーも勿論良いのですが、
本当に人が目の前で走っているみたいで、
アニメでこんな動きが表現できるんだという感動と没入感で、
鳥肌が立つような感じがして、
なぜかずっと泣きそうでした。
最近、パンフレット集めを趣味にしました。
なかなかいい趣味でしょう。「残すこと」を大事にするようになったから、かな。
それともただのコレクション癖か。
100メートル走に人生をかけた者たちの物語です。
なんのために走るのか?という問いかけは、
「走る」を何かに置き換えた形で多くの人に刺さるのではないかと思います。
自分に与えられた才能。
それがあること、それに気づくことは傍から見たら恵まれたことなのかもしれないけれど、
自分としては実はそれと直面し続けるのはしんどい時もある、
でもそれを活かす道を選ぶしかなくて、
誰でもなく自分が選んだということがまた逃げ道を奪われる感じがして、いつしか「走る( )こと」が好きでなくなっていく。
なんか分かる気がする。
何かに秀でることによる孤独感とか、圧迫感。
別に私は何かで1位をとった記憶はあまりないし、
これが自分だと言える特技なんてないのだけれど。
でもなんか分かるんですね。きっとこの作品に出てくるトガシやコミヤが抱えている運命とか苦しみとか喜びとかが、
どこか心の深いところで観客に自分ごととして響くんだと思います。
なぜ走るのか?
走るために生きているのか、生きるために走っていたのか。
100メートル、約10秒というとってもミクロな世界を切り取って、そこから人生というとっても大きなテーマを描いたのは素晴らしいなと、原作の魚豊先生に今回も感心します。
多様なキャラクターが出てきて、多様な価値観を持っていて、それぞれの人物にまるでモデルがいるみたい。
そういえば、
以前私との雑談の中で、いつか脚本を書きたいという夢を語ってくれた若者がいました。
その人は子どもの頃から物語とか芸術表現に魅了されてきたとのことで、自然なこととして自分も表現者になりたいと思ったようなのですが、
現状の自分では何かを創り出すための人生経験が足りないと感じたそうです。
たしかに経験は必要ですね。私も経験がない頃に比べれば、だいぶ今の方が思い出もボキャブラリーも増え、出会った事例の数も増え、それが心理療法にきっと活かされています。
だから、その若者にも夢に向かって頑張ってね。いつか良い脚本書けるといいねと思うし、そう伝える。
しかし魚豊先生しかり、他の漫画家や小説家しかり、若干20歳そこらで老若男女を魅了する重厚で緻密な物語を生み出せているのは不思議です。
彼らは天才だから、尋常じゃなく博識だから、と言えば片付いてしまいそうなのですが、
必ずしも、世の中のすべてのことを知らないと物語を創れないわけではないということも事実なのかな、と最近は思います。
だって私たちの中には「私」だけがいるとは限らない。
...と言うと病的な感じに聞こえますが、
何かを経験するのはなにか自分だけに起きたオリジナリティなものだも思いがちなのだけど、実は他の人も別の形で似通った経験をしていて、深いところで実はつながっている。
「花が存在している」のではなく、「存在が花している」―
昔教わった、先人の言葉です。
当時(も今も)意味はよく分からないのですが、
きっと私たちの個別な経験も深く本質的なレベルまで下げていけばいくほど、私というのは本当は、存在としかいえない何かがたまたま私という形でこの世に生きてるだけなんだと思わせられる。
それは皆そうで、心の深海に潜れば潜るほど、他の人と同じような形態となって出会うことができる。突き詰めていけば共通の無意識の領域が我々の中にある...これがユング的な発想ですね。
河合隼雄先生が「私、河合やってますねん」と言ったように、
私は私として生まれてきて私として行動することを自分で決めているようでいて、本当は人類の奥底にあるもの「私」の形をとって存在してるだけかもしれない。私は河合です、と言うのではなく河合をやってますと言うのは、根っこでは目の前の人と同じところにいて、ひょっこり現世に河合として顔を出せることになって、名前をもらってますねん、あなたの名前は?というようなことなのでしょうか。
私は私。なんだけど別の人の体験もちょっと分かる。
違う人間のはずなのに、なぜか。
それは繋がっているから。だから、私の中には母もいるし、父もいるし、姉もいるし、妻や息子もいて。そして、この社会の人々もいるんだと思うのです。
マンガでも小説でもドラマの脚本でもなんでも、
きっと自分一人の人生経験だけを使って書いているわけではないんだと思います。
自分への想像力・妄想力を働かせていると、きっとリアリティのあるキャラクターが勝手に立ち現れる。連載当時は何かに描かされているようだった、と表現する漫画家がたまにいます。
描かさせているのは一体誰なんでしょうね。お化け?
でもとにかく、私たちの多くは天才ではないけれど、他の人の人生を想像しようとすることはできるし、なり切ろうとすることも別に迷惑でない。
だからさっきの若者には、たしかに君のいうように人生経験は大事だけど、きっと君の奥底にある様々な存在が、君の想定を超えた物語を作り出してくれるかもしれないよ、とも伝えたくなりました。
書いたり描いたり話したり。遊んだり動いたり演奏したり。
心理療法は型があるようで、実はそんなに明確にはできない。
その中で、何かを表現して、その意味していそうなものをともかく受けとることは、どんな技法の上に立つにしても大事にすべきだろうと思う。
100メートルを全力で走ったことなんて私は無いよ。
でもなぜか泣けてしまう。
トガシの経験を共に体験してしまう。ところどころ、熱くなる、あるいは辛くなる。共感ではなく実感として。
共感的理解とはまた別の次元にあるもので、
心理療法においてはそれは良いものとは言い切れないところはあるのだが。
なにはともあれこの作品は、
あなたにとっての走ることはなんですか?と問いかけている。
それは大胆に言えば、あなたの人生ってなんのためにあるんですかという問いに似ている。
私はそうだな。
たぶん、
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